(それにしても……)
 静寂が支配する廊下を進みながら、傍らを歩くテルゼの姿に、ジャンはしみじみと思った。
(……綺麗な人だなぁ)
 本来男性に使うべき形容ではないかもしれない。しかし対象が彼であるならば、ジャンの感想に異議を唱える者はないだろう。
 加えて、その「美しい」という感覚は、いわゆる世俗的な意味合いよりも、木漏れ日に反射する流水の 煌きや、湖面に揺れる玲瓏な月輪、あるいはかつて見たダマスカス銅の刃から受けたものに近い。
(おまけに……)
 香だろうか?純白のマントが舞う度、何かとても良い香りがして……
 どきどきする。
「……ジャン君?」
「え?……は!はい!
あ……と、ところでテルゼ……さんはどうしてここに?」
 まるで魂を抜かれたかのごとく、彼に見とれてしまっていた自分に動揺し、慌てて話題を変えるジャン。
 彼の名誉の為に断っておくが、ジャンに同性愛の傾向は決してない。ただ、目の当たりにした次期総帥の容姿が、一つの美の基準において、あまりに傑出し過ぎているのだ。
「ちょっと野暮用で会場入りが遅れてね。急いでこちらに転移して来たら、亜空間のセキュリティチェックに何度もかかっている影があったんで、気になってトレースしたら君に遇った、というわけさ」
 特に気にした風もなく、さばさばと答えるテルゼ。
「……お恥ずかしい限りです」
 萎縮するジャンに、
「全然気にする事はないよ。ここの建築様式が複雑過ぎるんだ。僕もこの惑星(くに)に来たばかりの頃は毎日のように迷ってたし……
 ああ、僕は五歳くらいまで母と一緒に、父とは別の惑星(くに)で暮らしていたんだよ」
 テルゼは一度言葉を切ると立ち止まり、ジャンと向き合った。
「それより『テルゼさん』なんて……君は僕の部下じゃないんだから、畏まらなくたっていいよ。一緒に歌った仲じゃないか」
 悪戯っぽい笑顔でそう咎められても、ジャンの当惑は増すばかりだ。
確かに彼と自分は今回の〈音楽祭〉で即席ユニットを組み、年齢も近いという事で練習を通してすっかり意気投合し、ステージ衣装をめぐって二人仲良くタイタニーに追いかけられもした。
 とはいえ、だ。
 その時の彼と目の前の彼とでは雰囲気がまるで違う。はっきり言って別人と言っていいだろう。
 鮮やかな紫衣に包まれている体躯は彫刻のように均整がとれており、そのたおやかさの中に強烈な意思を秘めた面差しと相まって、細身ではあるが決して貧弱な印象を与えない。上背もジュラルと同じか、それよりわずかに高いくらいだ。
 今のテルゼはジャンの見知った『少年』ではなく、完全に『青年』だった。
 助けられた時、すぐ彼と分からなかったのは、記憶の中の彼とあまりに容姿と声にギャップがあったためである。
「……わかったよ。
ところでテルゼ……君」
「はい、なんでしょう」
 当惑しながらも口調を改めたジャンに、紫衣の貴公子がどことなく嬉しそうに返事をする。


「音楽祭の時と今では随分イメージが違ってびっくりしたんだけど……」
「一応これが、僕のこの世界における一番標準的な姿なんだ。公務をこなすには、やっぱりこれくらいの年齢設定が色々と都合が良くてね。以後お見知りおきを」
「はあ……」
 天魔には年齢の概念がないと聞いてはいたが……
 自分の前ではごく自然な……いかにも年相応の振る舞いをしていたので、すっかり忘れていた。
 いや……果たして本当にそうだっただろうか。
 今思い返せば、練習の合間には、ジュラルと素人には到底理解不能な魔導理論について、延々と議論を交わしていたようだし、何やら麗華とも話が合っていたようだった。他にも時折り見せるさりげない周囲への気遣いや、本番での舞台度胸といい、十代前半の少年としてはいささか出来過ぎている感がある。
 さらに彼は舞台に出演する傍ら、監督代行としてスタッフの指揮まで執っていたというのだから──
(凄いなぁ……)
 自分はただ彼に合わせてもらっていただけなのかもしれない。
そう思い至ると、我が身がひどくちっぽけで情けない存在に思えてきて、ジャンは悲しくなった。
 天魔と人間というのはここまで違うものなのか。
「……テルゼさんは良いですね。何でも出来て、本当に羨ましいです」
「え……?」
 突然、ジャンの口からついて出た言葉に、テルゼの柳眉がひそめられる。
「僕、時々考える事があるんです。自分はパーティーの内の何なんだろうって。ジュラルさんの……みんなの役にたちたいのに、何の力もなくて。
僕にもテルゼさんの一〇分の一、いや一〇〇分の一でも力があったら……」
 少し先の廊下を冴えない表情で見つめながら、ぽつりぽつりと独白する。
 その言葉に決して悪意はなかったから、ジャンは気がつかなかった。
 刹那、テルゼの顔から一切の表情が消失し、硬い、まるで能面のような無表情になった事に。
「僕が……羨ましい?」
 描いたかのごとく形のよい朱唇から、虚ろな言葉が零れ落ちる。
「そんな……
君が僕を羨む必要なんて何もない……何もないんだよ」
 しかしそれはほんの一瞬の出来事で、喉の奥から搾り出すような声音にジャンが顔を上げた時には、白皙の美貌は微笑みを取り戻していた。
 だが先程までのものより、どこか寂しげに見えるのは、自分の気のせいだろうか?
「また、『さん』に戻っちゃったね」
「あ………」
「いいよ。呼びやすいように呼んでくれれば。
 でもね、さっきも言ったけど、僕に対して変な劣等感だけは持たないで欲しいな」
 テルゼの言葉はあくまで温かで、そして真摯だった。
 痛いほどに。
「馬や牛、それに多くの野性動物は、生まれて間もなく大地に立つ事が出来る。でも人間の場合そうはいかないよね。だからと言って、彼らより人間が劣っているという事は決してないし、その逆もまた然りだ。
 天魔と人間だって同じだよ。この宇宙の中において、君達……いや、天魔自身が思っているほど、天魔は完璧な存在ではないよ。
それに………」
 こちらに向かって猛然と迫ってくる気配に気がついて、テルゼはおどけたように肩をすくめた。
「今のままでも十分、君の存在価値は高いと思うけどね」
 白手袋がちょいちょいと前方を指し示す。
 それと同時に、突き当たりの角から勢いよく飛び出してきた女性が一人。
「あ〜んもう!どこうろついてたのジャン君!テルゼく……ってあれ?」
 満面の笑みを浮かべて二人のもとに駆けつけたタイタニーであったが、勢いにまかせ少年達に抱きつこうと思いきや、さりげない動作で半歩身を引かれて、派手に空振ってしまう。
 さらに、空振りはそれだけに止まらなかった。
 悪戯っぽい微笑みを浮かべてこちらを見ている金髪の青年に、タイタニーは鼻差で万馬券を逃したギャンブラーか、「明日世界が滅亡する」と託宣を受けた巫女のような顔で振り返った。
「……テルゼ…君……?」
「はい。
熱烈な歓迎、大変嬉しく思いますよ。タイタニーさん」
 相変わらずの笑顔のまま、ことさら低い声で応じるテルゼに
「私はちっとも嬉しくないわよーッ!
 何!何なの!いきなりどっかり老け込んじゃって!
あの澄んだボーイソプラノは!母性本能くすぐりまくりの愛くるしさは何処へいったのカムバック!」
 タイタニーにとって相手がどんな絶世の美『青年』だろうと関係ない。美『少年』──いわゆる『ショタっ子』でなければ彼女の食指は動かないのだ。
「さて、僕の任務はこれで完了だね」
 テルゼは嘆き悲しむタイタニーから、彼女の激しいリアクションに、すっかり硬直してしまっていたジャンへと視線を移した。
「会場はもうすぐそこだ。
 ……それじゃ一足お先に僕は行くよ。この機会にたっぷり食い溜めしておかないといけないんでね」
 面容風雅な皇族とは思えぬ低俗極まりない発言を残し、テルゼは談笑のさざなみの中へと歩を向ける。
「後はまかせたよ。ジャン君」
「へっ……?まかせた、って……」
 何か、嫌な予感がする。すごくする。
「んっふっふっふっふ……や〜っぱり遠くのハワイより近くのグアムよねェ〜」
 意味不明な呟きが聞こえると、背後で不吉な影がゆらりと立ち上がる。
 冷たい汗が額から流れ落ちるのを感じながら、それでも意を決してジャンは振り向いた。
 そして、目が合った。
 瞳にとてつもなく危険なものを宿らせたタイタニーと。
「今夜は祭り……祭りよワッショイ……ってなわけで……
 ジャン君────────────ッ!」
「────────────────!(泣)」
 ここにきてジャンは思い立った。
もしかして……テルゼはタイタニーの魔手から逃れるために、わざわざ姿を変えてきたんじゃないのか?
(だとしたら……)
 必死にタイタニーの追撃を掻い潜りながら、ジャンは心の中で絶叫した。
(ズルイよそれ〜!)
ジャン思いを知ってか知らずか、ホールの入り口をくぐるテルゼの横顔は、腹立たしいくらいに涼しげであった。

 

 

「お?元気ねぇな。どうしたよ綾葉ちゃん」
 壁際の席で頬杖をついたまま、ぼーっと人の波を見ていた綾葉の耳に、聞き覚えのある軽い声が届いた。
「なーんだ……エリィ君か」
 少女の隣へどっかり座り込んだエリフォンに、何とも気のない返事が返ってくる。
「人がせっかく良い事教えてやろうと思ったのに、『なんだ』はないだろ『なんだ』は。……俺様だってなぁブツブツ……」
 いじけたポーズをとる姿は何とも人間臭い。しかし彼とてテルゼと同様、称号持ちの最高位天魔である……とてもそうは見えないが。
「はいはい、わかったから。で?」
「アンハッピーボーイズがご到着だぜ」
 がたんっ!
 エリフォンの言葉に綾葉より早く反応を示したのは、向かいのテーブルを陣取っていた金髪の美女である。
 恐ろしい速さで人ごみをすり抜け、彼女は入り口を飛び出していった。その途中、メガネの青年が思い切り足を踏みつけられ、悲鳴を上げる。
「おうおうすげぇなオイ。
 でもその片っぽは、すでに賞味期限切れを起こしてたりするんだよねぇ……
 綾葉ちゃんにとっちゃ、独り占め出来て好都合かもしれないけどな」
 それからしばしの間の後、
「噂をすればほれ、来たぞ賞味期限切れ皇子が」
 エリフォンがあごをしゃくった方向、そこに綾葉が待ちかねていた人物の姿が確かにあった。

 すれ違う知人やスタッフとにこやかに挨拶を交わしながら、紫を基調色とした正装姿の若者が、ホールの中に道を開きつつ、淀みない足取りで歩いてくる。頭がほとんどぶれない。まるで床を滑って進んでいるかのようだ。
「お姫様はたいそうご立腹だぞ、殿下。
 こんな様じゃ、まだまだ一人前の男とは言えねぇなぁ」
 ようやく綾葉の前に現れたテルゼへ、エリフォンが椅子をギシギシ言わせながら、彼女に代わって釘を刺す。
「お待たせ綾葉ちゃん。遅れてごめんね」
 何度聞いても蕩けそうな爽涼とした美声に、ひたむきさが加わった今、誰が彼に叱責の言葉を浴びせられようか。
 綾葉は頬をほんのり桜色に染め、ただ慌てて言うだけだった。
「ううん、もう全然!気にしてないから!本当!だからお兄様も気にしないでね……あ!これこれ!最後の一個キープしておいたの!お兄様好きだったでしょ?」
「僕も好きなんだけどな……」
 恨めしげな史河の声を無視し、綾葉が差し出した抹茶プリンを受け取って、テルゼが淡く微笑む。
「ありがとう……史河君、半分食べるかい?」
「え?いいの?それじゃ……ってぇ!」
 綾葉の肘鉄が史河の脇腹に炸裂する。
「さっきから一人で食べまくってるくせに、この期に及んで意地汚い事言わないの!」
「本人がいいって言ってるんだから、お前がとやかく言う必要ないだろ!」
「お兄様は気を遣って言ってるのよ!少しは遠慮しなさいよバカ!」
 息の合った夫婦漫才のような口喧嘩を繰り広げる兄妹に、テルゼは何か眩しいものを見るような視線を送っていたが、
「なあテル坊主。なんでまた今になって、そんな皇子様ルックになって来たんだ?」
 エリフォンの声で我に返る。
「ん、これですか?綾葉ちゃんのリクエストなんですよ。ジャン君には悪い事をしてしまいましたが……おかげで助かりました」
 飢えた狼の牙にかからんとしている哀れな子羊を思い、テルゼは十字を切って頭を垂れた。
「……大丈夫かね、あの坊主」
 見ると、例の少年が会場内に飛び込んできていた。間髪入れず金髪の美女も後に続く。しかしテルゼは落ち着いたもの。
「ここにはジュラルさんも居る事ですし。彼の目の黒いうちに最悪の事態に発展する事は、まずないですよ」
「そのジュラルなら今は留守だぞ」
「はい?」
 スプーンをその手に取らんとしていた皇子の動きが止まり、紫紺の瞳が周囲を捜査する。
 確かに肝心要の青年の姿が見当たらない。
「さっきルフィアちゃんの忘れ物を取りに出て行ってな。
 今頃は〈世界の頂〉の中じゃねぇか?少し時間がかかってるみてぇだが」
 エリフォンの言葉にふと、テルゼは考え込むようなそぶりを見せると、
「実は先程、転移装置に誤作動がありまして……生身の人間が第三階層にまで転送されてしまっていたんです」
 無論、当事者はジャンの事に他ならない。
「そらマジかよ。一歩間違えばあの世行きだぜ」
 目に見えて巨大なレイグリフの宮殿であるが、その神髄は見えざる部分にこそある。人間には知覚出来ない時空の壁を隔てた先に広がるのは、闇さえまどろむ世界の果て──すなわち冥界。ここは次
席魔皇の居城にして、現象界と精神界の狭間で二つの世界の秩序を
監督する、最高の司法機関でもあるのだ。
 あの時口にはしなかったが、テルゼがジャンを発見した第三階層とは、人間が人間として存在し得る限界地点にあたり、さらに宮殿の深部へと降りる事は、直ちに死へと繋がる実に危い場所だったの
である。
「ええまったく。あってはならない事故です。すぐ当直の警吏に調査を命じておきました。しかし──」
 テルゼが皆まで言う前に、エリフォンが彼にしては珍しく、やや硬い面持ちで口を開く。
「お前も気づいたか。どうも亜空間──いや、時空間自体に乱れが出ているみたいだな。虫食い穴や乱流こそ発生してねぇものの……ったく、すっきりしないぜ」
 自分達のあずかり知らぬ所で、何かが起こっている。
 これはただの〈嵐〉ではない……そう本能が告げていた。
「滅多な事はないと信じたいですが……念には念を押したほうがいいでしょう。
 僕は今からジュラルさんの様子を見に行ってきます」
「そうだな……
 お〜い、お前らいい加減にしろよ〜」
 自分たちが会話している間も、攻撃的な漫才を続けていた兄妹であったが、エリフォンの戒めの言葉に、一時幕を下ろしたようである。
「はい、殿下。お言葉をどうぞ」
「綾葉ちゃん。来たばかりなのに申し訳ないけど、ちょっと地上の方に行ってくるよ」
「ええ〜」
 案の定、落胆の声を上げる綾葉。
テルゼはその肩にそっと手を置くと、我が子を諭す慈母にも似た微笑みを浮かべ、
「今度はそんなに待たせないから。許してくれるよね?」
 この笑顔を出されたら、綾葉としてはもう引き下がるしかない。
「……いってらっしゃい」
「はい、行ってきます。
 そうそう。兄さん、僕かジュラルさんが戻ってくるまでに、ジャン君が本格的な危機に陥ったら助けて  あげて下さいね。よろしく」
「ええっ!?俺がァ!?
 エリフォンが素っ頓狂な声を張り上げた時には、もうテルゼの姿は会場から消えている。
 それを見計らって、ずうずうしくもテーブルに残された抹茶プリンの器を取ろうとしていた史河の手を、綾葉は思い切りつねってやったのだった。

 

〈世界の頂〉──そのセントラルホールへと通ずる回廊内の一点が、突如空間に不思議な揺らぎを刻んだかと思うと、床にほっそりとした影を産み落とす。
 音もなく虚空からその場に降り立ったのは、いずれこの宮殿の主となるはずであろう若き天魔の皇子──テルゼである。
「さてと……ジュラルさんはまだホールの中かな?」
 転移装置の移動記録を閲覧したところ、この一時間、こちらからレイグリフの宮殿へと到るルートはまだ使用されていない。転移装置が致命的な誤作動を起こしていない限り、ジュラルはまだこの宮殿のどこかに居るという事だ。
 テルゼは知覚を広げ、宮殿内に彼の気配を辿る。〈全知〉に頼らずとも、この程度の範囲であれば、基本能力で充分対応出来る。
 ほどなく目標の人物をセントラルホール内に発見すると、テルゼはさっそく早足で通路を進み始めたが、
「…………………」
 つと、その足が止まった。
 周囲の空間に何か妙な違和感がある。
(誰かが…こちらを見ている……?)
身体にまとわりつくようにねっとりとした……殺気こそ感じられないが、何とも不快な視線。
 だがおかしな事に、対象者にこれだけ強くその存在を感じさせながら、視線の主の位置を特定する事は出来ない。
 テルゼはさらに全神経を研ぎ澄まし、空間を捜査する。その精度は今や戦闘時のものにまで達していた。
 それでもなお、慮外者の姿を捉えられない。
(…………くそ!)
極度の精神集中と胸騒ぎに、額を冷たい汗がつたった時、考えるより早くテルゼは虚空を翔けていた。
 セントラルホールの舞台袖──異界の青年魔導士が居るであろう、その場所へ。


 うず高く積み上げられた舞台道具の中、手の中にある黒いローブと宙の一点を交互に見つめながら、ジュラルはその場に立ち尽くしていた。
「今の奴は……一体……」
 この異世界に来てからというもの、常に彼につきまとっていた当惑の感情は、今の出来事でさらに強く、思考能力を一時奪うほどにまで膨れ上がっていた。
 ジュラルはしばし前述の動作を繰り返した後、何とか気を取り直し、目的の色紙を腕の間に挟みこんだ。
 何はともあれ、まずは会場に戻ろう。
 緩慢な挙措で入り口へと身体を向ける。
 テルゼが転移してきたのは、ジュラルが振り返ったまさにその時だった。
「……………!」
 目の前にいきなり現れた見慣れぬ男の姿に、思わずジュラルは得物に手をかけるが──
「待って下さいジュラルさん。テルゼです」
「…………」
 言われてよく見ると、青年の白皙の美貌には、確かにあの少年の面影がある。
「本当に君なのか……テルゼ君?」
「はい。転移装置に少々不具合が見られたので、安全を考慮してお迎えに上がった次第です」
 敵意がない事を示す両腕を上げた姿勢をとったまま、まるで目の前にある原稿を読み上げているのかのごとく、すらすらと受け答えるテルゼ。
 ジュラルの手がゆっくりと刀の柄から離れ、周囲の殺気が消えていく。
「そうか……誤解とはいえ、すまない。あんな事があったものだからつい……」
「あんな事?」
「ああ。実はさっきまでタイタニーの格好をした怪しい奴が……」
(……………!)
 刹那。
 テルゼの知覚に、あの時の視線が蘇った。
 しかし今度ははっきりと、視線は空間のある一点へと凝集する。
 視界の端に違和感を覚え、テルゼは瞳を動かした。
 部屋の奥、舞台装置が作る影の中にひっそりと、まるで闇と一体化してしまっているかのように「それ」は存在した。
 ゆったりとした黒衣に頭からすっぽりと包まれている長身痩躯。その姿から年齢や男女の別は勿論の事、人間なのか魔族なのか、そもそも本当に「それ」がそこに存在しているのかすらテルゼは判断しかねた。
 目深に下ろされたフードの下の顔は、影に隠れてしまっていてこちらからは見て取る事が出来ない。 だがテルゼは今、その見えぬ相手の口元に、皮肉な笑みが結ばれているような気がしてならなかった。
(あれは……何だ……?)
 脳裏を疑問符が過ぎったその瞬間。
 一つの映像が目に──いや、思考に直接飛び込んできた。

 虚空に渦巻く、闇よりもなお暗きもの。
 脈動するその中心でこちらを見据える恐ろしく紅い瞳──

「…………どうした?
 おい!しっかりしろ!」
 何かに魅入られたかのように大きく目を見開き、自分の背後を凝視している青年に只ならぬものを感じ、ジュラルは咄嗟に自分も振り返ろうとしたが──
「見るな……!」
 鋭い声と同時に、腕をつかんだ強い力によってそれは阻まれた。
 テルゼは苦労して瞼を閉じると、大きく息を吐き、何とか呼吸を整えた。
「……失礼。もう大丈夫です」
 そうジュラルに答えた声は、意外なほどしっかりしていたが、微笑みを浮かべたその顔色はいまだ蒼白く、とても安心出来るものではない。
「本当に大丈夫なのか?……まさかさっきの奴が……」
「お気遣いありがとうございます。ですがご心配なく」
 きっぱりと言い切る。
「さあ、会場の方に戻りましょう。お話はそれからです。
 僕がここから直接誘導しますので。姫君達がお待ちかねですよ」
 穏やかであるが、その口調にはどこか有無を言わせぬ強いものがあった。
「……そうだな」
 テルゼの態度にどこか釈然としないものを感じつつも、別れ際のルフィアの表情を思い出し、ジュラルはとりあえず彼の提案に従う事にした。

 
 転移に入る瞬間、ジュラルは肩越しに背後を一瞥してみた。
 だが、やはりというか、もはやそこには何も存在しなかった