幸い棲むと 人の言う

 

 今にも雨が降り出しそうな空は曇り、ぼんやりとした光を辺りに投げかけている。
 

 ふと書類から目を上げたドラクロワは、冴えない色をした空を見上げて小さく息を吐いた。
 端正な横顔に憂いを纏わりつかせながら、眺めるのは遥か遠く。
 傍らに控えていたジークがその何処か透徹とした横顔に思わず目を奪われたのは一度や二度の話ではなく、その時に感じた胸の奥に突き刺さるような思いは、あれから時を経た今でも全く色褪せていない。寧ろ離れている今だからこそ、その思いはますます鋭利に心に突き刺さってくるようだった。


 あの時……と、今同じような空を眺めながら黒印の騎士は思う。目を閉じて、今は離れた人の名を呼んだ。
 
 ……ドラクロワ。

 彼はこの空を、見ているのだろうか。
 

 

 

 もし、自分が、とジークは時々思うことがある。
 自分が、剣奴などでは無く、例えば彼に古くから仕えている執事か何かだとしたら、彼はこれほどまでに深い孤独を見ることは無かったのではないだろうか。
 深い蒼の瞳で遠くを眺めるような表情をするドラクロワを見る度、そんなことを考えた。その時も自分で思っているより考え込んでしまっていたらしく、ドラクロワは微かに訝しげに首を傾げて聞いて来た。
「……どうした、ジーク。」
「いや、何でもない。」
 気がつけば、ジークは部屋の入り口で書類を抱えて立ち尽くしていた。ドアが開く音を聞きつけたドラクロワが首をかしげるほど見とれていたのかと内心真っ赤になりそうになりながらも、いや実際なりかけたからこそ、ジークは素早く腕一杯に抱えていた書類を置いた。
「これだろう、捜していた書類。」
「ああ……済まないな。」
 笑みを浮かべて、ドラクロワは彼が持ってきた書類を見遣る。その顔が驚愕に彩られたのは本当に次の瞬間で、まるで子供に脅かされた鳩のような、彼が滅多に浮かべることの無い呆気に撮られた表情でまじまじとジークを見上げた。
 常に二手三手を先に読んで来た若き枢機卿の頭脳でも、この展開は読みきれなかったらしい……そう考えると、ジークは少し奇妙な気分にもなるが、普段見られない顔をさせたのが自分だけだと思うと、何処と無く得意さも感じずにはいられなかった。
 彼が持ってきたのは聖印の詳細な導き出し方が記された、聖法庁お抱えの図書館が厳密に秘蔵しているいわゆる禁書だ。
 民衆の間に聖印を普及させる法案の成立は通ったものの、聖法庁は禁書を持ち出すことには首を縦に振らず……それは実質上、聖印の普及を阻害すること以外の何者でもなかったが……彼らの法案は、ラクロワ聖堂に伝わってきた聖印だけで開始しなければならない状態になっていた。
 ドラクロワは土地だけでなく水質を改善する聖印をも伝えたいと頭を悩ませていたのだが……その問題を解決した当のジークは、いたって平然とした表情をしている。
「一体、どうやって?」
「……俺の力じゃない。これ以上は口外しないことが条件になっていたから言えないが……お前なら判るだろ、ドラクロワ。」
 瞬間悩んだものの何か思い当たることがあったのか、ドラクロワはぽん、と手を叩いた。確認するために既に用無しになっていた書類の端に小さく「シーラか?」と書き付けると、ジークは微かに頷き「聖地シャイオンにおける銀の乙女代表としての活躍の褒章として、一週間の禁書の解禁を申し出たらしい。」とその下に書き付けた。
 騎士や貴族と違い、銀の乙女個人が個人で褒章を受けることは無い。シーラの例は異例といえば異例ではあったが、それがドラクロワに恩を売るための聖王の策だったと考えれば何ら疑問は無かった。王の年の離れた弟が権力をつけ、王を追い落とそうと企んでいるというのは宮廷内でも専らの噂であり、その対抗権力として聖王がドラクロワを用いようと考えるのはごくごく自然の流れだ。
 納得したような表情のドラクロワだったが、ふと何かに思い当たったのか、
「……もしや、知っていたのか、ジーク?」
「口外しないことになっている。」
 少々恨めしそうに問い掛ける。ジークはしれっとした表情で答えるが、何処と無く楽しそうに見えたのは彼の気のせいではないだろう。
「……お前もシーラも、段々策士になって来たな。」
「お前に似てきたんだよ、ドラクロワ。」
 その証拠に、答えたジークの声は微かに笑いを含んでいた。図られた、と苦笑した彼もつられたように笑い、シーラがここに居れば、もっと笑われたに違いない、と零す。
 そこにシーラが悪戯っぽい笑みを浮かべて部屋に入って来た時は、流石にジークも堪えきれなくなったのか噴出した。シーラが来るということをジークが知っていた訳では無いが、恐らく彼女が二人を驚かせようとしてわざと行ったということは容易に想像がついたからだ。




 今思い返せば、信じられないほど幸せな日々。
 例え彼の思いが、自分ではなく翡翠の目をした聖女に向けられていたのだと思い込んでいて悩んだことがあったにしても、それは今と比べればほんの僅かな苦痛だった。シーラとドラクロワが結ばれて幸せになるのだったら、それはそれで良いのだと納得するだけの思いを彼は持っていたのだ。
 何よりも彼が望んだのは、只一つ。
 孤独の翳りをどこかに抱えながらもあの美しい笑みを浮かべて未来へと進む、大切な青年の幸福。
 彼が孤独を見なくて済むならば、それが自分の喜びだろうとジークは思っていた。時折湧き上がってくるそれと相反する思いは、もしその思いを吐露してしまったら何が起こるか判らないという不安が瞬時に捻じ伏せた。
 自分がドラクロワを失うのが怖かったのか、ドラクロワに自分を失わせるのが怖かったのか、思いに口を閉ざした理由が今となってはやっと判ったような気がしている。
 だがその時は、自分の感情に振り回され過ぎて、何も見えては居なかった。
 そんなジークに薄々感づいていたのだろうか、シーラがある日……それは聖騎士になりたくないと、下らない意地を張った日だったか……そっと声を掛けてきた。貴方がドラクロワの鏡と成り得るけれど、私は違う……と。
「シーラは、そういう風に、見て欲しいのか?ドラクロワから?」
 思わず顔を強張らせて聞いたジークの言葉を、彼女はゆっくりと頭をふって否定した。
「違うわ、ジーク。私は―─」
「シーラ、もし、俺が、お前にとって邪魔なら……俺は……」
 何時でも去る、と言いかけた瞬間、シーラがやや厳しい表情をジークに向けた……それの意味するところは、恐らく自分の影響力を判って居ない彼に対する叱責だったのだろう。その時はそうはっきりと理解した訳では無く何となく判っただけだが、時を戻して確認すれば、恐らくシーラはそうだと認めただろう。
 それからそのことが話題に上ることは無かった。日々は変わらず流れていくかに思われたし、その中で自分達は確実に理想に近づけているのだと三人は確信して疑わなかった。

 


 だが、運命の流れは幸せだった者達を過酷な運命へと追いやった。
 ジークが弟王を斬ろうとした時から歯車は狂い始めて悲鳴を上げ、シーラが死んだ日に、二度と元に戻せない程の亀裂を生じさせた。
 投獄されたドラクロワはかつての彼とはどこか異なった存在になってしまったように感じられたが、ジークには為す術も無く。ただ外典がもたらす苦痛に苦しむ彼を見ては彼を救えない無力さに唇を噛む日が続いた。何処か遠く、自分さえも拒んで、彼は何処に行こうとしているのか。
 そんな暗雲のような日々が続くかと思われたある日、それはドラクロワが脱走する前日だっただろうか……面会に来たジークに、珍しく彼が歩み寄って来た事があった。
 鉄格子を一枚隔てたその美貌には僅かに憔悴の色が浮かび、白い肌はどことなく青褪めているようだったが、それでもその時のドラクロワはここ数週間の彼と比べれば遥かに元の彼らしい雰囲気を醸し出していたので、時ならずともジークは安堵する。
 ドラクロワは微かに微笑すると、すっと格子越しにジークに手を伸ばしてきた。想像もつかないほど間近で見たその瞳が、微かに泣きそうに濡れているのに気付いた瞬間……反射的にジークは、相手を抱き締めていた。
 何を言えば良いのかも判らないままの反射的な行為だったが、驚いた事にドラクロワは……笑ったのだ。それは久しく聞いたことの無かった、穏やかで…どこか満足したような笑い声だった。
「……お前に、一つだけ、」
 暫く黙ったままだったドラクロワが、不意に口を開く。一つだけ、と言う言葉に奇妙なひっかかりを感じたジークが、訝しげに問い返すが、それには答えずに彼は穏やかに続ける。
「……言っておきたいことがあった。」
 まだどこかに痛みがあるのか、喋るたびに零れる息はやや熱が篭っている。知らない内に腕に力を込めてしまっていたことに気付き、慌てて緩めながら問い掛けたが、声が動揺と緊張に震えることまでは止められなかった。
「……何だ。何でも言ってくれ。」
「……お前が、」
 そこでまた言葉が途切れる。ドラクロワの口調は、どこか終わりを孕んでいるようで、同時に期待を煽るような何かを含んでいた。乱れ交う憶測はいっそ陶酔をもたらし、このまま時間が止まればいい、と彼は願わずにはいられない。
「……消えるのが怖くて、言えなかった。……」
「……」
「……お前が離れていくのが、一番怖かった……。今でも、まだ、恐ろしくて仕方が無い……」
「……何を言っているんだ……?俺が離れる?どうして。」
 その問いにはドラクロワは答えなかった。ジークの腕を振り解くように身を離し、真っ直ぐに彼を見つめて。
「……愛している……と。それだけを伝えておきたかった。」
 どんな意味で、と問い返すのは愚かだった。その意味を瞬時に理解したものの、どうして―─今―─俺も―─……様々な感情が脳裏を巡り、どれ一つとして言葉にはならず、ジークは彼を見つめる。叫びだしたいような衝動に駆られながら、何とか搾り出した声は、有り余る感情を伝えきることは出来なかった。
「……俺も、同じだ。」
 仮に時間があったとしても、彼の思いを伝えきることは出来なかっただろう。言外の思いを読み取ったか、白皙の美貌が微笑し……その笑みを最後に記憶は牢から部屋に移っているが、どうやって部屋に戻ったかジークは覚えていない。恐らくアンブローシャの能力を応用した幻術の作用だろうとぼんやりとは思ったが、確認する術は無く、いつの間にか時間は聖王に命じられた任務を行う時刻になっていた。
 結局、ドラクロワに再び面会に行ったのは翌日…そこでジークが見たものは皆殺しにされた牢番達と、空っぽになった牢だった。
 

 その時、ジークは悟ったのだ。
 あれが彼の、自ら手を離すことに対する宣告だったのだと。
 

 
「ジーク様、どうやらアーシアさんが道を見つけたみたいです!」
 彼を回想から引き戻したのは、従者であるノヴィアの声だった。返事をしながらジークは立ち上がり、空を見上げる。
 ……争いあうことが最後の絆。
 憂いの目で空を見上げていたドラクロワを思い出しかつて彼が呟いたことを繰り返すと、それは何よりも彼らの本質を現しているようだった。
 だとしたら、その絆は決して、誰にも、渡しはしない。例えそれが彼の命を奪う行為につながったとしても、他の誰かにその絆を奪われることを考えれば、自分は恐らく躊躇わずに剣を振るうだろう。
 それが、今も昔も変わらず想う彼への、対する考えうる限りで最良の返答だった。あの時牢の中で震えながら小さく呟かれた言葉がもたらした喜びに報いるために。争いという名の絆の先にあるのは、かつて望んだもの。
「もう、二度と、お前に俺を失わせはしない。」
 自分が失う痛みより、彼が失う痛みを想像することが余程耐えられないということに気付いた頃には、絆の形は随分といびつなものに変化してしまっていたが、それでもまだ其処にしっかりと横たわっている。
 かつて、自分が、ドラクロワに古くから仕える執事か何かだったら良い、と想像したことをジークはふと思い出した。彼が幼い頃体験したあの悲惨な裏切りの時、自分一人でも彼のそばについてやれたら、と。幸せだった頃はよく考えたが聖王の命で彼を追うようになってからは一度も考えたことのなかった想像は、次こそは間違えるな、との叱咤の言葉となって彼に突き刺さる。
 判っている、とジークは胸の中だけで呟いた。

  ―─今度こそは、決して間違えない。

 

またしても蒼牙様から素敵なキリリク小説を頂いてしまいました。見ての通り、もちろんジードラ。しかしラブ度は前作よりさらにアップし、格子越しのハグに管理人大興奮。

実は私自身、大分前から『地下牢での密事』は書いてみたいと妄想を膨らませていたのです。

ツボ突き過ぎで『安倍氏ッ!(by『北斗の拳』)。

連続リク&連続テーマを見事に消化して下さった蒼牙様に敬礼。

ありがとうございました。

 

 

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