〈天魔〉に『忘却』という概念は存在しない。
積み重ねられた経験、蓄積された記憶は、望む望まないに関らず、己の全てが滅するその瞬間まで共に在り続ける。
仮に、特定された記憶を手繰り寄せる事が出来ない場合、それは自らが無意識下へと圧縮し、封印をしている為か、他者による情報操作のどちらかに起因している。
しかし、どちらにしろ、一度眠りについた記憶を再生させるには、多大な労力を要するのと、外部からの刺激や協力が必要不可欠になってくるのは言うまでもなく、それらのプロセスは何ら人間達と変わらない。

〈天魔〉には『死』という概念すら存在しない。
現世における肉体が朽ちると、以前とは別個の存在として〈転生〉する多くの生物達とは異なり、元来、『器』による制約と境界を持たない彼等は、常に三界を自在に移動し、力を振るう事が出来る。
とは言え、〈魂〉が磨耗し、〈意識〉〈記憶〉〈力〉の繋がりが解けてしまえば、それはもう次元の狭間をあてなく彷徨うエネルギー塊に過ぎず、生命の尊厳を見出すのも愚かしい。
 故に……

「……故に宇宙は今日も平和だ。
否、『だった』と言うべきか」
「どういうことだね?ノアよ」
 どこか皮肉っぽい口調で呟き、周辺空間の情報を走査し始めた傍らの人物に、貴人は一つの予感を覚え、秀麗な眉根を寄せた。

〈聖都〉を離れ幾光年。星の海を慣性に任せ、ゆったりと進む航宙艦内の空気は、港を離れてから未だ変わらず穏やかだ。しかし、いくらその造りが典雅であり、乗員が礼節を弁えていようとも、自分が今座乗する船とその主が持つ本来の使命が、旅客遊覧などにない事は、端から分りきっていた事である。
 皇立国防軍天空艦隊総旗艦〈クラウ・ソラス〉。その中枢部たる司令座艦橋。
『不敗の聖剣』をその名に持つ国防軍最強の戦艦を指揮するのは、その名に恥じぬ猛者であり、彼の気心の知れた旧友だった。
「そのままの意味だ。見るが良い」
 膨大な情報の洪水から抜き出した幾つかの数値から、一瞬にしてグラフを創り出すと、ノア=テスラ=デア=ウォルフライエ元帥長は、それを隣席の人物にだけ分るよう、直接その意識へと転送した。
「これは……時空乱流の波動パターン?」
「そうだ。ここ数日〈本国〉近界に発生している乱流のものだ。
その変動値と通過コースをここ一〇年の平均データと比べてみろ」
言われて彼は、さっそく送られてきたデータに目を通す。
「ほう、妙だな」
「だろう?」
 我が意を得たり、という顔でウォルフライエは続けた。
「この一見風変わりな乱流は、発生する度に規模を増しながら、徐々に本星系へと接近しているようだ。
 まるで──」
「意思ある〈台風〉(テュポン)がごとく」
 重ねられた貴人の言葉にウォルフライエは満足げに頷いた後、すぐさまその答えを否定した。
「もっとも、かの名高き〈巨神〉(テュポン)であれば、年若な者はともかく、我々世代の〈天魔〉が気づかないはずがあるまい」
「それもそうだな。
 しかしてノア。君はこのデータを持って私に何を言いたいのだ」
「ちょうど今、これにごく近いパターンの微細動波を拾った。どうやらまた件の乱流が発生しようとしているらしい」
「何だと?だが、哨戒担当からは一言も……」
 今も昔も時空乱流は種族を問わない自然的驚異だ。それは次元をさ迷う嵐であり、下手に巻き込まれれば、副産物である〈虫食い穴〉(ワームホール)を通じてとんでもない時代・世界に飛ばされ、永遠に次元の狭間をさ迷う事になりかねない。最悪、消滅という事もありえるのだ。亜空間移動を繰り返す航宙艦は、常にその存在を警戒していなければならなかった。
 ところが視線を向けた先にいるオペレーターは、今も計器類と睨めっこしたまま、身じろぎもしない。
「艦のセンサーにはまだ何ら兆候らしい兆候は出ていない。位置もかなり離れているしな。これはあくまで私自身の感覚によるものだ」
 さらりと言ってのける旧友に、貴人は感嘆を通り越し、呆れた声で返した。
「まったく……何故これほどの実力を持ちながら、君は私の護衛などに甘んじているのかね?いい加減、〈十二柱〉に復帰したらどうだ。〈軍王〉ノアよ」
「私はこの『ウォルフライエ』の名が気に入っているのだ。『アフラロイド』なぞ好かん。だいいち語呂が悪い。」
「語呂の問題ではないだろう」
 子供のような理由をもっともらしく掲げてごねる元〈魔皇〉の端正な顔に、一瞬影が落ちる。
「それに外に出て初めて見えるもの──思い出せることも多いのだよ」
「そうか」
 神妙で意味深げなその言葉にそれ以上意識を払うことなく、彼は話題を戻すことにした。

「それで、例の乱流の発生座標は特定出来ないのか?出来れば周囲の艦船に知らせた方がよかろう」
「出来ない事はないが……本来それはここにいる私の役目ではないはずなのだがな」
 ウォルフライエは機密・一般問わず、艦が使用する全ての回線を開くと、情報ウィンドウを目の前に表示させた。
「これだけ大規模で変則的な乱流が短期間に続けて発生しているにも関らず、だ。本部から何の警告も発令されてこなければ、各艦隊の哨戒航路にも何ら変化が見られない。
 確かにこの乱流────あるいは乱流のふりをしている〈何か〉は、いささか特殊ではあるが、〈聖都〉には〈護戦神〉は無論、〈全知神〉まで居られるのだ。他の者ならいざ知らず、あの方々が見逃されるはずがない」
「命令系統が断絶されているという事か?」
「参謀総長と連絡を試みたが、いまだに返信はない」
 応(いら)えに貴人はさらにその表情と声を固くした。
「まさか〈本国〉に何かあったのではあるまいな?」
「あまりにも考え難いが、その可能性が高いと言わざるを得ない」
「だとするとこの乱流……ますます臭うな」
「ああ。しかし今は憶測を重ねるよりも、先にやらねばならぬ事がある」
 ウォルフライエが手際よく割り出した乱流の発生予測地点と規模を見て、彼は目を見開いた。
「乱流が……〈聖都〉を直撃する……!」

 

 

永久(とこしえ)の夜の中にあってなお暗き闇を〈それ〉は放出していた。
 上下左右は意味を成さず、距離や時間をも超越した空間に、大人の拳大ほどの大きさの多面体が浮遊している。
 脈打つように闇を生み出す〈それ〉は、見る瞬間ごとに色彩を変調させつつ、形状すら歪ませながら、まるで踊るがごとく、気まぐれな存在を主張し続けていた。
 どれくらいの時間が経った頃であろうか。あるいは刹那の間だったのかもしれない。
 多面体から、細く白いものが伸びた。
 やがて現れ出でたものは、優雅さと力強さを併せ持つ、五本の指を形作るに到る。
 白手袋に包まれた人間の手。
 そこからさらに腕が続き、ほどなく闇の中に一人の男の姿が生み出された。
 

男は掌に収めた多面体を弄(いら)いながら、今も黒き光を放ち続けるこの不可思議な物質へ、氷のように冷ややかで、それでいて焔のように苛烈な瞳を向けた。
「美しいな……忌まわしいほどに美しいではないか。
 まるでこの〈世界〉のように」
 均整のとれた唇から荘厳に響く言霊が漏れた。
「ほう。〈それ〉を手に取り、未だ意思を保ち続けておられるとは……さすがは〈神〉。我々に近しい存在だけありますな」
 言霊に招かれたか、闇の中に今ひとつ気配が生まれた。
 何の前触れもなく、闇に輪郭を滲ませた黒衣の人物が、男のすぐ背後の虚空に佇んでいる。
しかし、そんな突然の来訪者にも眉一つ動かす事無く、男は相変わらず、ただ静かに言葉を紡いだ。
「我等がいかなる存在であるか定めるのは我等にあらず。我等を求めし者達は、貴公を含め、数多の名で我等を呼んできた」
 男が掲げた多面体の輝きが禍々しさを伴い、にわかに増した。その身に纏いし臙脂色の法衣が、見えざる力を孕んで大きく波打つ。
「森羅万象の理を統べし存在。永遠の現在に在りながら過去を率いて未来を御する。全てを持つが故に全てを失い、望まれる為に望む事を赦されぬ者──」
 星々を砕きかねないほどの力をその身に受けながら、〈神〉と称された男は、多面体を掲げる腕とは逆の手中に、招きよせた得物を握った。
「しかし我等が始祖より賜れし真名はただ一つ」
 手にした太刀を振りかぶり、朗々と告げる。
 開幕の時を。
「賜れるべき真名はただ一つ」
 多面体と神器が男の頭上で重ねられた。
「今こそ知らしめよう。埋もれし〈真実〉を。閉ざされし〈歴史〉を。〈世界〉の主が何たるかを」
 多面体が──その発する力の全てが太刀の刃へと吸い込まれていく。
「光あれ」
暗黒を切り裂き、刃が振り下ろされた。
凶暴な力が、大いなる悪意が解き放たれる。
刃を中心に全てが白で塗りつぶされていく。
「往くがよい。強壮なる使者よ。古の支配者達よ。全ての死期を告げるために」
(のり)が崩壊し、空間が砕けた。
鎧っていた偽りと闇が消え去り、空は本来の時を取り戻す。
 そこにただ一人遺された男は、眼下に在る蒼い星を見て目を細めた。
「来るべきこの時。もはや賽は投げられたぞ。我が半身よ」
星々が照らし讃えるその性差を超越した美貌は、かのダレンフィムと酷似していた。

 

 

夜半。静まり返った宮殿の一角に、ラファスーンはその主の姿を認めた。
「君が私一人を呼び出すとは珍しい。一体何用だね?」
 いずことも知れぬ場所を見つめたまま振り向きもしない、蒼い法衣に包まれた背中に向かって、彼は殊更明るく声をかけた。
「私に予言は出来ない」
 問いには答えず、ダレンフィムは詩でも吟ずるかのような調子で語り出した。
「遥かな未来と、過ぎ去りし過去の事象は、不可知の領域なのだ。私が与えられるのは〈真理〉でも〈叡智〉でもない。ただの〈情報〉であり〈可能性〉だ」
 肩からの白い外套を翻し、御稜威の王はラファスーンと対峙する。
「だが、これから起こるであろう危機は想像に難くない」
 瑠璃を帯びた銀髪の間から覗く翡翠の瞳には、穏やかな口調とは裏腹に、灼熱を帯びた苛烈な意思を宿らせている。
「貴方の力が必要になるだろう……その時は、よろしく頼む」
「どうしたんだ。いきなり改まって。
まさか……君……」
 彼の言葉から一つの結論を導き出し、口に乗せようとしたラファスーンを手で制して、ダレンフィムは天空を仰ぎ見て言い放った。
「私は託す事を恐れはしない。この答えと覚悟、身をもって証明してみせよう……それだけの事だ」


 先ほどから開け放たれたままになっている通信回線は、〈本国〉に起きた未曾有の事態を、頼みもしないのに引っ切り無しに伝えてくる。これに指揮下の艦隊も少なからず動揺しているようだった。
「まあ、無理はなかろうな」
 それでも自身は、あくまで、周囲から見れば腹立たしいほど落ち着き払った──むしろ呑気とも言える口調で、ウォルフライエは呟いた。
 〈本国〉近界に大型の時空乱流が発生。ほぼ時を同じくして〈聖都〉上空──よりにもよって〈世界の頂〉の目と鼻の先に、正体不明の異相空間が今も膨張し続けている。
 この時期、この規模、この座標。いちいち指摘されるまでもなく、主席提督は〈聖都〉を襲った災禍が自然によるものではないと判断していた。
「まるで仕組まれたようだな」
「実際、仕組まれたのだろうよ。我等の与り知らぬところでな」
 戦火に包まれる〈聖都〉をモニターの先に透かし見て、かつて〈神〉にその名を連ねた者は薄く微笑んだ。
「幾星霜の時を超え、ついにその真の姿を蘇らせるか……紅き〈全知神〉よ」


 それぞれの者の様々な思惑が交錯し、舞台の幕は上がる。