「は……蓮美さん!」

「なあにが『仕事』よ!あんたの仕事って婦女暴行なわけ!だから警官の私を邪魔者扱いにして返したってわけ!そうなの!最低ねっ!」

 蓮美は心底頭にきていた。年上の自分を邪険に扱うのも我慢ならなかったが、よりにもよって、あんな見るからに無力な少女に手を上げるなんて、男として、人間として最低だ。あれでも心根は悪いやつじゃないと、そう信じていたのに!

 前方の青年を睨みつけながら、肩をいからせ、つかつかとそちらへ駆けつける。

「……だめだ!こっちへくるな!」

「『来るな』と言われて、警官がすごすご引っ込むと思っているの?覚悟なさい、現行犯で逮捕してやるからっ!」

 捕らわれの吸血鬼は、この好機を見逃さなかった。

 一瞬、自分から注意のそれた、神父の体を渾身の力で突き飛ばすと、のこのこと現れた、愚かなる獲物に跳びかかった。

「ひぃあっ!」

「……あの馬鹿娘が……!」

「ふふふ……貴女のおかげで助かったわ。ありがとう」

 動揺する蓮美を羽交締めにして、少女は妖艶に微笑んだ。

 危機に陥った今、ようやく蓮美は自分がとんでもないミスを犯したことに気づいた。

「その女性を放しなさい!」

 無駄と承知でレジーナが吸血鬼に向け銃を構える。しかし、案の定それは背後に跳躍しながら笑った。

「ほほほっ。この娘がいては撃てないでしょう?残念だったわね」

 近くにあったアトラクションの壁を蹴り上げ高度を保ち、悠然と二人の退魔士を見下ろしながら、吸血鬼は去っていく。

「ちっ……」

「ルカシュッ!」

 レジーナが言うより早く、それを追ってルカシュもまた空を翔ける。超人的な脚力は、一回の跳躍でアトラクションの屋根に到達し、次の建造物へと飛び移る。

「いぃやぁぁぁっ!一体どうなってるのよぉぉっ!」

 風を切り裂き、二つの影が闇を疾走する。

 蓮美を抱えたまま、少女は石畳に優雅に着地すると、今度は凄まじい勢いで駆け出した。

耳に入ってくるのは、空気の摩擦する轟音ばかり、あまりの速度に視界も閉ざされ、状況がまったく理解できない蓮美は、ただ振り落とされないように、華奢な身体にしがみつくことしかできない。

「これで……あの坊やもさすがに追っては来られないでしょう」

 少女の姿をした吸血鬼は、ちらりと背後を振り返る。

 どうやら完全に振り切ったようだ。

 速度を落としながら、一息つくと彼女は前方へ振り返った。

「遅かったな」

「なっ……なんですって!」

 闇に溶け込んでいるかのごとく、彼女の前にたたずんでいたのは、彼方へ消え去ったはずの小生意気な神父の姿だった。

 驚愕する彼女の視界から、一瞬彼の姿が消えたかと思うと、瞬き一つで唇が触れ合う程間近に、彼の顔が現れる。人間を超越した身体能力を持つ彼女にさえ、その動きを把握することができなかった。

 さらに信じられなかったのは、神父の息が全くあがっていなかったことである。それどころか、まだ余裕さえ見られたのだ。

(何者なの───この坊やは)

「まだ質問が終わっていない」

 女性警部補の身体を奪い返すと、ルカシュは吸血鬼の腹に膝蹴りを見舞った。

「がはぁっ!」 

少女の身体が吹き飛び、街灯に激突する。

「まったく……世話の焼ける娘だ」

 抱きかかえた蓮美の身体をゆっくり下ろすと、ルカシュは不機嫌を隠そうともせず、蓮美を睨んだ。

 しかし、彼女を見るその瞳に宿る色は、敵に向けるものとは明らかに違っていることに、蓮美は気づいていまい。いや、ルカシュ自身気づいているかどうか。

「こ…この娘…って一体……」

 震える声で、すっかり腰を抜かしてしまった蓮美がルカシュに問う。

「信じる信じないは勝手だが……こいつは吸血鬼だよ」

 ゆっくりと少女に歩み寄りながら、ルカシュは言葉を紡ぐ。

「今では数さえ少なくなったが……確実に存在している〈夜の跳梁者〉だ。幾度の戦、天変地異による混乱期、執拗な教会の追跡をも免れ、人間達に紛れて、まだ霊的なガードの甘いこの日本へ渡って来たというわけだ」

 蓮美は、ルカシュから街灯の下でぐったりとしている、少女の姿をした人外の者へ、おそるおそる視線を移した。

だからといって、「はいそうですか」と信じられるものでもないが、この少女が何か普通ではないのは、身をもって確認した。故に否定もできない。

 ルカシュがそれの前へしゃがみ込む。すっと右手を伸ばし、彼女のほっそりとした顎を掴み、顔を上げさせる。

「さて、質問の続きだ。さっきの話の内容によると、お前の手にかかった者はまだ生きているという事か?それとも、すでに不死者(イモータル)化しているのか?」

「……私の好みの獲物は少ないから……すぐには殺さないよう……皆から少しずつ…血をいただいているのよ……」

「ほう、それは殊勝な心掛けだな。手間が省けて助かる」

「お願い……ここからは立ち去るから……見逃してちょうだい…」

 懇願する吸血鬼の言葉は無視して、ルカシュは淡々と話す。

「今は私の言う通りにしてもらう。従えば考えてやらなくもない。それではさっそく案内してもらおう。

 ────蓮美、君もついてきたまえ」

 思いもよらない言葉に、蓮美はきょとんとする。

「任務を全うしたいのなら、さっさと来るんだ。ぐずぐずするな」

「わ…わかったわよ」

 ルカシュは背後で少女の両手を封じると、さっさと歩き出した。

 

 

 部屋へはほどなく到着した。そこは一般には公開されていない、アトラクションの裏にあるスペースで、関係者もあまり近づかない場所だった。

 さらに現在は、妖術によって封じられているため、誰も近づかないし、近づけない。

「開けろ」

 ルカシュに命じられて、吸血鬼は結を解いた。何の霊能力も持っていない蓮美でも、どこか空気が変わったのが感じられた。

 入り口のドアを開けると、そこには資料で見た面々が確かに、部屋の壁にそってきちんと並べられた椅子に腰掛けて眠っていた。

「よかった……みんな無事で」

「……特に身体に異常は感じられないようだし……そのまま連れ帰っても心配ないだろう」

 少年達を一通り観察して、ルカシュは蓮美に言った。

「これで約束は果たしたわよ。さあ、私を自由にして頂戴」

 吸血鬼が忘れては困るとばかりに、ルカシュを肩越しに振り返り訴える。

「そうだな……ただ、もう一つだけお前に聞きたいことがある」

「何?早くして。世が明ける前にここを引き払いたいのよ」

「……〈新月の貴人〉をお前は知っているか?……」

「……なんですって?」

 蓮美は部屋をぐるりと回って、少年達の頬をぺちぺち叩いてみたが、起きる気配が見られないので、部屋の外にいるルカシュを呼んだ。

「ちょっとー!神父さまー!本当に大丈夫なわけー?突然みんな起き上がって私を襲う、なんてことないでしょうねー?」

 しかし、無反応。

 蓮美が廊下へ出ると、さっきまでいたルカシュと少女吸血鬼は、忽然と姿を消していた。

 

 

「……そうか、知らないのか……」

 暗闇の中で彼と彼女は向き合っていた。

 白く美しい容姿は共通していたが、その顔を彩る表情は対照的だった。

「今回も収穫なしか……一体どこへいってしまったのやら」

 くぐもった笑い声が反響する。

「俺はお前の事を片時も忘れたことがないというのに……」

 陶然とした声音に、慄然とした声音が重なる。

「ただの坊主にしては……妙だと思っていたけど……貴方……」

 ゆっくりと……実に緩慢に恐怖が身体を締めつけてゆく。彼の目に射すくめられ、彼女の身体の自由は完全に奪われていた。

 再び近づいてくる彼の顔に、もはや何の抵抗手段も残されていない。

「……遅すぎた……気がつくのが」

 長い銀糸の中に顔を埋めて、彼がつぶやく。

「そして俺もな」

 

 

「ルカーシュ!今までどこへ行ってたのよ!」

 暗がりから現れた長身の青年の姿に、一瞬、妙な違和感をおぼえたが、構わず蓮美は彼に駆け寄った。

 ルカシュは指で口元を拭いながら、

「犯人を処分していたんだ。とてもじゃないが一般人に見せられるようなシロモノではないからな」

「処分って……やっぱ心臓に杭を突き刺したとか?」

 彼女に向かって「これだから素人は」といった表情でルカシュが言う。

「まさか。聖火で焼いたのさ」

「へっ?じゃあもうホシは塵芥に?」

「それすら残っていないな。別に構わないだろう。どうせ人権のない相手なんだ、司法も裁けまい」

「そりゃーそうだけど……」

 なんとも釈然としない気分で、蓮美はルカシュを見つめる。

「二人とも無事でしたのね」

 そこへようやくレジーナがかけつけた。

「それにしても随分時間がかかったな」

「しかたないでしょう、広いんですもの。貴方のようにはいかないわ」

 仕事前と何ら変わりの無い───むしろ生き生きしているルカシュを見て、レジーナが息をきらして言った。

「被害者も無事保護できましたし、私達の仕事はこれで完了ですわね」

 少年達の眠る部屋をのぞいて、レジーナはにっこりする。

「後はよろしくお願いしますね。蓮美さん」

「えっ…ええ」

「ごきげんよう。仕事熱心な警部補殿」

「あ……」

出口へ向かう背中に向けて、蓮美は深呼吸の後、思い切って口を開いた。

「ありがとう……助けてくれて」

 ルカシュが足をとめ、振り返る。

「仕事中に死傷者が出たりしたら、私の名前に傷がつくからな。当然のことをしたまでだ」

 礼を言われても、彼は相変わらずの調子だった。蓮美はにやりとすると、

「照れなくてもいいのよ〜」

 猫なで声でルカシュをからかった。

「大人で遊ぶな」

「そう言うところが子供なのよぉ〜僕ぅ」

「………………」

 ルカシュが苦笑する。その笑顔見て、やっぱり心底嫌いにはなれないな、と蓮美は思うのだった。

 

 

建物を出たところで、レジーナが思い出したようにルカシュに聞いた。

「そうそう、食事の方は───」

「ああ、招かれざる客が来てしまったものだから、どうなることかと心配だったが、何とか済ませたよ」

 レジーナは、胸をなでおろした。

「ああよかった。飢えた狼ほど危険なものはありませんからね」

 その台詞に、ルカシュは不服そうにこぼした。

「仮にも神父に向かって何を言うか」

「貴方の場合、本当に『仮』でしょう?」

 ルカシュは答えない。

 ただ、彼は静かに……まるで泣いているような自嘲の笑みを返すだけだった。

 

 

「一週間オーバーだけど……誕生日おめでとう、香苗」

 差し出された小さなケースに入っていたのは、百合の花を模ったかわいらしいデザインのブローチだった。

「安物だけどさ、気に入ってもらえるとうれしいな」

「ありがとう……すごくうれしい……」

 ケースを大事に包み込むようにして、はにかみながら香苗は幸人に言った。

 夜空に花が鮮やかに輝いた。心にまで染み渡ってくるような大音響が、辺り一帯を包んでいる。

「……花火はね……この遊園地に来るのは三回目だけど……初めてなんだ、見たの」

「そっか……よかったな」

「うん……」

 香苗にとってのセレスティアルランドは、今、ようやく幸せな思い出として昇華したのであった。

 

 

ジリジリジリジリン!

「うぐぅぅ……んん?」

 サイドテーブルに置いてある、騒がしい目覚まし時計を止めようと、ベットの中から伸ばしたルカシュの手は、目標を見失ってさ迷った。

「おはようございます…ってもうお昼よ。いい加減起きなさい、お寝坊さん」

 耳慣れた声に、ルカシュは緩みきった顔でレジーナを見上げた。

「夜の活躍が嘘のようね。本当に朝に弱いのだから」

「……なんだ?寝込みを襲いに来たのか?」

 すっとぼけたことを言う若い神父に、レジーナはあきれ返った。

「そんなわけがないでしょう?ちょっと世間話をしに寄っただけよ」

「そんな事で貴重な睡眠時間を奪わないでくれ……今回は夜明けまで働いていたんだ、まだ三時間しか寝てない……」

「ご苦労様」

「……それだけかい……」

「この前のセレスティアランドの件、覚えているかしら?」

 ルカシュの恨み言は無視したまま、レジーナはマイペースに話を進める。

「あ…ああ。そんな事もあったなはぁ……」

 大きく開いた口中が見えないよう、寝ぼけていてもしっかり手をそえてあくびをする。今はレジーナ相手だから特に構わないのだが、もう条件反射だ。 

「子羊達を無事保護し事件を解決した功績を認められて、今度から正式に公安委員会が超常現象専門の部署を設立するのですって。それで貴方にそのスーパーバイザーをお願いしたいらしいわよ」

「な……なんだと?聞いてないぞ、そんなこと」

 ルカシュの眠気は一気に覚めた。ベットからがばりと上体を起こし、レジーナに詰め寄る。

「当たり前でしょう。今から交渉するんだから」

 レジーナの背後から顔を出したのは、蓮美だ。

「寝てる時はかわいいのに……もーこの際永遠に寝てなさい……といいたいところだけれど。

悪魔祓いとして大変ご高名なバートリ神父に、是非是非ご協力していただきたく思い、舞阪蓮美はせ参じました!」

「……織田○道に頼んでこい」

 ルカシュはふとんに潜り込むと、狸寝入りを決めた。

「そんなつれない事をいっちゃいやー!あの時の事はきれいさっぱり水に流して、ねっ?」

「運がなかったな。私は執念深いんだ。忘れん。絶対忘れん。滅びるまで忘れん」

「欲しいもの買ってあげるからー!」

「買収とは警察も地に落ちた……いや、もうとっくに地中潜行しているか。このように、かしましいだけの娘を採用しているんだからな」

「……教会も地に潜ったわね。こんな生臭坊主を野放しにして。思いっきり酒の匂いがしてるわよ。破戒神父」

「交渉決裂」

「いやーっ!」

 ルカシュはふとんの中で、どうやってこの申し出を辞退するか、しかし、これはどのみち寝かせてもらえそうもないと、ぐったりするのだった。

 

(END)