ベッドに入るまでの間、綾葉は緊張しっ放しであった。
(お兄様だって疲れてるのに、こんな事させちゃって……しかも今夜かなり食べ込んじゃったけど……重くないかなぁ私……)
 そんな心配をよそに、テルゼの足取りはまったく乱れる様子はなく、小柄な少女とはいえ、人一人抱えているのが信じられないほど軽やかだ。常人とは根本的に体力や鍛え方が違うのだろう。
 その後も危なげなく、綾葉の部屋の前まで辿り着いたテルゼは、片手だけで綾葉を支えたままロックを解除すると、悠々とドアをくぐり抜け、そっと彼女をベッドに下ろした。
「ありがと……重くなかった?」
 綾葉が恥ずかしそうに言うと、
「いやぁ全然。
 まるで羽のように軽い……とまでは言えないけどね」
 くすり、と笑ってテルゼが答える。繊麗な表情は、見る者に彼が男性であるという事実を一瞬忘れさせてしまう。
 美人は三日で飽きる、という言葉が存在するが、今ではそれは嘘だと綾葉は思っている。三日で飽きる程度の美人は本物の美人ではないのだ。
 そんな持論の確たる根拠となっている青年は、綾葉が大人しく横になるのを見守って、そのまま傍らに腰を下ろした。

「どう?やっぱりまだ眠れそうにないかい?」
「うん……ごめん」
「別に謝らなくてもいいよ。
 今からとっておきのおまじないをしてあげるから、楽しい夢を見ておいで」
 子守唄を思わせる、やわらかで温かい響き。
 テルゼの手が、そっと綾葉の手に添えられる。
 まるで魔法にかかったように、綾葉は瞼を閉じた。
 同時に腹部の辺りから優しいリズムが──鼓動と合わせるように一定の速度で、あの懐かしい、夢の扉をノックする音が伝わってくる。
「昔……眠れなかった時、母がこうしてずっと傍にいてくれてね……どんなに怖い夢を見た後でも、不思議と瞼が落ちていたよ」
 ぽんぽんと、根気よく手を動かしながら、テルゼが囁く。
「私も……よくしてもらってた……」
 早くも心地よい倦怠感が、綾葉の全身を包みつつある。
 なぜ、ここまで彼は自分に優しくしてくれるのだろう。
 血の繋がりもなく、あまつさえ人知を超越した力──神の存在を確かに継承する貴い人であるのに。
 以前、彼が地球にやって来たのは、任務のためと聞いた。
 その便宜上、自分たちと生活を共にしているとも。
 でも、たったそれだけの理由で人間として生きているとは到底思えないほど、彼の存在は自然と日常の中に溶け込み、彼自身、不便であるはずの生活を楽しんでいるようにさえ見える。
 不思議な人だ。
 綾葉から見れば、テルゼは本当に他愛もない事で時に喜び、怒り、涙する。戦っている時や、今日のような公の場ではとても凛々しく、冷静沈着で格好良いのに、普段の生活で見せる表情は人間以上に人間らしく、無邪気で可愛らしい。
 実年齢よりはるかに老成していて、頼りがいのある反面、どこか非常に幼く、危うい印象があるのだ。このテルゼという男性は。
 だからこそ目が離せなくて、おこがましいとは思うけれど、出来る限り傍にいて支えてあげたい。そう思うのだが……
(実情はといえば、支えるどころか頼ってばっかしなのよね……)
 心の中でため息。
(もっと私が大人だったらなぁ……)
 テルゼの方も、自分が女性だとは全然意識していないだろう。今もこうしてすっかり子供扱いだし。
 決して悪意はないとわかってはいるのだが、ちょっと悔しい。
 でも、やっぱり嬉しい。
 彼の掛け値なしの愛情とぬくもりを感じながら、綾葉の意識はまどろみに溶け始めていた。
(これから頑張って、少しでも早く、お兄様に相応しい〈大人の女性〉になってやるんだから!
 だから……もう少しだけ、甘えていてもいいよね?)

 

 

(あの人も……こんな気持ちで僕を抱いていたのだろうか)
 穏やかな寝息をたて始めた少女を見つめながら、テルゼは思った。
 まだ何も知らず……毎日が幸せだった幼き日々。
 あの人に対するわだかまりもなく、その愛情を素直に享受し、いずれは返したいと願っていた時間も、今は遠い。
 あんな事がなければ今頃、酒を酌み交わしながら、朝まで語らう機会もあっただろうか。
 綾葉の額に軽く口づけた後、テルゼは静かに部屋を出た。
「……あれからもう九年──いや、一〇年になるのか」
 呟くテルゼの横顔には、どこか翳りがあった。

 忘れようにも忘れられない。
 全てはあの時、あの場所から始まった。
 それまで大切にしていたもの、信じていたものがあっけなく崩れ去り、重い宿業だけが残された絶望の淵。何度となく繰り返された自問自答の果て、選択した新たな戦いの道。
 後悔はしていない。代償は大きかったが、あのまま信念の残骸を握り締めていたよりも、得られたものはあったはずだ。でも……
「帰りたいですか?」
 唐突に。
 何の前触れもなく。
 その場に気配が生まれた。
「これは失礼。聞くまでもありませんでしたね。貴方の望郷の念がいかほどのものであるかは、先程のお嬢さんとの会話の中でも十二分に伝わってきました故に……」
 テルゼはゆっくりと振り返った。紫紺の瞳に宿るのは慈しみの光ではなく、絶対零度の闘気──天を貫き闇を打ち据える雷霆の輝きだ。
 その底知れぬ敵意を孕んだ視線の先には、あの時見た悪夢の化身──黒衣の姿があった。
「改めてご挨拶に参りました。〈東宮〉セイクリッド=ダーウェル=アフラロイド殿下。いや、テルゼ=フォルナー殿とお呼びした方がよろしいですかな?」
 常人なら一瞥しただけで心臓発作を起こしかねない、凄絶な眼光を平然と受け止めながら、低い男の声で「それ」は言葉を続けた。
「いやはや、実に感動的な場面を拝見させて頂き、光栄に存じます。相手を想い、悲しみを堪え振舞う美挙。やはり貴方は私の期待を裏切らない、素晴らしい〈叡智〉をお持ちだ」
 親しげなようでいて、無数の氷針を含んだ声色。その賞賛は侮蔑と同義である。
「心中お察し致します。つくづく無知とは罪深く、残酷なものですね。貴方は故郷に『帰らない』のではなく、『帰れない』というのに。あのお嬢さんときたら……」
「……愚弄してくれるな」
 発せられた声は、自分でも驚くほど感情の抜け落ちた、非人間的なものだった。
「まずは名乗るがいい。礼節もわきまえぬ痴れ者の話に傾ける耳を私は持っていない」
 鋼刃めいた東宮の言葉に、黒衣はこの上なく慇懃な挙措で一礼した。
「申し遅れました。
私は古なるもの。這い寄る混沌。百万の愛でられしものの父。虚無の受諾者──我が名はナイアーラトテップ」
 黒衣の言葉の最後は通常の音声ではなく、一種の思念波としてテルゼに届いた。
「旧き時の支配者に先立ち、この地に遣わされた次第。以後お見知りおきを」
(旧き時の支配者……)
 脳裏にフラッシュバックするイメージがある。
「……招かれざる使者よ」
 こみ上げてくる吐き気を微塵も感じさせない、冷徹極まる表情と声で、テルゼは言った。
「敢えて聞く。如何なる訳あってこの地へと降り立った?そして何故(なにゆえ)あのようなものを私に見せる?」
「おかしな事をおっしゃいますね」
 黒衣の声は相変わらず不気味なほど静かだ。
「私は何もお見せしてはいませんよ。あなた達が〈視た〉のでしょう?」
 紫電の瞳がすっと細まった。
「どういう事だ」
「そのままの意味ですよ。
 最初の質問については……そうですね。今ここで答えるのは控えておきましょう。幕が上がればすぐに分かる事。そしてその時はもう間もなく──」
「ならば最後に問う」
「なんなりと」
「……お前は敵か?」
「そうだ、と答えたら?」
 白皙の美貌に微笑みが閃いた。しかし、それは今しがた少女に向けていたものとは、まったくもって性質の異なるものだった。
「剣を抜く機会がまた一つ増える。そして、その切っ先をお前に向ける可能性もまた増える……それだけだ」
 冷笑の一言で済ますには、あまりに凄惨過ぎる破顔。その変貌ぶりはまるで、内側にある人格だけが、他の何者かとすり代わってしまったかのようだった。

「小気味よいお返事、耳が痛い限りです。
 ……それでは時間が差し迫ってまいりましたので、これにて失礼させて頂きます。またいずれお会い致しましょう」
 おもむろに黒衣が動いた。
 こちらに向かい、床の上を滑走して来る。
 テルゼは傲然と「それ」を睨めつけたまま、動かない。
 そして、すれ違う一瞬。
「いやはや、それにしても──」
 やおら耳元で黒衣が囁いた。
「本当によく似ていらっしゃる──『あの方』と」
それまでの会話とは何の関連性もなさそうに思える内容と気軽な調子。だが、あれほど頑なであった東宮のポーカーフェイスが、ごくわずかながらも崩されたのは、まさにその瞬間だった。
「……ふん」
 テルゼはうなじの留め紐に手を伸ばすと、結び目を解いた。
 金糸がなびき、肩へと降り落ちる。
「言われなくてもわかっているさ。嫌というほどにな」
 気配を断っただけで、おそらく、今もどこかでこちらを窺っているであろう相手に、テルゼは毒づいた。
「それにしても……なんて奴だ」
 言って彼は指を鳴らした。
 刹那、周囲の空間に無数の光が生まれ、弾け散った。
 対峙している最中、テルゼは幾重もの法陣を展開し、〈火種〉を空間に設置していたのだが、黒衣は平然とそれらを突破し、虚空に消えた。
 それもただの空間転移ではない。捕縛は勿論、いかなる手段を用いたものか、転移先を追跡する事さえままならない。
 あるいは……最初からそこには何も存在などしていなかったのだろう。
 テルゼは息をつき、視線を動かした。
 星の瞬きが目に入ってくる。
 気がつくと宮殿の外周部、空中回廊に彼は居た。
 夜風が心地よい──どうせ自室に戻ったところで、今夜も徹夜だ。しばらくここで頭を冷やしていくか。
 テルゼはそう決めて、近くの柱に背を預けたが──
「……何だ?」
 頭の中で鳴り響いた警鐘に、東宮の緩みかけた表情が再び強張った。
 時空間に波紋。それに伴い荒れ狂う風。
「こ、これは!?
 巨影が目と鼻の先を突っ切っていく。
 外観からは信じがたい機動力で球状都市群の隙間を縫い、急旋廻してきたその艦体に、テルゼは見覚えがあった。
「ティ……〈ティル・ナ・ノーグ〉!?なぜこんなところに!」
 間違いない。あれは現在シード=クェーサーが座乗し、帝都近隣の哨戒に当たっているはずであろう、国防軍(カウンター)が誇る最精鋭戦艦の姿である。
 基本的に国防軍に在籍する航宙艦は全て、大気圏内における戦闘をも想定した設計となっている。とはいえ、地球圏単位に換算して全長八〇〇メートルを超す巨大戦艦が、このような超低空を飛行しているのは、やはり尋常ではない。
『緊急です殿下!』
 意識に飛び込んできた管制官の報告は、もはや悲鳴に近かった。
『只今〈ゲート〉周辺界域に異常が発生!内部で正体不明の異相空間が膨張中!
──くそ!一体なんなんだ!?これは!』
 その疑問に対する答えを、残念ながらテルゼは持っていなかった。
 だが、ただ一つ、確実に分かった事がある。
「……不敵な真似を」
 東宮の言葉尻を震わせたのは、予感が的中した事による戦慄か。それとも……
 転移ゲートの占拠。しかもよりによって、この本星が聖都に開くものを狙うとは、真っ向から首座魔皇・ダレンフィムへと喧嘩を売った事に他ならない。
 黒衣の哄笑が聞こえてくる気がした。
「奴等は……
 奴等は本気で、戦をしかけるつもりか!」
 御座本星への宣戦布告と直接攻撃。
 さらなる前代未聞の事件が今、帝都を──宇宙を震撼させようとしていた。