会議が終了し、会場を後にしたダレンフィムは、真っ直ぐ自分の宮殿には帰らずに、あのことの発端となった丘陵へやって来ていた。 特に意識したわけでもなく、ただ、なんとなくここへ来てしまっていた。 ダレンフィムはふと自嘲の笑みを浮かべ、小さく嘆息した。 「私は……どうかしている。 以前はこんなに精神が不安定になる事などなかったが…… 本当に、どうしたのだろうな……」 ダレンフィムは最近、理由もなくいらいらしている自分を持て余していた。ちょっとした出来事で一気に腹立たしい気分になり、声を荒げてしまう。 かと思うと、急に沈んだ気分になり、独りでぼんやりとしたまま、何時間も過ごしてしまったりする事が何度となくあった。 そして昨日起こった事件。レイグリフの言い放った一言が無性に癇に障り、このところの『お約束』を裏切らない形で、つい感情的になってしまい、取り返しのつかない事態を招いてしまった。 「確かに……私に落ち度があるのは認めよう。 だが、何もあんな風に言う事はないではないか……」 ダレンフィムのレイグリフに対する感情は、怒りよりむしろ悲しみ──失望の方が大きかった。 「私は貴方にとって……そんなに重荷だったのか。 私の選択した道は過ち意外の何ものでもなく、恥ずべき事であったのか。 ……私のこの感情は、偽りの幻であるとでもいうのか……?」 〈至高神〉と謳われた存在の問いかけに、答える者はいない。 「私は……私自身はあの時、戦った事を後悔してはいない。 ただ、それによって、今、大切な者達を守ってやる力を失ってしまった事だけが、それだけが口惜しい」 まるで魂を削りだして発せられているような声音。心から血が滴り落ちていく残響。 古傷のある左肩を掴む指に力が篭る。 「私自身の名誉など関係ない。欲しいものはそんなもではないのだ。 何が〈総帥〉だ。あいつを守ってやるどころか、風よけにもなってやれはしないではないか」 自分の息子がその特殊な生い立ち──人間との間に生を受けた不義の子というせいで、彼の目が完全に届かぬ事を良しとして、影で酷い扱いを受けているという現実を、ダレンフィムは薄々感じていた。表立って問題にされないのは、当のテルゼ自身が微塵も態度に示さず、平然と、あるいはむしろそれを逆手にとって公務を続けているせいだ。 「私は結局、あいつに甘えてばかりだ……情けない」 ……そこに居るのは、伝説の魔皇でも救世神でもない。 自己嫌悪に苦しむ独りの『人間』に過ぎなかった。 項垂れたダレンフィムは、日が沈もうとしても、その場を動く気配はなかった。 レイグリフは会議後、すぐに自宮へと戻ると、日課になっている午後の御茶の時間をいつもより大分遅れる形でとっていた。しかし、彼はテラスから見える手入れの行き届いた素晴らしい庭園には目もくれず、ただぼんやりと、ティーカップの中に揺れるダージリン・ティーを見つめているばかりであった。 ふと、呆然としていたレイグリフの顔に、緊張が走る。 「────誰だ!?」 レイグリフが視線を向けた先の空間が大きく揺らぐ。直後、起こった爆発で草木が根元から引き千切れ、大きく宙を舞った。 「……随分なお出迎えだね、レイグリフ」 立ち昇る土煙の中から現れたのは、外見はレイグリフとほぼ同年代に見える長身の男性だ。少し長めの黒髪が、その憂いを湛えた右目を完全に隠しており、どことなく神秘的な雰囲気を演出していた。 どことなくのんびりした所作や表情とのギャップが激しい容姿の美男子である。 「あ……兄上!?どうしてこちらに!?」 レイグリフが素っ頓狂な声を上げる。これを受けて、『兄上』と呼ばれた彼は、少なからず心外そうな顔をした。 「どうしてって……この前『一緒にお茶しよう』って約束したのは君じゃあないか……」 そういえば、そんな会話をしたかもしれない。昨日の事件で頭が一杯であったレイグリフは、すっかり忘れていた非礼を素直に詫びた。 「すいません……ちょっと色々ありまして……」 頭を垂れるレイグリフに、彼はクスクスと分かりやすい空気の漏れる音を唇から零しつつ、言った。 「ダレンフィムとケンカしたんだって? 今日の会議は凄かったなぁ〜 まあまあ、そういうイライラしている時はね、甘い物が一番!この前、イグナツが地球へ遊びに行ってきた時に貰った、おみやげのゴディバチョコを持ってきたんだ。君、好きだったろう?ナボナもあるから、一緒に食べよう」 「は、はぁ……頂きます」 彼独特のペースにすっかりのまれてしまうレイグリフ。 無論、つい先程まで不機嫌絶頂だった彼を、上手く誘導出来るような人物が只者であるはずがない。 レイグリフは元より、〈首座魔皇〉であるダレンフィムすら一目置く〈十二柱〉最年長者であり、あの〈医聖〉イグナツの実兄でもある魔皇が一柱、ラファスーン=グラナンディ=アフラロイドとは彼の事である。 一見、温厚な好青年といった風情であり、事実、普段の彼はそうなのだが、一度激昂したが最後、誰も手がつけられないと、裏の世界ではまことしやかに囁かれており、〈十二柱影の支配者〉、あるいは〈眠れる大神〉の二つ名をもって恐れられていた。その実力や、傍若無人の見本のようなイグナツでさえ閉口するという。 かつて、ダレンフィムと敵対し、正面から戦いを挑んだ──いう噂まである。噂はあくまで噂に過ぎないだろうが。 レイグリフとの関係は長い付き合いの茶飲み仲間で、とりわけ魔皇達の中では二人の仲は良かった。 ラファスーンはレイグリフと丁度向かいの席に着くと、主人自らが給仕したダージリンを美味しそうにすすった。レイグリフもまた一口、カップに口をつける。そんな彼の端正な横画をじっと観察した後、ラファスーンは、 「……何か、ちっとも楽しそうじゃないなぁ。さっきから一言も話さないね?」 「いえ……お土産……大変美味しいです」 ラファスーンはソーサーにカップを置くと、肩をすくめ、「やれやれ」といった調子で、 「そうじゃなくて……よっぽどダレンフィムとケンカした事が堪えているんだな。 いったいぜんたい、何でまたこんな事になったんだい?」 レイグリフは深い溜息を着いてから、カップをテーブルの上に戻すと、 「私が……悪いのです……」 うつむいたまま、およそ彼らしくない歯切れの悪い口調で切り出した。 「私はどうかしていたのですよ……あのような事を……あのような事を言う資格など、私には何一つないというのに……」 その場の勢いでとんでもない暴言を口走ってしまった。相手の行動理念を真っ向から否定し、踏み躙った。愛する女性を罵倒される事は、自らを侮蔑されるよりも、彼にとっては辛いだろう事は想像に難くないのに。 彼のそんな性格を分かり切っていた上で言ったのだ。弁解の余地など、ない。 「私は、どこかであいつに嫉妬を抱いていたのかもしれない。 自分の弱さを使命にすりかえて……ターナを殺してしまった……守ってやれなかった…… 私には全てを投げ打つ様な……あいつのような真似は出来なかったから」 「……レイグリフ」 「私にはどうしても……どうしても理解できない。理解してやる事が出来ない」 レイグリフのカップにかけた指が、小刻みに震えている。 「約束された最高の力も名誉も何もかも失って──何が幸せというんだ? 払った代償が多過ぎる……!」 湧き上がってくるのは、決して相手に対してではなく、不甲斐ない自分に対するどうしようもない怒りであった。 「私は〈あの時〉、何もしてやる事が出来なかった。ただ、はるか遠い世界で、あいつが傷ついて、力を、命を失っていくのを感じているしかなかった…… もう、二度と大切なものを傷つけまいと、亡くすまいと、確かに誓ったはずであったのに。 助けてやれなかった」 ラファスーンはただ、黙って彼の話に耳を傾けている。先程までのお気楽な雰囲気は一変していた。 重苦しい静寂の中、レイグリフの言葉だけが虚ろに響く。 「……全てが終わって、失った力が二度と戻らないと知った後、あいつは言いました。『後悔などしていない。私はあの時、自分の意思で、自分の為に戦った──私が私であるために。これは私個人の問題だ。お前達が責任を感じる事は何もない』と。 それまで見たことがなかった、迷いのない、誇らしげな笑顔で。 それが余計に痛々しく思えて……辛かった。 〈全知神〉と呼ばれているくせに、私の気持ちなど、ちっとも察してくれやしない。あいつは……昔から何でも一人で抱え込んでしまって。何のために、私達がいるというのか」 感極まったのか、途切れた告白に、頬杖をついて聞き入っていたラファスーンは、優しく微笑んで言ったものだ。 「レイグリフは、本当にダレンフィムの事が大好きなんだね」 この発言に、動揺したレイグリフの顔が一気に赤くなる。 「わ、私はっ……己の責任を果たそうとしているだけです……!」 「またまた照れちゃって。かわいいなぁ〜」 彼以外では絶対に口に出来ない感想をさらりと言ってのけると、ラファスーンはすっかり冷めてしまったカップのお茶をすする。 今のやり取りをエリフォンが見ていたら、さぞ驚くであろう。「槍が降るぜ……」位の発言はするかもしれない。 やがて、ラファスーンは、すっと笑いを収めると、やや硬い口調で、 「……だけどね、レイグリフ。あまり思いつめちゃいけないよ。 君は十分過ぎるほど優しい。 だからもっと自分にも優しくならなきゃ。 きっと彼も……そしてターナも……そう、思っているよ」 ぽんぽんと肩を叩かれて、レイグリフはやっと顔を上げた。 「兄上……」 「相手の全てを理解する事は出来なくても、理解しようと努力する君の気持ちはそれだけで価値があるし、伝わるよ」 言って、ラファスーンは席を立つ。 「じゃあ、私はこれでお暇するよ。 次は、ダレンフィムやみんなも呼ぼうね」 「……はい」 殊勝な答えに、ラファスーンは満足そうに微笑んで、発っていった。 「やっぱりここにいたんですか、上」 会場から途中で別れたきり、戻ってこない父親を探して、テルゼは「あそこかな……」とふと思い当たった場所へ足を向けてみた。 案の定、ダレンフィムはお気に入りの丘陵で独り、物思いに耽っていた。 「……泣いていたんですか?」 「馬鹿を言え。こんな年齢にもなって──」 「年齢は関係ありませんよ」 テルゼもまた、ダレンフィムのすぐ傍らに腰を下ろした。 見上げる空は美しい茜色に染まっている。 「何となく……わかるんですよ。 僕は元々貴方と同じ存在だったのですから……」 片や蒼ざめた銀と翡翠、片や実りの黄金に紫水晶。髪や瞳の色など僅かな差異に過ぎない。向かい合う麗容は、双子と見紛う美しいシンメトリーを成す。 「だが、今は違う──お前はお前。私ではない」 ダレンフィムは殊更強い口調で言い切った。テルゼはその様子に苦笑して、 「確かにそうですね。でも、上にも分かるでしょう?伯父様の気持ちが……」 ダレンフィムはあえてそれには答えずに、 「今日は……すまなかったな。 結局、皆に迷惑をかけてしまった」 「いえ、仕事ですから」 悪びれなく応じるテルゼ。 「お前には……いつも苦労ばかりかけさせてしまうな。 親らしい事を何一つしてやれなくて、すまないと思っている」 「おや、随分と上らしくない。殊勝な事を言ってくださるじゃありませんか。 そういう気持ちが少しでもあるなら、伯父様とちゃっちゃと仲直りして下さいよ」 「……お前、そんな簡単に……私にだって意地というものが……」 「そんな事を言っていたら、化石になるまで仲直りなんて出来ませんよ。 あーあ、本当にこれがあの噂に名高き〈智を覇する者〉の姿なんでしょうかね? 今回の一件、信者が聞いたら泣きますよ、きっと」 「………………」 見た目もさることながら、これではどちらが親なのか分からない。テルゼは溜息一つ、 「素直じゃないですねぇ。本当は仲直りしたいんでしょう?だったら──」 「だが……あれ程侮辱をしたのだ。私が今更頭一つ下げたくらいで赦してもらえないだろう」 「……それではお前自身は私を赦してくれるのか?」 「赦すも何も、元々悪いのは私──」 息子との会話に割り込んできたその声に、はっと振り返る。 そこには憮然とした顔で腕を組んでいる白いローブ姿の男性が、どことなく居心地が悪そうに一人立っている。 ここで、ようやくダレンフィムはレイグリフが一連のやり取りを聞いていた事に気がついた。 テルゼは笑いを堪えている。ダレンフィムはそんな息子を恨めしげな目で見ると、 「はかったな貴様……」 「まさか。上にも察知出来なかった伯父様の気配を、僕ごとき若輩者が分かるわけがないじゃないですか」 素知らぬ顔でうそぶく。伊達に政に携わってはいないのであろう。相当なタヌキになったようだ。 ダレンフィムは煮え切らない顔で、思わずうなり声を上げた。そこへレイグリフが注意を引くように、すかさず咳払いをする。 ダレンフィムは気まずげに彼の方へと視線を移す。 「……レイグリフ……」 「私は……自惚れていたようだ。 私一人で何もかも守れるものだと。守らねばならぬものだと。お前の事も…… だが、そんな必要はなかったな。 そうだ。お前は強い。私などよりずっと──」 レイグリフは自分の利き腕をゆっくりと、弟に差し伸べる。 「おせっかいばかり焼いて、うっとおしいかもしれないが、今一度、私と『家族』になってはくれまいか?」 「ばかな事を……」 フッと鼻で笑ったダレンフィムに、一瞬、テルゼはぎょっとしたが、それは余計な心配だったようだ。 「……後にも先にも、こんな無鉄砲な私の面倒を見てくれる奇特な『兄』は貴方だけだ──リフ」 差し出された手をしっかりと握り返して、ダレンフィムが微笑む。 「私こそ思い上がっていた──苦労しているのは、私ばかりだと。だからつい、かっとなってしまって。 やつあたりもいいところだ。すまなかった」 「あやまるのは私の方だ。侮辱した言葉の数々、本当に申し訳なく思っている。殴られて当然だ。 〈東宮〉よ。お前にも余計な心配をかけた。今回の件は全て私の責任だ。どうか、ダレフを責めないでやってくれ」 「はあ……」 数時間前までがまるで何かの悪い冗談だったかのように、二人はすっかりいつもの『仲良し兄弟』に戻っていた。テルゼは喜ばしい事だ、と思いながらも、何となく拍子抜けもしていた。 (結局、最初から僕はひたすら振り回されただけだったような……まあ、いいか) かくして、『世界の危機』は大山鳴動した割に、あっさり収束し、防がれたのであった。 「……で、何でこうなるんだよ」 「……でしょうね……」 数日後、冥王府の中央執務室では真っ白に燃え尽きているエリフォンと、真っ黒なクマを目の下に飼いならしながら書類書きに追われているテルゼがいた。 「あのオッサン共……仲良くエスケープなんざ見せつけてくれんじゃねーか……」 「この前の事を詫びるついでに、是非改めて挨拶をしたいって……二人して母上のところへ行ってしまわれるとは……想定外でした」 そこで、毎度お馴染みのパターンで、テルゼがダレンフィムの全面的な代行と、レイグリフのデスクワークの一部を担当し、冥王府の総合的な運営にエリフォンが借り出される羽目になったのだった。 「くそぅ……しかも今月はカナート兄貴の穴埋め当番まで重なってるじゃねえか……APSを3エリア分俺一人に押し付けるなんて……俺の事はかわいくないんか!?あの兄貴共はよぉ!?」 半泣き状態の情けない声を上げる叔父に、テルゼは徹夜漬けの人間が見せる、あの特徴的な薄ら寒い笑顔で、 「……それを僕は地球と行き来しながら、いつもやっているんですよ? フフフ……これで、こけしやちょうちん、トドメにペナントを貰った時には……アハハ……」 テルゼの目は既に『あちらの世界』に逝ってしまっており、明らかに焦点が合っていない瞳は、はっきり言って恐すぎる。 エリフォンは『人間だったら、確実に夢に出てきてうなされそうだ……』と、壊れてしまった甥を見て、今更ながら非常に哀れになった。 「悪かった……さすがにペナントは悪ふざけがし過ぎた。だからそんな目で俺を見ないでくれ。頼む」 「いいんですよぅ……済んだ事ですしぃ……どうせ僕の人生使い捨てですからぁ…… ああ、なんか河の向こうで、綺麗な女の人達と、七輝様が手を振っていらっしゃるのが見えたり見えなかったり?」 「……ってオイ!本格的にやば過ぎるぞお前!戻って来い!」 ばたり。 「ぎゃあああああああああッ!」 この『糸の切れてしまったマリオネット』……テルゼが正気に戻るまでに、ダレンフィムとレイグリフの復帰後、たっぷり三日間を費やした。 おかげで、やまかけのあてが外れた史河は、泣く泣く追試を受けざるを得なかった……というのは、また別の話である。 (おわり) 補足:APS(the application of Astral range Phase downed System ) ……『超常域段階式位相降下応用機構』の略。この世界において必要不可欠な法術行使に用いられるエネルギー=魔力を生み出す為の重要なデヴァイス。ようするに『相転移エンジン』であり、他ならぬ〈魔皇〉達自身の法術式回路の事。理論上は無尽蔵のエネルギーを取り出せる永久機関であるが、結局のところ、まずそれ自体を発動させ、制御する為のエネルギーは別途かかってくるので、効率が良くても決して万能ではない、というのがその実態であったりする。 |