「なんだってまあ、こんなシケた宿とったんだよ」 「文句があるなら帰れ」 「二人共…こんな所で瘴気を出して喧嘩するんじゃない…おい、エリィ。ここの女将、なかなかの器量良しのようだぞ、ほれ」 「へっ?どれどれ」 都心から最も近い温泉街の一つ、伊豆は熱海市。 その昔…東京がまだ江戸と呼ばれていた頃。時の支配者である徳川将軍家より時折、御湯の献上が下されたという由緒正しい湯治場である。 その中心街より少し離れた場所に位置する、昔ながらのひなびた一軒宿の前に、宿の雰囲気とはあきらかにズレた印象のある、毛色の異なった三人連れの客の姿があった。 いずれも、そこいらに転がっている安っぽいアイドルなぞ尻尾を巻いて逃げ出す程の美形である。 一人は、淡紅色の髪を膝に届く程長い三つ編みにしている、年齢は二十歳前後、長身の野性的な美青年。服装は淡い髪色とは対照的な黒づくめで、今、若者達の間で流行している、銀製のアクセサリーをうるさくない程度につけている。 「うーん…ちょっと俺の守備範囲より上になっちまうが…母性本能くすぐりまくり大作戦≠ナいってみますか…フッ。俺の二つ名がまた増えるな…〈マダム・キラー=エリリン〉ってか?」 「愚弟が。三十路も近いというのに、何が母性本能くすぐりまくり≠セ。みっともない」 前髪をかきあげて格好つける三つ編みの青年に冷たく言い放ったのは、先刻、彼に同じ調子でもって「帰れ」と言っていた、白のジャケット姿の男性。 年齢は三つ編みの青年よりも若干上──どうやら彼の兄らしい──で、三つ編みの青年にはない、老成した雰囲気の持ち主である。おちついたブラウンの髪。中央できっちりと分けた少し長めの前髪から覗く、涼しい目元が印象的である。甘いマスクとは対照的な、重々しい物言いと低い響きを持つ声は、まるで封建時代の君主のようであった。 そんな二人のやりとりを、長身痩躯の男性がガイドブック片手に見守っている。年の頃は前者とさして変わらない。肩口までのばした銀の長髪。碧玉の双眸。ネイルブルーのカジュアルスーツに身を包むその美貌は、周囲の視線を集めずにはいられない、類希な品格を持っていた。 銀髪の男性に、弟とやりあっていた白ジャケットの男性が、不快感をあらわにした口調で耳打ちしてくる。 「そもそも何でまたコイツが付いて来たのだ!私達二人が、日頃コイツのせいで心身共に溜まりまくった疲労を解消するために、東宮に頼んで、『人目につかずのんびりできる場所』をとってもらったのだぞ──諸悪の根源たるコイツが一緒では、全く意味がないではないか!」 銀髪の男性は苦笑して、激昂する相手を宥めすかす。 「まあまあ…たまには兄弟そろって──カナートがいないがそれはおいといて──休暇というのもいいのではないか?政務も忘れて楽しもうではないか」 そこへすかさず、三つ編みの青年が、神妙にうなずきつつ相槌を打ってくる。 「そうそう。それにこういう温泉旅行ってのは、三人一組で来るもんだって昔っから法律で決まってるんだよ」 「──で、殺人事件に巻き込まれるわけだな?」 「そんな法律聞いたこともない」と言う白ジャケットの男性に対し、銀髪の男性の方は、思いの外乗り気のようである。 「わかってるじゃねえかぁ、ダレフ兄貴!『美形三兄弟・熱海温泉湯けむり殺人事件・パート1!湯気にまぎれて暗躍する暗殺者集団!密室での完全犯罪を、圧倒的魔力でもってねじ伏せる、痛快娯楽大作!ああ、女将は今日も眠れない!』うっしゃあ!完璧だ!」 「パート1≠チて…パート2≠烽るのか?」 うんざりした様子で、白ジャケットの男性が、誰に言うでもなくつぶやく。 「パート1∴ネ下、なにげに番組の主旨と違ったコピーではないか?」 銀髪の男性──ダレフと呼ばれた彼も、白ジャケットの男性と顔を見合わせ、首をひねっている。 「なにげも何も…全然あっとらん。殺人事件≠ナ娯楽大作≠ニは支離滅裂もいいところだ。まったく」 あきれた声で弟達につっこむ白ジャケットの男性。 「何でこの前衛的なセンスが理解できないかね?新しいものを生み出そうとする者は、常に孤独だな」 フッと鼻で笑い、あさっての方を向いて一人たそがれている三つ編みの青年を残し、二人の兄はさっさと旅館の中へ入って行ってしまった。 「──!ちょっとまてよ!おいっ!」 あわてて二人を追いかける三つ編みの青年。 おそらく、普通の人間の目から見れば、業界人のお忍び旅行か何かに見えたかもしれない、三人の男性達──しかし、この場にもし彼らの真の姿を感知する事のできる存在──ことに〈神〉に属する者がいたのなら、恐怖でその身を震えあがらせていたであろう。 〈魔皇〉の称号を冠する大魔族が同時に三体も降臨している事に。 普段身に纏っている純白の法服に代わり、同色のジャケットを中心としたコーディネイトでまとめている男性が、〈深淵の王〉などの二つ名で知られる魔皇レイグリフ──冥界の最高責任者の一人であり、厳格な法の番人として神魔を問わず畏れられる〈法皇〉である。 その傍らで、旅館の女将と談笑している銀髪の男性は、かつて全天で至高神の呼び名を欲しいままにしていた、伝説の〈智を覇する者〉あるいは〈全知神〉とも称される魔皇──〈十二天魔〉総帥・首座魔皇ダレンフィム。 最後の一人である、一見、渋谷あたりでガールハントでもしていそうな印象の三つ編みの青年もまた、魔皇として畏怖される〈血桜花〉エリフォン──陽気な外見からはとても想像できない戦闘能力の持ち主で、彼の通った後には焦土しか残らないと謂われている〈絶対の滅び〉の化身。 一度〈力〉を解放すれば、その余波だけで都市の一つや二つ軽く吹き飛ぶ──そういう無体な連中なのである。 もっとも、今回の下界降臨は世界制覇を狙ってのものではない。彼らの言葉通り、純粋に温泉での骨休めが目的という、実に呑気なものである。 …本来、物理的実体をもたず、高エネルギー意識体──平たく言い換えれば精神生命体──として存在する〈天魔〉が湯治に来るというのは、実にナンセンスで無意味な事なのだが、彼ら三体とその一族は、こういう妙に人間くさい風習を好んでする傾向があった。 確かに、気分転換ぐらいにはなるかもしれないが。この事を他の〈天魔〉が耳にすれば笑い転げる事は必至である。 …だからこそ力を極力抑え、土着の〈神族〉もとい〈天魔〉達を刺激しないように物理具現化しているのである。 しかし、力は抑える事はできても、彼らの非凡な美貌の発する魅力までは抑えられぬらしく、たちまち周囲の視線を釘付けにした。(だったらもっと地味な格好で具現化すればいいのに、というツッコミは無効) 「ねえ、見た?見た?今日入った三人連れのお客さん達!」 「すごいハンサムだったわね。モデルか何かかしら?」 客室係の女性達の話題をかっさらうのに、ものの十分もかからなかったようである。 「でも、業界人じゃないって言ってたわよ。〈管理職〉がなんとかって…どこかの実業家の御曹子ってところ?」 「いいなあ〜。あんな美形さんを拝みながら仕事できるなんて…最高の職場じゃない。タレントでもあんな格好いい人、見たことないわよ」 「若いのに落ち着いていて紳士的で…世の中には、ああいう完璧な人間もしっかり存在してるのねぇ」 彼女達はすっかり彼らの毒気にあてられてしまったらしい。出てくるのは感嘆の溜息と、賞賛の言葉ばかりである。 「だけどよ、あの三つ編みの兄ちゃんは、ビジュアル系ってなあ感じで、ちょっとオツムが弱そうだよなあ」 そこへ、四十過ぎぐらいの板前の男性が厨房から顔を出し、先程偶然目にした、例のセンセーショナルな客の姿から受けた印象を口にする。 「そうね。いかにも遊んでそう」 「調子よさげ」 「あ、あたし声かけられたわよ」 「やっぱしそういうタイプなんだ」 「…だあれが『オツムが弱い』ってぇ〜?」 これは、自分達の部屋で一連の会話を盗聴していたエリフォンのうなり声。あまりにも不本意な、自分に対する〈褒め言葉〉の数々に、彼は怒りの叫びをあげた。 「いっつも俺が三段落ちのトリになるんだっ!兄貴達ばっかりいい目をみてよ!」 「どうどう」 「俺は馬じゃないっ!」 旅館の人々の会話内容を、その特殊能力で中継していたダレンフィムが発した一言に、エリフォンの怒りは頂点に達した。彼の怒気に呼応して周囲の空間に不協和音が走る。 「俺がその気になれば、コロンビア大学もMITもぺぺぺのぺっ!なんだからな!くやしかったら相対性理論説明してみやがれーっ!」 ちなみに『MIT』とは『マサチューセッツ工科大学』の略である。コロンビア大学にいたっては解説の必要はあるまい。 「人間の知識レベルで頭の良し悪しを競ってどうするのだ。馬鹿馬鹿しい」 確かに、彼らにとって人間の学識など、とるに足らない不完全なものに過ぎない。──物理的世界法則などいとも簡単に崩壊させ、超越する──今もこうして〈見聞きできるはずのない風景〉を、彼らは認識しているのである。現実主義者のレイグリフにしてみれば、エリフォンの言った台詞は、滑稽も甚だしい限りであった。 ───しかし─── 「…この世界の人間レベルで娯楽を満喫しているヤツに言われたかぁねぇよな」 「もっともだ」 ダレンフィムとエリフォン、二人のジト目の先にいる兄は、すでに旅館の浴衣姿でテレビのリモコンを握っていた。 「私達はここへ湯治に来たのだぞ?目的の行動を円滑に進めて何が悪い!」 …もっとものように聞こえるが、先程の台詞の説得力を見事に崩壊させている。 そういいつつ、テーブル上の茶菓子などをつまんでいるのだから、ますますいけない。 「そういうことにしておきますか」 「そうだな」 言って二人も彼と同様の姿になった。しかし、正直なところ全く似合っていない。 それは前者のレイグリフにも言えた。 三人共、日本人男性の平均身長よりかなり上背があるため──部屋に入る時、エリフォンは入口で額を強打し、涙目になっていた──長い足が必要以上にすそからはみ出していた。 普段の服装が著しく露出度が低いこともあり、えらく艶めかしい。 「さて。どうしたものかな。夕食までは大分時間があるし…」 ダレンフィムがつぶやくのを、エリフォンは嬉々として、 「それじゃあ食前のガールハントでも…」 『却下』 ダレンフィムとレイグリフ二人の声が見事にハモり、エリフォンの提案を打ち砕いた。 「大岡越前≠フ再放送でも見た後、さっそく風呂に入ってくるか?」 ダレンフィムの言葉にレイグリフも頷き、 「そうだな。だがこの地域はTBSは入るのか?」 「大丈夫だ。ここはキー局はおろか、地方局まで入る素晴らしい地域でな。四時からのTBS版に続けて、五時からのSBS版再放送まで視聴可能だ」 「なんと!それは豪気なことよ」 はしゃぐ兄達の様子を見て、エリフォンはジト目で、 「オッサンコンビめ…」 レイグリフとダレンフィムの二人は、外見こそ見目麗しい二十代の若者だが、実際は前者四十五、後者三十八歳というそれなりの年齢故に、言葉の端々に押し寄せる年波を感じさせる。…旅館のおっちゃん達も、まさかこの三人の平均年齢が三十七歳とは夢にも思うまい。 そして一際垢抜けた銀髪の美男子が、今年十五になる息子の父親で、彼の兄にあたる品の良い男性が、筋金入りの骨董マニアだとは。 ──〈神〉をもビビらす〈魔皇〉とは。 ただ、エリフォンだけは、その見た目通りの性格をしている。しかし、年齢の方はいわずともがな、であるが。 気ままな独身貴族、ならぬ独身魔皇も三十路直前。ぼちぼち『いい人』を見つけて落ち着きたい年齢なのだが、彼の場合、普段の素行が素行なだけに、交際相手には困らないが、本妻となるべき存在がいっこうに現れない。 そんなエリフォンとは対照的に、ダレンフィムは妻子持ちだというのに、未だその事実を知らぬ者は──彼の正室が王宮に存在しないからである──婚約を申し込んでくる始末である。 そうでなくても、ダレンフィムが〈失楽園したい魔皇〉NO・1になっているのをエリフォンは知っていた。 (兄貴相手にときめいている女共に、この光景を見せてやりてぇな) 日本茶をすすりつつ、籠にもられた煎餅なぞをぱりぽりと食べながら、時代劇を見ているその姿は、ごく平凡な家庭の父親となんら変わらない。いつもの一挙手一投足全ての動きが、あらかじめ計算されているかのように美しく決まっている、天上人然とした雰囲気とのギャップが凄まじい。 上の兄であるレイグリフもまた同様である。通常執務を行っている時の彼は、猛禽のような鋭い眼差しで周囲に威圧感を与え続けている。常に冷徹であり、敵と認識した存在に対しては全く容赦がない。こいつは必要とあらば俺らでも殺すんじゃなかろうか、とエリフォンは本気で思っている。 そんなレイグリフも、今はのんびりとテレビ画面に視線を向けている。 手には、よく馴染んだ、高級ブランドのカップ・アンド・ソーサーがあり、そのカップの中の紅茶は、特別に取り寄せた一級品の原料をもとに彼自らブレンドしたものである。品質の違いはその香りから明らかであった。 浴衣姿にはミスマッチもいいところだが、本人は気にしていない。彼にとっては欠くことのできない一服の清涼剤であり、これがないと落ち着かないのである。 エリフォンは二人の兄とは全く趣味が合わないため、しかたなく窓の外──幸い景色だけはとことん良い──を眺めてみた。 (ったく…変わった事があるかと思って付いて来てみれば…何にもねえじゃないかよ。同じ熱海に泊まるなら、後楽園ホテルか何かにすりゃあ良かったのに。金には困ってないんだからさ) だったら一人好きなように振る舞えばいいのだが、何だかんだ言ってつきあっている。 (あーあ。マジに殺人事件でもおきねぇかなぁ…) つい物騒な事を思い始めてしまう。 (のんびりするって事に馴染みがねえから、いざ、こういう環境に放り出されても、何をしたらいいかわかんねぇんだろうな。向こうの方から何かがこないと動けないなんざあ…情けないもんだぜ) 「おい、エリィ」 ダレンフィムが声をかけてきた。 「そう言ってお前が事件をおこさんでくれよ」 何を考えていたか彼にはお見通しのようだ。 「はいはい。今回はわが親愛なる御兄様方の為に大人しくしていますよ」 エリフォンが両手を挙げて誓言する。…どこまであてになるかはわからないが。 「それではそろそろいくか?」 レイグリフが立ちあがって大きく伸びをする。 「へっ?まだあと一時間あるんじゃねぇのか?」 「いや…ここまで来てテレビばかりというのも何だしな。何よりお前を退屈にしたままだと何をしでかすかわからん」 「…信用ないのね」 こうして三人は、部屋を出て浴場の方へと向かっていった。
「今月の予算案の確認、完了…おい!そこの書類はまだ持っていかないでくれ。サインしていないんだ。アポのない謁見は後回し!人間自治区代表者との会合は、少し遅らせてもらえないか?頼む、すまない││だあああっ!何だってこんなに仕事がたまってるんだよ!ここは!」 三魔皇が温泉で羽を伸ばしていた頃。地球から遠く離れた彼らの〈本国〉──Sエリアに位置する魔皇エリフォン直轄領では、彼の代行者である〈東宮〉セイクリッド──テルゼ・フォルナーである──が山積みの書類と分刻みのスケジュールに、鬼神のごとき勢いで立ち向かっていた。 今の彼は二十歳前後の端正な容姿を持った青年であるが、プライベートは年相応の愛らしい少年の姿をとっており、これはいわば『仕事用』の顔である。切れ長の碧眼に高い鼻梁。形のよい唇は、今はむっつりへの字に歪められているが、微笑みをたたえれば実に魅力的に違いない。黒衣に映える黄金色の髪は肩口まで伸びており、中性的な美貌をさらに際だたせていた。美術品的な完成度を持つ父親のそれとは異なり、彼の美しさは、名匠の手によって鍛えぬかれた鋼の刃を思わせる鋭さがある。 今、彼は猛烈に後悔していた。 思えば過労を訴える伯父に「温泉なんていかがですか?」と言ってしまったのが運の尽き。 その場に居合わせた、父であり、直属の上司にあたるダレンフィムと、それを偶然耳にした、もう一人の叔父であるエリフォンまでもが、同時に休暇に入る事になってしまい、結果、その三魔皇の抜けたしわ寄せが、全て彼のもとへくるハメになってしまったのである。 「消耗しているっていうのなら、僕の方が、あの三人よりずっとしているじゃないか…こっちが温泉に行きたいよ…トホホ」 泣き言をもらすテルゼの目の下には、真っ黒なくまができている。ここ数日不眠不休──当然食事もとってはいない──状態で、彼らの代行を勤めているのである。さすがにガタがきているらしい。外敵からの攻撃にはめっぽう強い彼でも、精神的にくる疲労にはかなわない。 テルゼは、執務デスクの横にあるサイドテーブルに置かれた、日本茶を注いであるカップを手に取ると、一気に飲み干した。──こういう時の〈お約束〉はコーヒーなのであるが、実のところ日本茶の方がコーヒーよりもカフェインの含有率が高いため、それを重々承知している彼の仕事のお供はいつもこれであった。 テルゼもまた、御多分にもれず〈天魔〉であるから、当然本質は精神生命体──体外物質の投与によって影響を受けることはないはずである。が、彼の場合〈人間〉──物理生命体のパーソナルパターンを組み込まれた──平たく言うならば人間の血をひいた──〈新型〉の為、あの三魔皇よりも限りなく通常生物に近い形──物質体として存在している。 それ故に、物質で構成され存在している部分は、やはり体外からエネルギー摂取しないと、その生命活動に支障をきたし、存在を保てなくなってしまう。 …よって、今の彼は心身共に満身創痍、最悪のコンディションで執務をこなしていた。 それでもめげずに仕事を続けていられるのは、彼生来の『不屈の根性』のなせる技である。 「うおおおおおおおっしゃああっ!」 テルゼは雄叫びをあげて椅子から立ち上がった。その勢いで机上の書類がヒラヒラ舞う。 それにはかまわず、彼は懐中から深紅のハチマキを取り出すと、気合いを入れて額に縛り付ける。 「あと残り二日!のりきってみせる!のりきってみせるさ!…のりきれるといいな…いや!のりきれる!」 自らを叱咤激励すると、彼は再び、山積みの書類に目を通し始めた。 「これだけがんばっているんだ。土産の一つも買ってこなかったらしばき倒してやるからな…でも、それがこけしやちょうちん、木彫りのクマだったら…フフフ…」 くぐもった笑いが部屋に反響した。 「楽しみだなァ…」 はたして土産を楽しみにしているのか、しばき倒すのを楽しみにしているのか──どちらにしろ、テルゼは先程より幾分機嫌良く──鼻歌など歌いながら──書類にサインしたのであった。
「それではいざ!魅惑の園へレッツ・ゴー!」 執務にあたっている時には考えられないような、満面の笑顔とはりきりぶりで、浴場の入口を──今回は先刻の反省を生かし、しっかり身をかがめて──くぐろうとしたエリフォンの襟を、レイグリフがむんずと掴み、引き戻す。 「待て。貴様どこへ行くつもりだ」 ドスのきいた声で訪ねてくる兄に、エリフォンは悪びれもなく、 「何をおっしゃる兄上。今回の我々の目的をお忘れですか?お・ん・せ・ん!このために来たのではあーりませんか!」 彼はレイグリフの手を振りほどくと、何事もなかったようにきびすを返し、再び暖簾をくぐろうとする。その前に仁王のごとくレイグリフが立ちはだかった。 「馬鹿者!こっちは女湯であろうが!」 「はへ?ここ、混浴じゃないの?」 とぼけた声をあげるエリフォン。 「この文字が読めんのか!女!お・ん・な!そのデカイなりをして、お前はあくまで自分を女人と言い切るか!」 エリフォンはゆっくりと視線を動かし、暖簾にはっきり女湯≠ニプリントされているのを確認した。 しばしの間、その場を沈黙が支配する。 ──五、四、三、二、一… 「何ィィィィッ!?このボーダレスな時代、そのような悪習は全て滅び去ったと思っていたが──こんなところにまだ〈世界の敵〉は残っていたのか!油断大敵、大胆不敵! しかぁし!この俺、御町内の婦人会から、遠くは宇宙の彼方イスカンダルの謎の美女まで!全ての女性の騎士たる〈血桜花〉エリフォンが来たからには、もう老いたる法度は駆逐されるのみ! 新たなる世界に生きる若人達のためにも、俺は退かない!」 長台詞の後、あっけにとられている二人の兄をよそに、エリフォンは素早い動きで暖簾を取り去り、さわやかに汗をぬぐう仕草をしてみせた。 「『世界の敵』は今ここに、俺の手によって倒された──もう我々の自由を妨げる者はここにあらず。 つーわけで。 今度こそダイビン・トゥ・パーラダーイスッ!またせたな!今行くぜ!白霧の中で俺を待つ、紅色の頬の乙女達―!」 ぐがすっ! レイグリフの手加減抜きの鉄拳が、エリフォンの端正な横顔へ見事に決まった。 「カーン、カーン、カーン」 その傍らで、相変わらずポーカーフェイスのまま、ダレンフィムがゴングと化していた。 普通の人間であれば顎が砕け散ってしまっているだろうが、そこは『腐っても魔皇』。エリフォンはふらつきながらも立ち上がり、ギッとレイグリフを睨めつけた。 「何するんじゃあ!ムッツリスケベの鬼畜法皇がっ!俺が一体何をしたってんだ!?オウオウ!」 「誰がムッツリスケベだ!?自己中色欲大バカ魔皇に言われたくないわっ! そもそも貴様はお呼びでないのにちゃっかりついてきた身であって、本当なら即刻強制送還なところを我慢してやっているのだぞ! あまつさえ、一族の名に泥を塗るような破廉恥行為で私の神経を逆撫でするとは…貴様の辞書に『自重』という言葉はないのか!?王者たる誇りはないのか!?」 「兄貴こそ『英雄色を好む』って名文句を知らないのかよ!?ったくそんなにガミガミしてっから四〇過ぎても独り身なんだよ! …ははああん。そうか。兄貴、あんた俺に嫉妬してるんだろぉ〜?そうだよなぁ〜。我が身はすでに盛りを過ぎて、あとはわびしい晩年をむかえるばかり。対して弟は今まさに絶頂期!若くて有能、両手に花束!凄腕で知られるエンペラー・オブ・ダークネスだもんなぁ〜」 レイグリフは怒りに拳をわななかせ、こめかみに青筋を浮かべている。もうひとつつきすれば爆発しそうな恐慌状態だ。すでに抑えきれない怒気は、周囲の空気を淀ませ始め、命あるもの全てを憎み殺しかねない勢いである。幸い、傍らに控えているダレンフィムが、同速度で瘴気を中和しているため、大事には至っていないだけであった。 しかし、端から見るとこの二人(正確には二体)、五十歩百歩で口論のレベルが人間(しかも子供)と変わらない。(率直に言うと低レベル) まあ、そこまで忠実な人格を構築しているというのは、ある意味すごい事なのかもしれないが。 状況にはいっこうに構わず、エリフォンは続ける。 「うん、うん。そう考えていくと全てに納得がいくぞ。兄貴は体に自信がないから混浴できないんだ!トシからいうと、もう下っ腹のへんがヤバイもんな。俺をここへ連れて来たくなかったのも、普段ローブなんぞ着込んで体の線が極力出ないようにしているのもそのためだ! ──結論!『レイグリフ公は、更年期障害による欲求不満を、現役美形の弟にぶつける単なるヒステリーおやじ』…」 ばかふっ! 再びエリフォンの頭は床にめり込んだ。 「リフ!落ち着け!落ち着くんだ!〈法皇〉の貴方が人間界で殺人犯になったら、末代までの恥になるぞ!」 「止めるなああっ!殺すとは言わん!滅ぼしてやるぅぅ! 男性に対して『更年期障害』などとうそぶく、赤っ恥魔皇を野放しにしておいてなるものかあっ!」 「……魔皇にゃ性別も…寿命も何にもなひ…」 「まだ言うかああっ!?」 ただでさえ目立つ三人が、浴場の前で大騒ぎしているとなれば、人目を惹かないわけがない。 いつの間にか周囲には人集りができており、三人に奇異と畏怖の視線が向けられている。 しかし誰も止めようとはしない。 おそらく、彼らの持つ異様な雰囲気がそうさせないのであろう。 ダレンフィムは激昂する兄となおも食い下がる弟の間で、一人冷静に状況判断を下していた。 「このピンク頭の常春ボケ男!去ね!去ね!今すぐ去ね!」 「茶髪碧眼バカ男!滅びるまで皿数えてろ!」 「お前達…」 ダレンフィムがおもむろに口を開く。 「それ以上仲良く喧嘩を続けるというならば『衝撃!魔皇様御乱心!レイグリフ=ハルヴェン=アフラロイド(45)、エリフォン=スザック=アフラロイド(29)、美形兄弟はやはりデキていた!今明かされる禁断の愛の軌跡』と称して、あらゆるメディアに垂れ流すぞ…」 『…………』 二人は動きを止めると、ぎぎぎぃっと顔だけをこちらへ向けてきた。 ダレンフィムは神々しい笑顔で念を押す。 「いいんだな?」 その口調は実に穏やかなものであったが、逆に底知れぬ恐ろしさを二人に与えた。 この男はやるといったらやる。 それが共通の見解であった。 「じ…冗談はよしてくれよ?ダレフ兄貴。そんな事したら、兄貴だってそのホモ兄弟と同類と見なされるぜ?」 青ざめた笑顔で言葉を返すエリフォンに対し、 「私の事は心配するな。妻も息子もそろって身の潔白を証明してくれるだろう」 全く動じない彼に、レイグリフも疲れた顔で 「…エリィ…諦めろ。諦められるな?私も我慢してやるから、お前も我慢しろ。いいな? ダレフ…頼むからそれだけはやめてくれ」 「わかってくれればそれでいい」 (やっぱりダレフ兄貴が一番恐ろしい…) エリフォンはほっとしつつも、改めて次兄に戦慄するのであった。
その時間は風呂に人気がなく、ちょうど貸し切りのようになっていた。人目を気にせずゆっくりでき、三人にとっては好都合である。 「…おい…あまり人が脱衣するのをじろじろ見ないでくれ…」 ダレンフィムが、自分から視線を外そうとしないエリフォンに溜息をつく。 「ついに男色に走ったか?エリィ」 レイグリフが茶々を入れてくる。 「んなわけねーだろうがよぉぉっ!何が悲しゅうて、実の兄に欲情せにゃあならんのじゃあっ! ただほれ!それのせいだよっ!」 ダレンフィムの体には、彼がじろじろ見るに値するものがあったのである。 「ああ…これか。お前には見せた事がなかったな…」 普段紺碧の式服の下に隠されている、彼の均整のとれた体躯には、随所に戦闘の際受けたものであろう、古傷があった。 中でも特に目を惹くのが、左肩から右胸にまで至る、袈裟懸けにつけられた大きな傷である。 今ここに存在している彼らの体は、物理世界と意志疎通し易くする為の端末にすぎない。故に、その体についた傷は、消そうと思えば簡単に消せるはずであった。 「その傷…消せないのか?それとも消さないのか?」 レイグリフの問いかけに、ダレンフィムは短く答える。 「両方だ」 (そうか──) エリフォンは思い出す。 (あの時〈真なる恩恵〉にやられた傷か…だったら消せねぇよな) 傷は本体中枢部にまで届いているのであろうと、エリフォンは推測した。 「まあ、私の体はどうだっていい。それよりエリィ。お前の自慢の体はいつになったら披露してくれるのだ?」 「はっ?」 すでにレイグリフもまた、鍛え抜かれたその体をあらわにしている。先程エリフォンが揶揄したような、無駄な肉などどこにもついてはいない。彼はこれ見よがしに弟につっかかった。 「ひょっとして…その年になって恥ずかしいのか?修学旅行の小学生ではあるまいし、まさかなあ…うん?」 それにダレンフィムも便乗してくる。 「お前、リフの事をとやかく言っていたが、自分の方がそうなのではないか?」 「ほほ〜う。自分の照れ隠しに私を使ったのか?エリィ。全くいつまでたっても子供だなあ」 二人は弟にずいっと歩み寄ると、エリフォンは思わず逃げ腰になってしまう。 その反応が、さらに二人を刺激してしまったようである。 「───!よ…よせっ!さわるなっ!自分で脱ぐからっ!だあっ!どこさわってんだよ兄貴!」 「よいではないか、よいではないか〜」 「ほらほら、エリィ。セオリー通り『あーれー』と言ってまわらんか。面白くないぞ」 「おまえら時代劇の見過ぎじゃあっ!悪代官ならぬ鬼法皇と狂魔皇めっ!」 『言え』 「…あーれー」 この三人、何のかんの言っても仲は良い。…しかし、エリフォンはともかく、ダレンフィムとレイグリフ、二人の暴走ぶりを直轄領の人間が見たらどう思ったであろうか。
「ふう…温泉がこれほど良いものとは思わなかったな…次に来る時は妻も連れて来たいものだ」 雪花石膏の肌に血の気がかよい、容顔をほんのりと紅く染めているダレンフィムは、見るからに上機嫌である。 旅館の浴場は、典型的な岩の露天風呂であった。 「本当に絵に描いたような温泉だよなー…チッ!これでナイスガールが一緒だったら最高なのに」 エリフォンが心底残念そうにつぶやく。 「こら!エリィ!風呂の中で抜き手をきって泳ぐな!ぶっ!顔にかかったぞっ!謝罪せんか!たわけ!」 レイグリフはやはりエリフォンが一緒だと、神経を使わずにはいられないようである。アルコールも入っているのだが、ちっとも酔いがまわらない。 「なあ〜ダレフ兄貴ィ〜。『千里眼』で女湯の様子を中継してくれよォ。エリリン一生のお・願・い」 「お前の『一生のお願い』はちっとも『一生のお願い』ではないな。…今まで何回『一生のお願い』をしてきたと思っているんだ…」 ダレンフィムが呆れて言う。 「なあ〜持ってる力は有効に使おうぜ?今の俺らは『至高なる魔皇様』じゃなくて、ただの『美形三兄弟』なんだからさ。体面なんか気にする事ないだろう?誰に迷惑かけるわけでなし、罪にはならねえよ」 「十分プライバシーの侵害だ!よくもまあ、この私の前で、いけしゃあしゃあとそのような話ができるな?」 レイグリフが二人の会話の内容を聞いて憤激する。 「だったら、さっき、客室係の女の子達の会話を中継していた時点でそう言えよ。あの時は何にも言わなかったじゃねーか。 そういや…あの時のいいだしっぺはダレフ兄貴だったよな〜。『暇つぶしに』って。ダレフ兄貴はよくて、俺はダメかよ。昔っからリフ兄貴はダレフ兄貴に甘いよな」 エリフォンにそう言われると、レイグリフは言葉につまってしまう。 「なるほどね。エリリン名推理パート2!」 レイグリフの様子を見て、エリフォンは指をビシッと立てると、声高らかに言う。 「迷推理≠フ間違いだろ」 冷静にツッコミを入れるダレンフィム。 それには聞く耳もたずに、エリフォンは一人悦に入った調子で続ける。 「俺は今確信した!リフ兄貴が何故、モテまくりのくせして、独身で通しているのか!ズバリ!ダレフ兄貴に実の弟以上の好意があるからだ! フフフ…『禁断の愛』しているのは、俺とじゃなくてダレフ兄貴とだろ?仲むつまじいもんなぁ〜。いっつも二人一緒にいるしぃ〜。兄貴の嫁さんが見てぬ間に何やってるんだかなぁ?今回の旅行はさしずめ、失楽園旅行だって思われてもしょーがねーよな。 だったら俺、聖華ちゃんもらっちゃおうっと。美人だったよな、結構。 俺が貴女を満たしてさしあげましょう!冷たい兄にかわって」 刹那、辺りに殺気が満ちた。先刻のレイグリフが放ったものとは比較にならない、濃厚な瘴気が御湯を沸騰させ、岩をも砕く。 「ぎゃあっ!あっちい!」 「エリィ…お前と私は敵になってしまうのか…そうか。残念だ」 慌てふためくエリフォンの背後から、冷徹な声がかかる。エリフォンはおびえ、ひきつった笑顔で振り向いた。 そして、今さらながら自分の失言に気づく。ダレンフィムの表情は特に変化をきたしていない。だが、彼が本気で怒り狂っているのは、自分をとりまくこのどす黒い瘴気の渦と、彼の目を見れば明らかであった。 戦えば勝てるだろう、おそらく。少なくとも負けることはないはずである。 しかし、それはあくまで一対一の場合の話。 エリフォンは自分の背後にもう一つの殺気を感じていた。 お湯はとんでもなく熱いのに、背筋は凍りつくようである。額には脂汗がにじんできた。 「お前の辞書には『学習』という言葉もないらしいな…我が血族ながらあっぱれに愚かな奴よ…いくらお前といえども私とダレフ、同時に相手はできぬだろうに」 「リフ…手加減は無用だ」 八方塞がり。こうなっては逃げることさえできない。 「うう…俺、兄弟の絆、信じてるからね…」
「はっはっは。実にいい気分だ。極楽。極楽。ようやく私も温泉気分にひたれるな」 「冥府王の貴方が言うと何ともアレだな。ま、もう一杯」 ダレンフィムは酔って普段の顔からは考えられない程陽気な笑顔を見せる兄に、さらに酒をすすめる。 「『温泉や 色ボケ魔皇が 夢の跡』なーんてな」 「いやあ。パクリはいかんよ、リフ。座布団一枚没収だ──おい、土左衛門は向こうで浮いていろ。気分が悪くなるであろうが」 そんな二人の間を、ズタボロにされたエリフォンが無言で流れていった──合掌。
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