「あ〜あ……」
今夜何度目になるかわからないため息が、綾葉の唇から漏れた。
滞在期間中〈世界の頂〉内にあてがわれた自室で一人。
ベッドの上に寝そべり天井を睨みつけながら、綾葉は今日一日の出来事を思い出していた。
あの後──
ほどなくしてテルゼはジュラルを伴い、会場へと戻ってきた。
と、そこまではよかったのだが……
間もなく、二人は何やら難しい面持ちで会話を始めると、そこへさらにエリフォンが加わり、和やかなムードのホール内で、まるでそこの一角だけが切り離されてしまったかのように、他者をよせつけない硬い空気が、彼らの周囲を鎧った。
さすがの綾葉も気が引けてしまい、大人しくその動向を見守るだけであった。
しばらくの後、やっと話に一区切りついたかと思い、声をかけようとしたその矢先、テルゼは単身、今度はダレンフィムとレイグリフのもとへ行ってしまった。
何だかんだで結局、彼が綾葉達のテーブルに落ち着いた頃には、祝宴も終わりに近づいてしまっていた。
テルゼ自身「全メニュー二週はするつもりでいたのに……」と残念無念の表情で唸っていたが、それ以上に綾葉の落胆は大きかった。
テルゼは今回のコンサートでスタッフと出演者を兼ねていた為、ここ数日は、ろくに顔を合わせる事も出来なかったのである。
とても忙しい人だというのは、今までの生活の中で充分わかっていたつもりだったけど……
(こんな時くらいみんなと一緒に楽しめばいいのに)
普段は好ましい、世話好きでお人よしの彼の性格が、どうにも恨めしく思えてきてしまう。
(うちのダメ兄貴のいい加減さを分けてあげたいわ……)
そして逆にその責任感の欠片でもいいから移植させてもらおう……出来れば知性もおまけしてもらえないかしら……
そんな取り止めのない事を考えているうちに、いつの間にか綾葉の瞼は落ちていた。
再び綾葉が瞼を開けた時には、すでに日付が変わっていた。
「いっけな〜い!」
慌てて跳ね起きると、シャワーで寝汗を流し、部屋着に着替えた。
そしてあらためてベッドの中に入ったが、シャワーを浴びたせいかすっかり目が冴えてしまい、何度寝返りをうっても寝付けそうにない。
眠ろうと頑張れば頑張るほど、反って眠りから遠ざかるだけなので、諦めて綾葉はベッドから起き上がった。
窓際に立ち、カーテンを開ける。
見ると、広い中庭を挟んだ対面の区画に、いまだ煌々と明かりが点っている部屋がある。
(お兄様……まだ仕事しているのかしら)
闇の中ぽつんと輝く光に、何ともいえない恋しさを感じて、綾葉は突き動かされるように部屋を出ていた。
深夜。
現在大宮殿は夜の腕に抱かれ、数時間前の活気が嘘のような静寂に包まれている。
皆、今日一日を夢の中に振り返りつつ、疲れを癒している頃であろう。
しかし、自室に戻ったテルゼは、強い疲労を感じつつも、執務卓に着いたまま、休息を取れずにいた。
多忙を極めたコンサートも──途中アクシデントもあったが──なんとか無事終了し、珍しく他に急ぎの用も入っていなかったので、今夜は久々にまとまった睡眠時間が確保出来る事を期待していたのだが……
卓上に肘を着き、組み合わされた指の上に額を押し付けた姿勢で、テルゼはその貴重な時間を黙考に耽っていた。
先刻からのどうしようもない胸騒ぎが、彼から安らげるはずの時を奪っている。
ここにきて突然発生した時空間の乱れ。そしてそれに呼応するかのように現れた謎の存在。
タイタニーに姿を借りて、ジュラルとコンタクトを取ろうとした不審な男と、自分が見た「あれ」は、おそらく同じものであったと考えてよいだろう。
だが一体何のために?あの時あの場所、さらに手の込んだ変装までして、ジュラルを待ち構える必要があったというのだ?
危害を与える事もなく、ただ彼に色紙を渡して消えた正体不明の男。何も語らず物陰からじっとこちらを窺っていた「あれ」──
それらも十二分に不気味であったが、何よりテルゼの不安を煽っているのは、「あれ」を通して感じ取った強烈なビジョンであった。
今思い出しただけでも寒気が走る。見る者へ一方的に叩きつけられる狂気と恐怖。それはまるで生きとし生ける者全てを憎んでいるかのように、膨張を繰り返しながら光を──命を喰らい続ける。
もたらされるのは破壊と絶望。残されるのは絶対的な虚無──
現段階で得られている情報から察するに、「あれ」は他勢力の上級天魔で、押し寄せる破壊のイメージは、その軍勢を象徴しているのであろうか?
──否、「あれ」は……そしてそこから垣間見たものは、そんな可愛らしいものではない。
「うっ……」
突如、自らの制御を超え溢れ出した情報が思考を埋め尽くし、意識が溺れそうになる。
テルゼは顔を上げる事によって、強引に意識をも現実世界に引き上げた。それと同時に思索を強制終了する。
「考えるだけで心臓に負担がかかるなんて……まったく、つくづく迷惑な連中だ」
汗ばんだ額にはりついた髪をかき上げて、テルゼはせいぜい悪態をついた。
ふと、来客用に備え付けられた時計に目を向ける。
「ああ……もうこんな時間か。
やれやれ、これは今夜も徹夜かな」
椅子から立ち上がり、思い切り伸びをした後、テルゼは一服しようと隣の部屋にある流しへ行こうとしたが──
「……入っておいで」
憂いに翳っていた麗貌が急速に生気を取り戻し、その口元に柔らかな微笑みが結ばれる。
優しさに満ちた視線が投げかけられた先──執務室のドアがゆっくりと開くと、そこに立っていたのは、彼の思った通り、あの負けん気の強い少女であった。
部屋の前まで来てはみたものの、綾葉はどうしたものかと悩んでいた。
(いくら相手が起きているからって……やっぱこんな時間におしかけるなんて非常識よね)
それに大切な仕事の邪魔をする事にもなりかねない。
このまま大人しく部屋に帰るか、それとも迷惑を承知でドアをノックしてみるか……
なかなか決心がつかないまま、その場をぐるぐる回っていた綾葉であったが、次の瞬間、救いの声がその耳に飛び込んできた。
「──入っておいで」
(ああ……そっか)
テルゼほどの使い手であれば、声などかけなくても、誰かが部屋の前に立っただけで、気配を感じ取ってしまうだろう。その事をすっかり忘れていた。
(ここに来た時点ですでに迷惑かけてたのね……私)
何とも申し訳ない気分で、綾葉はドアを開けた。
「こんばんは……」
「いらっしゃい綾葉ちゃん。眠れないのかい?」
テルゼはいつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれる。
「……うん。ちょっとね。
あの……ひょっとしなくても……迷惑だったかな?」
不安げな表情で問いかけてくる少女に、部屋の主は明るく答えた。
「とんでもない。僕も今夜は眠れなくてね。ちょうど退屈していたところだったんだ。
歓迎するよ。さあ座って。すぐお茶を入れてくるから」
言って彼は隣の部屋に消える。
綾葉は勧められた椅子にちょこんと腰を下ろすと、物珍しげに部屋の中を観察し始めた。実はこちらにあるテルゼの部屋に招待されたのは、今夜が初めてなのである。
まだ年若いが、内外から文武の類を問わない辣腕家として知られている東宮の執務室は、綾葉の予想に反し、意外と散らかっていた。
執務卓の上には、無雑作に書類の束やデータディスクなどが積み上げられており、今にも雪崩を起こしそうになっている。その近くには、高そうなティーカップが一客。あの位置だと書類が崩れた時、一緒に床へ落ちてしまうのでは……などと勝手に心配してしまう。
そうして処々を見回しているうち、逆にこの部屋に漂うアバウトな雰囲気が、自分の緊張をほぐしてくれている事に気づく。
実際、テルゼほど多忙な人物が、他人の手も借りずに、決して狭くはない執務室を完璧に片付けておく事の方が不自然だ。仮に当初の予想通り、彼が隅々まで磨き上げられ整頓された室内で書類をめくっていたなら、その完璧さにすっかり気後れしてしまい、これほどくつろいだ気分でお茶が出てくるのを待ってはいられなかっただろう。
(……ん?そういえば、お兄様には執事さんとかっていないのかしら……)
ごく自然な疑問が、綾葉の中に浮かぶ。
貴人の側近といったら、黒服が似合う紳士と相場は決まっているではないか(断言)。
しかし、テルゼにそういった類の部下がいるという話は、終ぞ聞いた事がない。どちらかというと、テルゼ自身がエリフォン達の使いっ走り(失礼!)という印象が強い。よくよく考えれば奇妙な話である。
「綾葉ちゃんはここ初めてだっけ?汚くてびっくりした?」
テルゼが盆を片手に戻って来た。彼自身のスタイルも、今は白いシャツに黒のパンツと、ラフでシンプルなものになっている。伸ばした髪は、デスクワークがしやすいようにか、うなじの所でまとめられていた。
「ううん。これくらい、史河の部屋に比べれば断然綺麗よ。
ねえお兄様」
「なんだい?」
「なんで執事さん使ってないの?」
「へ?」
応接用のテーブルにカップを並べながら、きょとんとするテルゼ。
「ほら、やっぱ定番じゃない。セバスチャンとかベルナルドとかその他色々……ねぇ。
そういう人に書類の整理とか、こういうお茶の仕度とかやってもらうだけでも少しは楽になるんじゃない?」
「…………執事………ああ、なるほど!その〈執事〉か!わかったわかった」
ぽんっ、と手を打ってようやく合点のいった顔を見せるテルゼに、綾葉は小首を傾げる。
少女の困惑を見て取って、テルゼはすぐに言葉を付け加えた。
「この国では、高級官僚をさして特に〈執事〉って呼んでいるものだから、ちょっと混同したんだ。
……そうだね。確かに便利かもしれないけど……今の僕には必要ないかな」
今必要じゃなくて何時必要になるというのか?
思わず心の中で突っ込んだが、本人が必要ないと言っているのだから仕方ない。こう見えてテルゼは非常に頑固なところがあるので、自分のライフスタイルには合わないと感じている以上、綾葉が何を言っても人を置こうとはしないだろう。
「はいどうぞ」
差し出されたカップの中には、品のいい薄紫色をした茶が注がれている。湯気にのって甘い香りが綾葉の鼻腔をくすぐった。
「不思議な色のお茶ね」
「綺麗だろう?このお茶は僕が生まれた地方の特産品なんだよ。原料に使われている花っていうのがそこでしか採れないんだ」
言ってテルゼはカップに口をつける。
「というと……」
綾葉もつられてカップを取った。
「もちろんこの国じゃ手に入らないからね。母に頼んで持ってきてもらったんだよ」
「へえ……あ、おいしい……」
一口含むと、爽やかな甘みが口の中いっぱいに広がる。素晴らしい香りといい、まるで局所的に春が訪れたかのようだ。
「気に入った?」
「うん!すっごく!こんなお茶初めて!」
綾葉の感想に、テルゼはまるで自分の事を褒められたように、にこにこする。その嬉しそうな表情に、綾葉の心も温かくなった。
「それは良かった。お茶としての味もなかなかだけど、この花自体もすごく綺麗なんだ。ちょうど日本の桜の木みたいな感じで、季節になると枝いっぱいに花を咲かせてね……ああ、そういえばもうすぐそんな時期になるのか……」
夢見るような口調の彼の目には、きっと満開の花々の様子が映し出されているのだろう。
「僕の家の庭にもその木が植わっていてね。小さい頃はよく登って遊んでた。特に今からの季節は最高だったな。特等席で時間がゆるす限り、花と空を眺めていたっけ……」
良家の子息然とした容姿に似合わず、やんちゃな幼少時代を送っていたようだ。
それにしても、テルゼ本人から自分の話を切り出すとは珍しい。
綾葉がテルゼと生活を共にするようになってから、気がつくと大分時間が経っていたが、彼についてはまだまだ知らない事の方が多かった。
今のところ分かっているのは、生まれてから物心つくまでは、人間として母一人子一人で暮らしていたという事。それから天魔として力が覚醒するに到り、現在の地位へと迎えられ、地球にやって来た、というしごく簡略化された経歴だけだ。
一緒に過ごしていれば、こうして話をする機会も少なくないのであるが、そういう時はだいたい、テルゼはにこにこしながら綾葉の話を聞いているばかりで、会話を成り立たせる為に必要とされる以上の情報を自身の言葉に織り込む事はまずなかった。
その生い立ちに興味がないわけではなかったが、あまりうるさく詮索して、優しい彼を傷つけるような真似だけは絶対にしたくなかったし、過去がどうであれ、綾葉は今のテルゼが大好きだったから、それでも彼と話す時間は充分過ぎるほど楽しかった。
「私も……」
空になったカップを置くと、綾葉は遠慮がちに口を挟んだ。
「見てみたいな。今すぐでなくてもいいの。いつか……その花が綺麗に咲く頃、連れて行って。お兄様が生まれた……想い出がいっぱい詰まったその場所に」
「………………」
返ってきたのは、喜怒哀楽の全てが含まれているような、何とも微妙な表情。
「やっぱり……駄目かな?」
綾葉の声には少なからず落胆が含まれていた。
「……いや。
そうだね……いつか、きっと……」
いささか歯切れの悪い口調ながらも、テルゼは前向きな考えを綾葉に示した。
綾葉の顔がぱっと明るくなる。
「本当?じゃ、約束ね」
「うん……」
テルゼは微苦笑しつつ、綾葉の小指に自らの小指を絡めた。
「それじゃあ、お茶も飲み終わったし、そろそろ移動しようか」
「え?どこへ?」
立ち上がって自分のすぐ隣に立った彼に、綾葉が訊ねる。
「もちろん綾葉ちゃんの部屋に決まっているだろう?」
「私、もう少しここで話していたいなぁ……」
上目遣いで渋る綾葉に、テルゼは大仰に腰に手を当てて言った。
「だーめ。夜更かしは美容の大敵だよ?それに僕が一晩中君を寝かさなかった、なんてエリフォン兄さんに伝わったら、その後何て言われるか……」
『生娘相手にしっぽり楽しみやがってこの絶倫皇子!』とか何とか、ある事ない事言いたい放題にされるのは必至だ。
「サービスするからさ、ね?」
今度は優しく、綾葉の顔を覗き込んでお伺いを立てる。
「サービスぅ?」
綾葉がからかうような少し意地悪な声を出すと、テルゼは微笑み、さっと少女の身体を抱き上げた。もちろん〈お姫様抱っこ〉であるのは言うまでもない。
「不肖ながらこのテルゼ=フォルナー、姫の安らかな眠りのお手伝いに尽力させていただきますので……参りましょう」
至近距離で見る器用なウインクに、綾葉の赤い顔はますます熱くなるのであった。
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