右へ曲がってみた。
 さらに向かいの角を右へと、万感の想いを込めて曲がる。
 しかし結果は同じ。
 目の前には長い長い廊下が伸びているだけだ。
 迷った……完全に。
 深い深いため息をついた後、壮麗な彫刻が施された柱にもたれかかったジャンは、ずるずるとその場にへたり込んだ。
「どうしよう……ジュラルさん達心配してるかなぁ」
 途方にくれた表情で、高い天井を見上げる。
トイレを探して祝宴会場を抜け出してから、もうたっぷり三〇分は経ってしまったのではないだろうか。
 だいたいこの宮殿は広すぎるのだ。
 そしてその広さに比べて、設置されているトイレの数は異様に少ない。
 現在〈音楽祭〉の祝宴会場となっているこの宮殿の主〈法皇〉レイグリフは純粋高貴な天魔であり、その部下の多くもまた天魔である。
 精神生命体である彼らは、本来一般的生物が行うような「物質を介する体外よりのエネルギー補給」というものを必要としない。仮に人間風の食事をしたとしても、摂取した物質はその体内で純エネルギーへと還元され、活動に一〇〇パーセント使用される。とどのつまり、排泄という生理が存在しない=トイレが必要ないのである。
 そんな彼らの宮殿内に点々と存在するトイレは、今回の〈音楽祭〉のような種々の迎賓、または厳しい審査・試験をパスし、人格・能力共〈法皇〉に認められたわずかな人間達……冥王次官カロン=ステュクスを始めとする高級魔導士官僚などの為だけに作られている。
 とりあえず、いくつかの転移装置を経由した先にトイレを見つけ、用をたしたところまでは良かったものの、ほっとしたのもつかの間、気がつけばさっきから同じ場所を行ったり来たりしている。
 転移先を間違えてしまったのだろうか?
 しかし、何時、どの地点で?
 来た道を必死に頭の中でたどってみるが、延々とループを繰り返すだけで、ちっとも出口は見えてこない。
 誰かに道を尋ねようにも、周りには人っ子一人いない。
 なすすべがない。
「ツイてなさ過ぎ……」
 ジャンがまた一つため息をつこうとしたその時。
「……ここで何をしている?」
 鼻先に突きつけられた白い輝きに、彼の呼吸は止まった。
 いつの間にか、ジャンの目の前には抜剣した二人の兵士が立っていた。

「え……あ、あの……」
「何故人間がここをうろついているのかと聞いている」
「この階より下は、汝らの立ち入りは禁止されている。知らぬとは言わせぬぞ」
 突然の非常事態にしどろもどろになる少年に、兵士は情け容赦なく問い質す。
「い、いや僕は……」
 身動きが取れないまま、それでも必死に言葉を紡ごうとするジャン。
「しかしおかしいな……そもそも転移装置の移動可能範囲内に、この区域は含まれていないはずなのだが……」
「そう言われれば……おい、こいつの霊波形、少しおかしくないか?」
「ん……?ああ、確かに……」
 ジャンに向けられた兵士達の顔には、今や「あやしい」の四文字がはっきりとある。
(ど……どぉしよぉう……)
 僕は何にも悪くない。
 悪いのは全て、会場近くにトイレがないこの宮殿の間取りなんです。
 しかし元来多弁でない自分が、うまく言い逃れようとしたところで、すっかり「問答無用」状態なこの兵士達を納得させる事が出来るだろうか?
 ああ、ここにあのジュラルがいてくれたら……!
 その時。
「剣を納めなさい」
 穏やかでいて力と知性に満ちた声が、廊下に響いた。
「彼は私の客人です……今夜の祝宴について、こちらには何も届いていないのですか?」
 大理石の床に優雅なリズムを刻みながら、こちらに近づいてくる人影がある。
 兵士達の注意はもう黒髪の少年には向けられていなかった。声にならない感嘆のため息に続き、彼らの間に静かな緊張が走る。
 ジャンの鼻先からすっと白刃が引かれた。少年を守るように、すらりとした長身が三者の間に割って入ってきたためである。
「ジャン君、大丈夫かい?」
 親しみの込められた呼びかけに、ジャンはおずおずと顔を上げた。
 王冠を思わせる黄金色の髪をいただいた、男とも女ともつかない神秘的な麗貌。その中でも一際印象的な紫紺の瞳が、春の陽射しのような温かな光を湛えて、ジャンを見つめている。
 一見して目の前の人物が天魔……それも兵士の態度からして、かなり高位の存在である事が容易に想像出来た。
 彼が差し出された手を取ると、無理のない力が加えられ、ジャンはようやく立ち上がる事が出来た。
 その全身を素早く見分の視線が滑る。
「よし……何ともないみたいだね」
 無言で少年がこくりと頷くのを見て、貴人の顔(かんばせ)が艶やかな微笑みに彩られる。そこで初めて純白のマントが翻ると、直立不動で畏まっている兵士達に向け、玉音が発せられた。
「彼がこの禁域に迷い込んでしまったのは、おそらく、見慣れぬ異界の霊波形に転移装置の制御中枢が誤作動を起こしてしまった為でしょう。
 客人は私が一緒に宴席へお連れします。それでは、引き続き階の警邏と、転移装置の安全確認をお願いします。頼みましたよ」
「「御意に……!」」
 労いの込められた言葉が投じられると、二人の兵士は卑屈なまでに恭しく一礼し、虚空に消えた。
「あ、ありがとう……ございます……」
 それを見届け、ジャンが重い口を開く。
「どういたしまして。それじゃあ、行こうか?」
 兵士との応対とは一転し、砕けた口調で話しかけてくる相手に、ジャンは戸惑いを隠せず言った。
「あの……失礼ですが……どこでお会いしましたか?」
 彼の言葉に一瞬、紫紺の瞳に怪訝な色が浮かぶ。そして──
「………………ぷっ。
あはは!いやだな、僕だよジャン君。テルゼ、テルゼ=フォルナー!」
 きょとんとしているジャンを尻目に、白手袋に包まれた手をぱたぱたさせながら、やんごとなき天魔──〈東宮〉セイクリッドことテルゼ=フォルナーは、からからと──実に愉快そうに笑った。

 

 

その頃。
「遅い!遅すぎるわ!一体何時になったら戻ってくるのよ〜ジャン君〜!」
 パーティ会場では、金髪の女性が周囲の視線もどこふく風、苛立ちもあらわに、ブスリとフォークを分厚いステーキに突き立てていた。
「おい、タイタニー。落ち着けよ。みっともないぞ」
 その脇で料理を選んでいたメガネの青年が、小声で彼女を窘める。
「おだまりツトム!
 ああ、ひょっとして道に迷っているんじゃないかしら……私とした事が、やっぱり一緒について行ってあげるべきだったわ。
こんな異界に一人きり。どんな危険が待ち受けているか……」
「お前と二人きりじゃ別の意味で危険だろうが……出るもんも出な……ゲフッ!」
 あきれ声でツッコミを入れてくるメガネの青年──ツトム=アハウに意趣返しの一発を浴びせると、タイタニー=ベルツェルクは、隣席でティーカップを口に運ぼうとしていた黒マント姿の青年に言い放った。
「もうこれ以上辛抱ならないわ!ジュラル!行くわよ私は!」
「待てタイタニー」
 冷静沈着そのものの声が、踵を返したタイタニーを追い駆ける。
 飲みかけた紅茶を静かに受け皿へ戻すと、ジュラル=ガルフィーンは、意気がる美女に切れ長の瞳を傾けた。
「こんな広い宮殿の中だ。行き違いにでもなったら、また面倒な事になる。仮にジャンが道に迷っていたとしても、人里離れた森の中というわけではあるまい、近くの人間に道を尋ねる事ぐらい出来るだろう」
「でも万が一って事もあるじゃない?」
 音楽祭の本番中、さるゲスト同士の衝突によって引き起こされた〈世界の頂〉セントラルホール崩壊事件は、建国以来前代未聞の惨事として、イベントの参加ゲストやスタッフはおろか、今や帝都中の人々が知るところとなっていた。
タイタニーの言わんとしている事をいち早く察して、ジュラルは言葉を続ける。
「あんな事があった後だからこそ、逆に巡回や警備も厳重になっているはずだ。いくらなんでも、事件が起こったその日のうちに新たな暴挙を赦すほど、こちらの人間も甘くはないだろう。
もう少し様子をみるんだ」
「……………わかったわよ」
 理路整然とした意見に、タイタニーは憮然としつつも再びテーブルについた。
 ジュラルはほっと一息つくと、今度こそ芳醇なアールグレイの香りを楽しもうとしたが、
「あ〜!大変です先輩!」
 突如上がった愛弟子の鈴を振るような声に、その手を止める。
「どうしたんだ?ルフィア」
「私ったらうっかり、出演者の方から頂いた色紙を忘れてきてしまいました……多分楽屋だと思うんですけど……どうしましょう」
 すっかりしょげかえってしまっている桃色の髪をした少女に、ジュラルは苦笑すると、
「仕方ないな。今から俺が行って取ってくる」
「え……でも」
「迷子になるんじゃないわよ。ロリコン大将」
 すかさずタイタニーのツッコミが飛ぶ。
「馬鹿を言え──おいおい、お前まで心配してくれるなよ、ルフィア。
 大丈夫だ。すぐ戻るよ」
一方、そんなやりとりの行われていたすぐ近くで、やはりホールの入り口へちらちらと視線を向けつつ、落ち着かない様子でいる一人の少女がいた。

 年のころは十代前半。ルフィア=エアシードとそう変わらない。ややくせのある黒い髪をお下げにして垂らしている。顔立ちはそれなりに可愛らしいが、同時に大変気の強そうな印象を受ける。
「おっそいなぁ……お兄様。何してるんだろう?
 ちょっと史河!」
 とっておきのワンピースの裾をふわりと風に乗せ、振り向きざま史河を怒鳴りつけてきたその少女が、王豹綾葉──彼の妹である。
「だいたい何でテルゼお兄様だけ残業なワケ!絶対おかしいわよコレ!」
 自分は呼び捨てでも、テルゼには『お兄様』ときた。
 もう慣れたとはいえ、この差はやはり実兄として腹立たしい。
 ちょうど春巻きを食べていたところでもあったので、聞こえないふりをしてみる。
 膝の裏に蹴りが入った。無駄な努力だった……
「んな事僕に言われたって……仕方ないだろ?テルゼはスタッフも兼ねてるんだからさぁ」
 春巻きにしばし別れを告げ、仏頂面で振り返った史河に、綾葉はなおも納得行かない様子で声を荒げる。
「仕方なくないわよ!だってほら、そこのダレンフィム様と話してる女の人とか、あっちの酔っぱらってる男の人とか!企画スタッフもみんな揃って来てるじゃない!」
「ジュヌヴィエーヴさんにマクベスさん……主要スタッフの名前くらいちゃんと覚えておけよ……まぁ、テルゼの仕事ったら何もコンサート関係の事とは限らないだろうし……いやいや、案外誰かと逢引きとかしてたりし……てないよきっとうん間違いなく」
 妹の自分を見る目に殺気を感じ、慌ててセリフを訂正する史河。
「お兄様に限って、んな事があるわけないでしょ。
誰かさんと違ってお兄様は清廉潔白なんだから。約束を破るような不誠実な真似はしないもの」
「別にお前がテルゼに対して夢見るのは勝手だけどさ……あ〜!」
 狙っていた抹茶プリンの最後の一つを無情にも奪い去られ、史河はがっくりと肩を落とす。
『一緒には行けないけど、後から必ず行くから』
 パーティー会場へ移動する際、彼は確かにそう告げた。さらに綾葉が口にしたちょっとした『お願い』にも、苦笑しつつ応じてくれた。
 そう約束した以上、テルゼは来てくれるはずだ。
 とはいえ……
 綾葉は会場内をぐるりと見回した。
なんでこんなにカップルが多いかな……(しかも美形ばかり)
 貴宮先輩も何だかんだ言って、ちゃっかりレイグリフ様の傍にいるんだから隅に置けない。
最後にちらりと、すぐ横のテーブルを見やる。
 そこにはやや古風な衣装に黒いマントを羽織った凛々しい顔立ちの青年と、淡い髪色の小柄な少女の姿があった。
(何かいい雰囲気……)
それに比べて……
意地汚く胃袋に入るだけ料理を詰め込んでいる、情けない実の兄の姿を見て、綾葉は深々とため息をついた。
(ジュラルさんだっけ……カッコイイ〜……クールに見えて意外と優しそうだし……ビジュアル的に結構タイプかも。
は!何を言っているの綾葉!浮気だなんてお兄様への裏切りよ!そうよ!お兄様の方がずっとパーフェクトにカッコイイんだから!)
ふるふるっと頭を振って迷いを断つ。
(早く来て、お兄様)
 手の内の抹茶プリンを見つめ、綾葉は今まさにこちらに向かっているであろう、その人に想いをはせた。