さわやかな秋晴れが広がる日の午後、なつき達と共に、ルカシュとレジーナはウィナーズレコードの本社ビルにいた。

 これから行われる新曲のレコーディングを見守り、彼女の周囲に起こる、不可解な事故の原因を探るためである。

 いつもの司祭服姿では目立ち過ぎるため、彼女の立場も考慮して、今日のルカシュは、職業を気取られないダークスーツの私服姿である。

「だけどこうしていると、とても神父さんには見えませんね」

「そうでしょう?どこから見ても、水商売の方にしか見えませんものね」

 ルカシュの稀有な麗容に対して、賛辞が込められたなつきの言葉に、レジーナがフォローの入れようがないコメントを返す。

「せめてモデルとか言えないのか、お前は……」

 ルカシュはうな垂れて嘆息した。強く否定できないところが何とも哀しい。

 そんな彼の横顔を改めてなつきは観察する。

 女の自分でも嫉妬を覚えてしまう、色白細面の色男である。あまりに整いすぎた輪郭は、人間的な温かみを感じさせないかわりに、静かな威厳を放っていた。何というか、彼の周囲だけが切り離されたように空気が違う。それほど年齢は離れていないはずなのだが、時折見せる彼の挙動は、彼女にひどく老獪な印象を与え、まるで仙人とでも話しているかのような気分になるのであった。

(不思議な人……神父さんて、みんなこういうものなのかしら?)

「それでは、レコーディングルームへご案内するので……ついてきて下さい」

 永倉が遠慮がちに言って、歩き出す。

「待て。エレベーターは使うな」

 顔を上げたルカシュが、マネージャーに続いてエレベーターの方へ歩き出そうとしたなつきの腕を、唐突に掴んだ。二人が怪訝な顔をする。

「万が一、エレベーターが落ちるような事態に陥った場合、さすがに私も手の打ちようがない」

 彼の言葉を聞いて、なつきの顔が恐怖にひきつる。

「ルカシュ、いくら何でもそれはないのではなくて?」

 レジーナが、怯えるなつきを宥めるように言う。

 そんな真似をしたら、無差別に多くの犠牲者が出る。彼女一人が目的ならば、あまりに無謀なやり方だ。

「いや、『奴』は彼女を何としてでも、この業界から締め出したいらしいからな。

そのためには手段を選ばない」

「……業界を締め出すって……どういうことですか?」

「彼女は命を狙われているんじゃ……」

 突然ルカシュの口から飛び出した意外な推論に、永倉となつきは驚き、彼に詰め寄る。

 ルカシュは落ち着いた口調で、その考えにいたるまでの過程を三人に説明し始めた。

「話を聞く限り、事件は全てテレビ局、撮影スタジオ、そして仕事での移動中に起こっている。不思議な事に、彼女がオフの日には一切事故は起こっていない。彼女の命が目的なら、四六時中狙うはずだし、むしろ一人でいる時の方が、都合のよいはずだ。違うかな?

 そして何より、永倉氏をはじめ、スタッフ達がターゲットになり始めたのが、いい証拠だ。

 何度君自身を襲撃しても、拉致が明かないと思った『奴』は、君の周りから人を遠ざけ、居場所をなくそうとしている、というわけだ」

「なるほどね……」

 レジーナが首肯する。

「でも一体何が彼女を脅かしているのかしら……」

「それを確かめに来たんだろう」

 ルカシュは確信に満ちた声で言った。

「間違いない。現象因子はこの近くに在る……レコーディングルームは5階だったな。もうすぐ時間だ。急いだ方がいい」

 ルカシュの意見に従い、彼らがエレベーターを避け、階段を上り始めたところに、

「あら、鳳条さん」

 若い女性が現れ、声をかけてきた。口調といいルックスといい、キツイ印象を受ける。

 彼女は鷹揚な挙措で、こちらに近づいて来た。そして、なつきの傍らに立つルカシュと目が合う。

「見かけない顔ね……永倉さん、彼は?」

「先日アメリカの方から出向してきた者です。どうぞよろしく」

 永倉が口を開く前に、ルカシュは何食わぬ顔で言った。

「……そう。

 ところであなたはご存知かしら?『鳳条なつきは悪魔につかれている』ここではもっぱらの噂よ?」

 嘲りの冷笑を口元に浮かべて、彼女はなつきを横目で見た。なつきはその視線に耐えられず俯く。

「最近、鳳条さんの周り、ヘンな事ばかり起こっているのよ。永倉さんの事故後も、彼女に関った人達が、次々に不幸に遭っているようだし。恐いわよね。

 彼女繊細だから、思い悩んで自殺でもしないかと、私心配しているのよ」

 しかし、その口調は言葉とは裏腹に、心配しているというより明らかに楽しんでいるようにしか感じられない。『人の不幸は蜜の味』とはよく言ったものだ。

「……悪魔につかれているのは、本当に彼女かな?」

 饒舌をふるう彼女を見つめて、ルカシュが静かに言う。

 自分に対する呵責が込められた鋭い視線を受けて、彼女がにわかにたじろぐ。

「そ……そんな事、私に聞かないでよ!だいいち悪魔なんて、本当にいるはずないでしょ!?ばかばかしい!」

「千沙さん!」

 広報からスーツ姿の女性が、つかつかと歩み寄ってきて言った。

「雑誌の取材が控えていますわ。早くこちらへ」

「……私はこれで失礼するわ。

 鳳条さん、今日は何も起こらないといいわね」

 言いたい事を言うと、彼女はやって来たマネージャーらしき女性と二人、足早に立ち去っていった。

「あまり感じの良い方ではありませんね」

 レジーナが声をひそめて言った。

「……神楽千沙(かぐらちさ)さんです。私より少し前にデビューした方なんですが……私が彼女より先に南さんに曲を書いてもらう事になったのを快く思っていないらしくて……プライドの高い方ですから」

 南藤野(みなみとうや)──日本の音楽事情に疎いルカシュには知る由の無い名前であったが、人気アーティストを多数手がけている、有名プロデューサーだ。

「……ふうん」

「ルカシュさん?」

 千沙の立ち去った方を、立ち止まったままじっと見ているルカシュへ、なつきが振り返る。

「ああ、すまない。余計な時間をくってしまった。行こう」

 彼の態度にどこか釈然としないものを抱えたまま、なつきは再び歩き始めたのだった。

 

 

「ほう……」

 部屋の片隅で作業の流れを観察していたルカシュから、感嘆の声がもれる。

「なかなか、いい声ですわね」

 空間にゆっくりと広がっていく、夏の涼風を思わせる澄んだ響きに、レジーナも賞賛を惜しまない。

「この声……三千万では安過ぎたかもな」

「あら、ずいぶん彼女が気に入ったみたいね」

「……そうだな。誰かさんが嫉妬する気持ちも理解できる。

しかし、だからといって場外乱闘を許すわけにはいかない」

ルカシュは銀の瞳をすっと細めた。

「そして、獲物を逃がすわけにもな」

 

 

 神楽千沙がその日のスケジュールを全て消化した時には、すっかり夜も更けていた。

 自宅マンションへ向かう車内。ガラス越しに月が彼女を覗き込んでいる。

 血の様に紅い月が。

 薄気味悪くなった彼女は窓から視線を手元に落とし、ハンドルを握る女性に話しかけた。

「……それにしても沢口さん。アメリカの関係者と鳳条さんが一緒にいたって事は、まさか彼女を全米デビューさせる、なんて話が進んでいるわけじゃないでしょうね?」

 不安げな彼女に、マネージャーの沢口は笑って答えた。

「まさか。そんな話、噂でも聞いたことありませんよ。

 大丈夫。この先全米デビューするとしたら、それは彼女ではなく、あなたです。あなたにはそれだけの才能があるんですから」

「本当に……?」

 千沙の瞳が輝く。

「ええ。間違いなく……させてみせますよ。私が。

 ……誰にも邪魔はさせない」

 沢口のハンドルを握る手に力がこもった。

「頼もしいわね。それにしても……」

 千沙は車が走り出してからというもの、通いなれたはずの道に、形容し難い奇妙な感覚を覚えていた。

「どうしてこんなに人通りが少ないのかしら?」

 すれ違う車の数もまばらである。繁華街から外れた場所とはいえ、それを考慮してもなおあまりに不自然な静けさだった。

「…………っ」

 急に千沙を悪寒が襲った。ただならぬ気配に彼女は顔を上げ、車外に視線を投じた。

「な、何これ!」

 霧だ。濃霧が視界を完全に覆い尽くしている。

「そんな……さっきまで晴れていたのに。

 きゃあっ!」

 ヘッドライトの向こう、白い闇の中一瞬浮かび上がった長身の影。

 沢口が急ブレーキをかけるが、とても間に合わない……!

 そして、その直後。

 車体が凶器と化した事を意味する悪夢の衝撃が──

「…………」

 千沙の脳裏を最悪の光景が駆け抜ける──が、

「…………え?」

 何も起こらなかった。

 しばしの間をおき、車は霧中に停止した。

 まず、沢口が運転席から車外へ飛び出す。続いて千沙も、おそるおそる車内を出る。

「なんなのよ…………一体」

 肢体へ絡みつく冷気が、彼女を震わせる。千沙は泣き出したい気分で、周囲を見回し──そして見た。

「今こそ出て行け。偽る者よ」

 夜を引き立てる玲瓏な声と共に、霧が急速に晴れていく。

「出て行くがよい。

 汝の住処は砂漠、汝の家は蛇……汝、我に跪き、平伏すが良い……

 汝に最早、時は残されていない」

 白いヴェールに隠されていた幽玄な謡い手の姿が、月明の下あらわになる。

 聖職者の証たる黒衣と頸垂布(ストーラ)が夜風に舞い、残霧を打ち払った。

「あ……あなた……」

 妖艶な微笑みに彩られた白皙の美貌は、見紛うはずもない。

「晩餐の用意は整った」

 夜の祝福を受けた死の天使──ルカシュが繊手を差し上げる。

「嫌でも席について戴こう。お嬢さん(フロイライン)

「う……ああああああああああっ!」

 次の瞬間、怨嗟の咆哮を上げて彼に飛び掛ってきたのは──

「沢口さん……!」

「レジーナ!その娘を頼むぞ!」

「わかっていますわ!」

 待機していた尼僧が、その場に立ち竦んでいる少女へと手を伸ばす。

「ごめんなさいね」

 レジーナは一言侘びを入れると、千沙の首筋に手刀を入れた。

「神父様の招待客に、貴女は含まれていないの」

 昏倒した彼女を抱えて、レジーナは車から離れる。

 宴が始まった。

「邪魔者は消えろ!」

 日本人女性の姿を借りた悪鬼が、神父に肉薄する。

 拳が大気を切り裂いた。

 人間の限界を超えた速度で繰り出される必殺のそれを、ルカシュは軽く上半身を動かすだけで、ことごとくかわしてのけた。

「自分の担当歌手に肩入れするあまり、それを脅かす才能を疎み……」

 上段蹴りを避けながら、ルカシュがふいに腕を動かす。

「やがて肥大化した憎悪によって、低俗な妖魔を呼び寄せ……自我を喰われた」

 彼の手が腹部に触れた刹那、沢口──だったモノの身体は大きく弾き飛ばされた。

「───!」

 内臓が傷つけられたのか、彼女は咳き込み血を吐き出した。しかし、よろめきつつも渾身の力で立ち上がり、敵に向かって地を蹴る。

「大した闘志だ」

 だが、ルカシュはその攻撃もあっさりと返り討ちに下し、再び相手を地に這わせた。

 満身創痍の〈獲物〉を見下ろして、ルカシュは無感動な声で言った。

「……無理をするな。そう酷使すると女の身体がもたないぞ。

 せっかく手に入れた〈器〉だ。大事に扱え」

「ルカシュ!」

 レジーナが思わず非難の声を上げた。

「彼女は憑かれているだけなのよ!

 エクソシストの基本義務をあなたは忘れたの!?

「忘れてはいないさ。

 だが……こいつはもう手遅れだ」

 あごで指し示して、ルカシュはそう告げた。

 レジーナが目を見張る。

 妖魔の身体に劇的な変化が生じていた。

 全身が大きく膨れ上がり、同時に薄い唇が耳元まで一気に裂ける。

「かなり深い部分まで〈ナハツェール〉の侵食が進んでいる。

 ほとんど融合している状態だ。聖句を唱えたぐらいで引き離せるレベルじゃない」

 二人の目の前で、みるみるうちに女性の輪郭は歪み、崩れていく。

その姿は急速に人としての原型を失いつつあった。

「今、俺に出来るのは唯一つ……」

 落ち窪んだ眼窩から神父を射る光は紅。

「……彼女を人間として死なせてやる事だけだ」

 ルカシュと相対した者は、もはや悪魔憑きの被害者ではなく、悪魔そのものであった。

「人間風情が生意気な!」

 呪いの言葉を神父に浴びせかけ、それが動いた。

 レジーナの視界から掻き消えたその姿は、瞬時にルカシュの背後に現れ──

 鈍い音が響いた。

「脆弱なものよ……坊主、数々の無礼はその命をもって償え」

 にたり……神父の胸部を貫いた悪魔の唇から、笑みのようなものがこぼれた。

 鋭く長い牙が頚動脈を食い破り、とどめをささんと白い首筋に迫る。

「それは無理な相談だ」

「な……何!」

 瀕死の神父の手が、悪魔の顎をがっちりと掴んだ。

「俺は死なないからな」

 悪魔に振り返った彼の美貌は、確かに蒼白く死化粧が施されている。

しかし、その声には悲嘆や恐怖は微塵も含まれておらず、それどころか愉悦に満ちてさえいた。

「お……お前もしや」

 異形を見据える神父の瞳が、金色に燃え上がった。

「雑魚が。命で報いるのは貴様の方だ」

 顎に込められた怪力に、危険を感じた時には既に遅し。

 悪魔の口から声にならない悲鳴が漏れ、巨体が苦痛に身をよじらせた。

 あたり一帯が、むせるような瘴気に包まれる。

 その源が滅亡の兆候を見せ始めた悪魔ではなく、獲物の首筋に顔を埋めている神父である事を、レジーナは知っていた。

「な、なぜ……吸血鬼(ヴァンパイア)が教会の手先なんぞに……」

 それが悪魔の最期の言葉だった。

 僧服を纏った不死者が顔を上げた。どす黒い血に染まった唇から、一対の牙がのぞく。

「俺は教会に忠誠を誓った覚えは無い。教会も俺を信用してはいない。

 ただ互いに利用し合っているだけだ」

 支配力を失った身体が崩れ落ちる。

 ルカシュは人に還った女性の亡骸を抱きとめた。見開いていた瞳をそっと閉じてやる。

「……おやすみ」

 亡骸が蒼白い焔に包まれた。

 やがてそれは灰燼と化し、一陣の風にのり天へと昇ってゆく。

 それを見つめる神父の姿に先ほどまでの禍々しさはない。

 指先で口元を拭うその様子はただ哀しげであった。

 

 

 その日を境に、鳳条なつきの周囲では何も起こらなくなった。

 神楽千沙のマネージャーを務めていた沢口洋子は、消息を絶ってから半年が経過した今も、行方不明とされたままである。

 

 

「あ……あ────っ!」

「何だ蓮美。そのチケットがどうかしたか?」

 ある事件以来、たびたび捜査協力の要請にかこつけては、教会を訪ねてくる、刑事の舞阪蓮美が驚きの声を上げた。

「こ、これは鳳条なつき初ライブのプレミアムチケット!

 何でアンタが持ってるのよ!」

「んー、彼女とは個人的な知り合いでな。向こうから送ってきたんだ」

 机で教皇庁へ提出する報告書を作成していたルカシュが、大きく伸びをしながら答える。

「そんな話聞いてない!」

「言ってないんだから当然だろ」

「うぐぅ……」

 素っ気ないルカシュの言葉に、蓮美が膨れっ面になる。

「君は彼女のファンなのか?」

「そうよ。悪い?」

「なら、譲ってやってもいいぞ」

「えっ!本当にいいの?」

「ああ……レジーナは野暮用で時間が空けられないらしいからな。

 無駄にするよりはいいだろう」

 蓮美は手にしたチケットを、じっと見つめてから一言、

「ライブ……積雪で中止になったりしないかしら?」

「……どういう意味だ」

「だって、スクルージなルカシュ神父が妙に気前がいいから……」

「蓮美」

 ルカシュがいっそ不気味なほどにさわやかな笑顔を浮かべた。

「やっぱ返せ」

「やだ────っ!絶っ対ヤダ!

 唾付けちゃうからね、ぺぺーっ……」

「やめろ汚い!……っておいっ!私の分まで唾が落ちたぞ!」

「あー、ごっめーん神父様。てへ」

「蓮美……!」

 ルカシュが今日中にただでさえ苦手な報告書を完成させるのは、どうやら無理そうである。

 

(END)