実にのどかな日であった。 今思えば〈嵐の前の静けさ〉というやつだったのだろう。 その時彼は平和を満喫していた。部屋の窓を開け放ち、そこから見える蒼い空を眺めながら、 (ああ、僕もあの雲のようにのんびりと、あの風のように自由に世界を行きたい……) と、叶わぬ願いに思いをはせていた。 「おーい、テルゼ。メールが入ったよ?」 ごく平均的な日本人の容貌をした少年──王豹史河はそんな窓辺で惚けている金髪の少年に声をかけた。 彼は史河とはあらゆる意味で対照的な少年であった。学業、運動成績共に優秀。雪のように白い肌をした華奢な美人。まさに学校の花形。理想の具現者。 しかし──史河は彼を羨ましいとは思わない。これっぽっちも、ミドリムシの鞭毛程にも感じない。彼の立場になるなんて、頼まれたって御免である。 一見、何もかも全てに恵まれた幸福な人間である彼の実態は、何もかも背負わなくてはならない不幸な魔族──天界において数々の要職を兼任する次期首座魔皇、コードネーム・テルゼ=フォルナーことセイクリッド=ダーウェル=アフラロイド。通称〈東宮〉である。 時に〈神〉とも〈魔王〉とも謳われ、魔族において最大の権力を持つ〈天魔〉──その中でも最高のエリートと言える彼だが、はっきり言って『らしく』ない。 今もこうしてポケーッとお空を眺めては「ほへー」っとしている。人畜無害なその様子は絵に描いたように穏やかである。実際、彼の美しさは芸術を通り越してそれこそ神域に達しているわけだが、よく見るとその涼しげな目元は妙にそこだけ人間臭く、少々腫れていた。 その原因が三日前に自分がレンタルしてきたアニメ映画のビデオにある事を史河は知っていた。この作品は名作として一般人、マニア問わず評判であったが、よもや人外の化生を感動させる事になろうとは、皆夢にも思っていなかっただろう。 ……と、人が良い事この上ない彼であるが、超ド級の破壊力を行使する〈魔皇〉である事に変わりはない。 彼の前では最新鋭戦闘機も紙飛行機同然であり、炸裂すれば等しく滅びをもたらすであろうミサイルやレーザーもその課された意味をなさない。 ……曰く、一人で数個艦隊を全滅させた。十秒もかからずに要塞を陥落させた。拳一つで小惑星を爆砕した……等々、洒落にしか聞こえない〈実話〉を彼の部下であり親友の〈天魔〉から聞かされたのはいつだったか。 とどのつまり、人間がケンカを売って敵う相手ではない。 否、少なくともここ地球に住まうあらゆる生物種の中で、彼に匹敵する戦闘能力を持つ者は存在しない。 彼がその気になれば、今この瞬間にも頭上の大気を軽く吹き飛ばす事など容易なのだ。 だが、そんな彼──テルゼさえ頭の上がらない無体な連中がこの世には存在する。 それも複数。 今、史河の学習机──といっても、実際はほとんどテルゼの出張オフィスと化している──に置かれたノートパソコン型の携帯端末にメールをよこした相手がまさにそれである。 「くぉうらぁっ!テル坊主!さっさとでんかいっ!給料差っ引くぞ、オラ!」 ほとんどヤクザのような怒号が、テルゼの耳に入ってきた。 (冗談はよしてくれ……今でさえ完全無欠に労働基準法違反だっていうのに……僕に人権はないのか!? ──ないんだよな……わかってるさ……言ってみただけさ) フッと自嘲の笑みを浮かべた後、テルゼは仏頂面で、パソコンのディスプレイと向かい合った。彼のよく見知った相手がこちらを睨んでいる。 「今日はなんですか?兄さん……頼まれた紀香のビデオは上の鬼平と一緒に送っておきましたよ?請求書もついていますからね?前のような誤魔化しはナシですよ?」 「今はそんなみみっちい事を言ってる場合じゃないんだっ!」 (……と、いう風にアンタは今まで何回僕をだましてきたよ?) 彼の目の前の人物──エリフォン=スザック=アフラロイドはそういう男だった。実に要領が良いのである。 淡紅色の長髪を三つ編みにした髪型が特徴的な青年で、正装である要所要所に金糸の縫い取りが入った漆黒のコートを短い法衣の上に羽織っている。深窓の令息風のテルゼとはまた違う、野性的な魅力を持つハンサムだった。 しかし陽気な好青年はあくまでも仮の姿。テルゼがそうであるように、見た目にそぐわぬ強大無比な魔力を有し、魔族中から畏怖の対象とされる三界(天界・冥界・現象界)きっての破壊王。それが〈血桜花〉魔皇エリフォンの本性である。 「あ、〈ファンシーサギ魔皇〉さん。久しぶりですね〜」 だが、史河にとって彼は〈ただちょっとばかり若作りな友人の叔父〉に過ぎない。 「だからその……〈ファンシー詐欺師〉っつーのはいい加減やめてくれ……」 「だって本当の事じゃないですか。男のくせに『エリィ』ちゃんなんて反則ですよ。何かこう……『ゴルキンアイス』とか、『ドマタバキャウラー』とか、いかにもド魔族な名前だったらいいのに……センスないなぁ……」 「……かく言う『ゴルキンアイス』と『ドマタバキャウラー』のどこにセンスが存在しているのか俺には理解不能だが…… そんなことより! テル坊主──いや、〈東宮〉セイクリッド。緊急事態だ!」 いつになく真剣な面持ちでエリフォンは叫ぶ。それはビデオ代をチャラにするための演技には見えなかった。 テルゼの顔にも緊張が走る。 「了解……史河君は下がってくれ」 「ああ、その必要はない。そいつにも知る権利があるんだ」 「……?」 怪訝な顔をする〈東宮〉にエリフォンは 「世界の……宇宙の危機だ」 大真面目に言い切った。 「な。ど、どういう事です!〈護戦神〉!」 「もう……俺では……俺だけではどうする事も出来ない……」 彼らしくもなく歯切れの悪い口調。 「……お前だけが頼りなんだ……どうかその手で森羅万象あまねく命を救ってくれ!」 「なんか……いきなり『話の風呂敷を広げ過ぎて畳み方が分からなくなったシリーズ構成作家の脚本』みたいな超展開になってきたね」 「妙に生々しい例えだね史河君…… というか、もともとそういう世界観の話だからね、うちの場合。 それより一体、何がおきたというのですか?」 改めて問われたエリフォンはうなだれて、搾り出すようにテルゼに告げた。 「……ケンカ……しちまった……」 『はぁ!?』 異口同音、仲良く呆れた声を上げる少年二人。 「ケンカって……いつもの事でしょう?伯父様と兄さんの日課のようなものじゃないですか」 ケンカ──エリフォンとテルゼの間でこの単語が主に意味するところは、すなわちエリフォンとその長兄であるテルゼのもう一人の伯父、レイグリフとの兄弟喧嘩である。 アバウトな性格のエリフォンと几帳面なレイグリフは事あるごとに対立するが、大体テルゼの直属の上司であると同時に父である、ダレンフィムの仲裁(という名の脅し)で丸く収まるのがパターンであった。 特にテルゼが出る幕ではないはずなのだが。 「違う……今回は俺と兄貴じゃない……」 「じゃあイグナツ兄さんですか?」 「アホゥ!あんな奴相手だったら正面きって俺がドツイて黙らせたるわい!」 「つまり、エリフォンさんが正面きってド突き倒せない相手だと」 「えーと……まさか……もしかしてもしかすると……?」 汗ジトで呟いてみる〈東宮〉に、こくりと画面で頷く〈護戦神〉。 「……多分、お前の予想通りだ。 あってはならない悪夢……進行状況はレベルTだ」 がたあああああん! 「ど……どうしたの!?テルゼ!しっかりするんだ!」 史河はいきなり卒倒した友人の身体を慌てて抱き起こした。 「う、うう、そんな……」 すぐに意識を回復したテルゼだが、顔色は悪く、唇はわなないて、視線は宙を彷徨っている。 「まったくどういうことなのさ!?さっきからわけがわからないよ!」 衝撃から未だ回復し切っていないテルゼに代わってエリフォンが答える。 「──進行状況レベルT──首座魔皇ダレンフィムと冥王府法皇レイグリフの史上最悪の兄弟ゲンカ──魔皇同士の私闘だ」 |