「……何が原因でこんな事になったんですか」

 光と闇が入り混じり、時間と距離とが弾けて消える。

 〈本国〉へと続く次元ルートを進みながら、いい加減うんざりした気分でテルゼは言った。

 凄まじい速度で互いに遠ざかりつつある宇宙と宇宙を超法規的な〈特権〉で繋ぐ、言わばトンネルであるこの虚数空間への扉は、並みの魔力では開く事が出来ない。この〈扉〉を創る事が出来るか否かは、皇族としての威信を大きく左右する。空間転移の跳躍可能距離は、〈天魔〉の実力を測る一つの目安となるからだ。

 座標を設定する為に必要な演算能力、空間接続の為に必要とされる魔力容量──どちらが欠けても時空間を渡る事は許されない。

 無論、首座魔皇の後継者たるテルゼも、今彼の横をほぼ同じ速度で進む〈神〉の称号を持つエリフォンも自在にこの〈扉〉を開く事が出来る。しかも継続的に。

 そのおかげで彼等の臣民は、〈人間〉ですら他勢力の〈天魔〉の脅威に脅かされる事なく、安全な独自のルートで転移航法を行えた。

 この事も『同業他社』……他勢力の〈天魔〉から疎まれる原因となっていた。恒星間移動すら可能とする安定した長距離転移は高位〈天魔〉の専売特許。同胞の中ですらごく限られたものぞ知る超次元の理をこうも他種族が簡単に行っていては、それを支配の拠り所としてきたもの達としては面白いはずもない。従来の〈天魔〉の勢力図から大きく外れた『もう一つの存在』(サード・フォース)。それが彼ら〈十二柱〉とそれに属する星間諸国である。

 こちらにその気がなくとも〈十二柱〉を仮想敵とする勢力は多い。そんな孤高の大国であるからこそ、内部抗争があってはならない。故に諸国家間の条約によって魔皇の私闘は厳禁となっていた。

 その存在が〈現象〉そのものと合一している〈魔皇〉達は比喩でも何でもなく〈本国〉そのものであり、差し迫った時の最後にして最大の戦力である。それが個々のいがみ合いの末、自滅してしまっては元も子もない。最も人間より遥かに生物種として円熟した性質をもつ〈天魔〉であるから、それぞれの持つ矜持から、余程利害関係に食い違いがない限り、そう緊迫した事態に至る事はないのだが、念には念を入れるに越した事はない。万が一の事態に備えて彼等の力は均衡し、三竦み状態で互いを監視している。さらに近年、彼等と同等の力を持ち、それでいて〈魔皇〉達とは一定の距離を保った独自の派閥を築きつつあると言われる調停者たる〈東宮〉の存在により、世界危機の危険性は輪をかけて低くなったはず……だったのだが。

「起こっちまう時には起こっちまうんだよなぁ……ぼやいても仕方ねぇだろ。

 しかし、だ」

 エリフォンは疲れきった顔でうめき声を上げた。

「今回は相手が悪い。

 よりにもよって同盟の要の総帥と、法の元締め担当の〈法皇〉が禁忌を犯す事になりゃあ、他の〈魔皇〉やいがみ合っている諸侯どもがどう反応をとる事やら……最悪国家崩壊の危機だぞオイ。

 何としてでも事が大きくなる前にどうにかせにゃあならん!」

 〈十二柱〉以下の〈天魔〉は元より〈眷属軍〉ではない。それぞれの〈魔皇〉を始めとした大天魔達の利害関係が複雑に絡み合って形成されている世界だ。性格的には人間世界の『連合国軍』に近い。

「……どうにかせにゃあならんのだが……どうしよう」

「どうしようって……止めればいいじゃないですか兄さんが!兄弟ゲンカのうちに!」

「簡単に言ってくれるけどなぁ!俺があの二人に敵うと本気で思ってんのか!?

「思っているからこそ初めて成立する〈十二柱〉でしょう!?伯父様の力に対応しているのはエリフォン兄さん貴方でしょうが!条約でもそう成文化されています!責任もって使命を遂行して下さいねっ!」

「てめー言わせておけば他人事だと思いやがって!リフ兄貴の事は百歩譲るとして、ダレフ兄貴はてめーの親父で上司だろうが!部下として息子としてどうにかしやがれ!」

「もちろん言われずとも協力はしますけど、責任は兄さんがとって下さいよ!僕はあくまで補佐役です!ここははっきりとさせて頂きます!何でも僕に押し付けないで下さい!」

「ちっ……テル坊主のくせに生意気な……」

「それって差別用語だと思います。

 協力するの、やめますよ?」

 テルゼはエリフォンを一睨みした後、

「……にしても、あの二人が争うなんて……未だに信じられないな……」

 テルゼが知る限り、ダレンフィムとレイグリフの信頼関係は表に見ても裏に見ても固いもので、決して揺るぎようがないものに見えた。

「だからこそ一度調子が狂うととんでもねー事になるんだ。

 ああ……またあの『ハルマゲドンとラグナロクがランバダを踊りながら走り去っていくような』日々がやって来るのか……」

「例えはともかく、何やら凄そうですね……」

「思い起こせばウン年前。〈十二柱〉恒例のヤミスキ大会において『実はナルシストな奴』という問題であの二人が接戦になってな……ダレフ兄貴が〈全知〉能力でリフ兄貴の話を盗聴しててよ……それが原因でえらい騒ぎになった……

 そういやあの時、『ムッツリスケベな奴』ナンバーワンに輝いたせいで、カナート兄貴は行方不明になった……とも言われている」

「……そんなくだらないゲームで世界を危機に晒さないで下さい」

 心底呆れた顔でテルゼは呟いた。

「今回の場合、その時とは大分ノリが違うが、とにかくヤバイ事に変わりはないからな。

 心してかかれよ」

 空間の出口が近い。そこを抜ければ彼らの直轄領である。

 

 

 

 事件の発端は数時間前に遡る。

「お疲れですか?陛下。少々お顔の色が優れぬ御様子ですが……」

 冥王次官・カロン=ステュクスは、目の前の席に深々と──軽い溜息と共に──腰を下ろした人物にこう奏した。

 否、人物というのは正しい表現ではなかった。

「案ずるな。務めに支障はない──奏上を続けよ」

 大きくはないがよく通る低い声で、彼の直属の上司である冥王府の主──〈法皇〉レイグリフは命じた。

 御姿は男性である自分から見ても、彼は掛け値なしの美男と言えた。

 深い知性を湛える澄んだ切れ長の碧眼。通った鼻筋。引き締まった口元。どこをとっても洗練された美術品のように素晴らしい。清潔に整えられた濃いブラウンの髪はしっとりとした輝きを放っており、一見細身であるが、均整のとれた身体は、現役の戦士にも見劣りしない。ゆったりとした白い法衣も彼の持つ見事な体躯と圧倒的な存在感を隠しきるには至らない。彼が法廷に姿を現す際に異様に膨れ上がる女性傍聴者の数も成る程、頷けるというものである。

 だが、彼は単に美しいだけでなく、指導者としても大変有能であった。自分はもちろんの事、彼に仕える多くのものが認めるところである。

 彼は決して部下を出身で差別する事はなかったし、自らに否があれば素直に認め謝罪した。それが例え人間である自分であっても、だ。

 かつてカロンが住まった世界では、いくら力のある魔導師とはいえ〈天魔〉に比べれば実に儚い命しかもたぬ人間が、〈魔皇〉の最高顧問という地位に就くなど想像だにしない話であった。はっきり言ってここにおける自分の待遇は魔族出身の士官と同等、あるいはそれ以上である。従来の常識からでは天地がひっくり返っても在り得ない栄誉だった。

 カロンはこの高潔なる王に絶対の忠誠を誓っていた。たとえ他の文官、士官、全てが敵に回ろうとも──まずそんな事態はありえまいが、それはあくまで例えというものだ──自分だけは最後の最期まで主君の側を離れまいと。

 生真面目な男は、難しい顔をして黒い瞳を文字がびっしりと並ぶ書類の上に走らせながら、こんなとりとめのない事を考えていた。

 しかし──もし本当にこの王と同等か、それ以上の存在──同じ〈十二柱〉の〈魔皇〉が敵に回った時、私はどれだけの役目が果たせるであろう。

 特級の法術士であるカロンは、下士官程度の魔族相手ならば対等に戦える実力を持つ、最強の人間の一人である。

 しかし、人間なのだ。人間にすぎないのだ。

 同じ姿をしていても、目の前の青年とは途方もない存在の差──すなわち力の差があった。

 これが〈法皇〉の右腕として十数年来の信頼を得ている冥王次官の不安の種であった。

 実のところ、自分は王にとって何の役にも立たない存在なのではないか──

「どうした。何か悩みでもあるのか?」

 どうやら気がつかないうちに溜息でももらしていたらしい。カロンは表情を意識して引き締めると、

「いえ、失礼致しました」

「お前の方こそ疲れているのではないか?」

「お言葉痛み入ります。ですが、御心配にはおよびません」

 そんな部下の様子にレイグリフは苦笑し、

「気負う事はない。お前は充分に力になっている」

 全て見透かしたように言うと、ふと、カロンの胸元に目を留める。

「初めて見るが……なかなか良い趣向の品だな」

「ありがとうございます。陛下の御目に留まったと聞けば、娘も喜ぶ事でしょう」

 執務服を飾る品のいいピン・ブローチを見るカロンの表情は、心なしかいつもより柔らかく見えた。

「娘か。幾つになるんだ?」

「今年でもう十五になります」

「そうか」

 〈東宮〉と──弟の息子と同世代か。言われてみれば、彼の年齢ならそのくらいの子供がいたとしても何の不思議もない。

 最もそれは自分にも言える話ではあるが。

 見た目こそ若者の部類に入るが、レイグリフが世界を見つめてきた年月は、世紀単位で数えても気が遠くなる。

 だが、彼には子供は勿論、未だここに到るまで皇后が存在した事もなかった。

 その必要がなかったからである。

(必要はなかった……確かにな)

「陛下」

「何だ?」

「以上で奏上は終了致しますが」

「ああ、わかった。問題ない。下がってくれ」

「それでは失礼致します。くれぐれも御自愛の程」

 深々と一礼し、腹心の部下は退室した。

 レイグリフはその後姿を見送った後、一人ぼんやりと、部外者が想像する程そう広くも豪奢でもない、執務室の天井を見上げて呟いた。

「子供……か」

 

 

 レイグリフがその職務をこなしているのと同じ頃、Eエリアに位置する〈世界の頂〉の名を冠する宮殿の自室で、ダレンフィム=ソルフィス=アフラロイドは一人、特別に取り寄せた玉露茶をすすりつつ、草加せんべいの入った器に手を伸ばしていた。せんべいを取った逆の手で『ハッスル(ママ)さん』というタイトルの雑誌をめくり、『貴女の愛が子供を救う』というページを熱心に読んでいる様は、まるで昼下がりの主婦のようであった。

 一見、暇を持て余して仕方がないように見える彼だが、今、こうしている間にもダレンフィムは凄まじい勢いで政務をこなし、軍を指揮し、敵対勢力のデータバンクに侵入し、各居住区の環境システムの安全チェックを行っていた。

(『ごめんなさい』と言える子供を育てるには──ふむ。これについては心配ないな──第三、第五ブロック閉鎖。各員は次の指示を待て──『ふれあいの教育』とは──M−159より167にかけて、大質量の転移反応の兆候あり。予想出現座標は──まず前年の条約について──幼少時からの正しい情操教育の必要が──撃沈した)

 かつて、日本の紙幣の顔としてよく知られた聖徳太子人物は、一度に十人の話を聞き分け回答したという伝説がある。この伝説を数百倍の規模で現代に実践してしまうのが、〈全知神〉と称えられる首座魔皇──〈十二柱〉の総帥たるダレンフィムであった。

 彼は『情報』という媒体によってその力を最大限に発揮する。周囲のありとあらゆる事象を認識し、そこから得た数値を高速演算、整理統合していく。

 ダレンフィムの情報処理能力は他の追随を許さない。彼はまさしく世界の中枢であった。戦略・指揮の天才であり、それでいて必要以上の争いは好まない慈悲深い性格。そして何と言ってもとどめは容姿の麗しさ。

 美しい瑠璃色をおびた銀髪と、紺碧の法衣の上に纏った純白の飾布(マント)を風になびかせている物腰優雅な男性は、見た者に感嘆の溜息をつかせずにはいられない、超然とした品格を持っていた。

 驚異的なカリスマ性で強大無比な〈魔皇〉すらも束ねる至高の存在──なのであるが。

 彼は視線を落としていた『ハッスル(ママ)さん』を閉じると、物憂げな動作で立ち上がった。仕事が一段落したのである。やがてトンと軽くその場を蹴ると、そのまま虚空に消えた。

 

 

 

 ダレンフィムが転移した先はいつもの丘陵であった。

 彼は一人で物思いに耽りたい時など、理由はさまざまであるが、仕事の合間を縫ってはここに来る。

 特にする事がなければ、現象界への干渉を停止して、本来あるべき場所へ還ればよいものを、ダレンフィムばかりでなく、〈魔皇〉や高位天魔のほとんどは四六時中人間達の前に姿を見せていた。

 やわらかな風に乗って、草木の爽やかな生命の香が彼に届く。ダレンフィムは木陰に寝そべり、瞳を閉じた。

 おだやかな日であった。木々のざわめきに混じって、遠くから子供の声が聞こえる。

(今日は休日だったかな……)

 瞼の裏に映像が結ばれる。特に意識せずとも〈全知〉の力が伝える周囲の状況。

 子供が走り回っている。まだ幼い兄妹。兄を追いかけて転んだ妹を、兄が駆け寄って助け起こそうとすると、傍にひかえていた父親が制した。二人で小さな少女を見守っている。少女はひとしきりバタバタと手足を動かした後、一人で立ち上がり、二人の方へてけてけと駆けて行った。父親は娘の頭を優しく撫でてやっている。離れた場所にいる母親が呼ぶ声がした。やがて三人はダレンフィムの認識設定範囲から消えた。

 特に珍しくもない、休日の家族連れである。平和そのものな風景の一部だ。

 しかし何故かダレンフィムはそれを見てどうにもやりきない気分になった。やおら草の上からがばりと起き上がり、服についた草の屑を払い落とし、その手を額に持っていく。

 じっと考え込むような姿勢で彼はしばらくの間佇んでいた。

 誰にも声をかけられなかったら、日が暮れるまでそうしていたかもしれない。

「……何やってんだ?兄貴?」

 耳慣れた軽い口調。いつの間にか彼の横にはエリフォンが怪訝な顔をして立っていた。

「エリィ……どうしてここに?」

 どこか呆然とした兄の表情を見て、エリフォンはさらに変な顔をした。

「どうしちまったんだよ?らしくねぇなぁ。最近兄貴おかしいぜ?

 ……っと、その話はひとまず置いておいてだな。

 助けてくれよ〜兄貴」

 言ってエリフォンはそそくさとダレンフィムの背後にまわる。刹那、虚空より二人の目の前へ姿を現したのは、お約束通りレイグリフであった。

「こぉうの逆成長男!何度私の皿を割ったら気が済むんだっ!?

 ついでにお前が宮殿へ来る度にコレクションが減っていくのは私の気のせいか!?

 さあ、今なら四分の三殺しで済ませてやる!潔く自首しろ!」

 えらい剣幕である。公の場では厳格にしろ至って物静かなレイグリフであるが、プライベートはまぁ、いつもこんな調子である。肩をいからして胸をそらす彼は、ただでさえ高い上背がさらに大きく威圧的に見えて、悪鬼羅刹でも萎縮してしまいそうな迫力であった。

「……またやらかしたのか」

 肩越しに振り返ると、エリフォンは顔の前で手を合わせ、

「わざとじゃないんだよ〜

 でも、リフ兄貴は割ったが最後、完全無欠に〈問答無用〉モードに入ってるしィ〜

 兄貴から言ってくれよ。『反省してる』って」

 ダレンフィムは今日何度目かの溜息をついた。

「あのなぁ……エリィ。『反省だけならサルでも出来る』って知ってるか?」

「知ってる!だから助けてくれ!」

「やれやれ……」

 ダレンフィムは鼻息の荒いレイグリフの方へと向き直り、

「と、いうわけだ。赦してくれ」

 悪びれもなく、さらりと言った。

「……お前……本気で仲裁する気があるのか……?」

 レイグリフの握り締めた拳が怒りでわなわなと震えている。どうもダレンフィムの一言は事態を収拾するどころか、火に油を注ぐ結果になってしまったようである(当たり前だ)。

白き魔皇の怒りの矛先は、ダレンフィムの方へと移った。

「そもそもそうやって事あるごとにお前がでしゃばってうやむやにしてしまうから、この愚弟がつけあがるのだ!

 お前は昔からそうだ。こやつを甘やかしてばかりいて。だからこんな風にどうしようもない、一族きっての破廉恥男に育ってしまったのだ!

 ヘラヘラと女の尻ばかり追いかけおってからに──恋だの愛だのただの現実逃避だろうが。馬鹿らしい」

 ざわり、と奇妙な気配が自分の中に広がっていくのをダレンフィムは感じた。その一言によって自分の一部を常に支配し続けている輪郭を持たない何かが、奥底より湧き上がってくる。

 しかし表面上、彼は相変わらずのポーカーフェイスで、何の変化も見られなかったが故に、レイグリフはここぞとばかりにまくしたてた。

「人間研究も結構だが、悪習までとり入れる必要はない!秩序が乱れる!

 こんな状態では〈東宮〉の行末も心配だな──指導者としてはともかく、教育者としてはまったくなっていないんだよ!お前は!」

 ここまで一息に言い切ってから、レイグリフは初めて自分が少々言い過ぎた事に気がついた。普段なら抑えるところを、何故かとめられなかったのだ。すぐに詫びようと、再び口を開こうとした──が、

「そうか……そうだな……よくわかったよ……お前はずっと陰で私の事を嘲笑っていたんだな……!?現実逃避の末に力を失った私を……!」

 既にダレンフィムは聞く耳を持っていなかった。凄惨な冷笑を美貌に張り付かせている彼の眼差しは、どこまでも暗く、そして怒りに満ちていた。

 次兄の尋常ではない様子に、エリフォンもまたすぐに気がついた。

「──ダレフ兄貴、こんなところで──」

「片腹痛いな……何も分からないくせに。何も知らないくせに。

 お前には……お前にだけは説教される筋合いはない!

 愛した事も、愛された事もない者が大口を叩くな!」

 滅多に感情を表に出すことがないダレンフィムが、怒りを露にしてレイグリフをどなりつける。いつも大人しい分、激昂すると手のつけようのない彼が、本気も本気、周囲を省みない程怒り狂っているのを『すこぶる危険』と感じたエリフォンは、慌てて兄を宥めようと試みる。

「お、落ち着けよ!別にリフ兄貴はそこまで言ってないだろ!?

 エリフォンはレイグリフの方へ目配せをした。しかし──

「ああ、私にはちっとも理解出来ないな。

 一時の衝動にかられて、全てを棒に振るような愚か者の気持ちなどわかってたまるものか」

 レイグリフの口から出たのは、さらに辛辣な言葉だった。

「なっ……何言ってんだよアンタはぁッ!?

「私は真実を言っているまでだ。

 そうだすっかり忘れていた。お前よりさらにどうしようもない事をやらかした者が目の前に存在しているのを。

 人間の女に溺れて堕ちる所まで堕ちた名ばかりの至高神がな!」

 レイグリフの語気は荒く、最早当初の怒りの元凶であったエリフォンの事など、全く頭から消えてしまっているようであった。

「お前が後先考えずに行動したおかげで、我々がどれだけ迷惑をこうむったと思っている!?結局私が尻拭いをする事になるんだ……いつもいつも」

「体裁ばかり気にしている初心者だからな!それを棚に上げて兄貴面しないでもらおうか!皿ばかり数えているのは、自分の器がないからであろう?」

「なんだと──!?我が身もまともに守れそうもない引退寸前のロートル魔皇が何を言うか!」

「そのロートル魔皇のおかげで世界を纏め上げてもらっている奴が威張るな!

自己完結型正義漢が!最悪最低だな!エリィの方がはるかにマシだ!」

売り言葉に買い言葉。さながらダムの放水のように、次から次へと相手に対する誹謗中傷が溢れ出してくる。

政治・軍事的な問題から、ちょっとしたクセや服の趣味まで。出るわ出るわの大放出。エリフォンが止めようにも、もはやどうする事も出来ない。下手に横槍を入れれば、自分が殺されそうである。

それでも幸い、二人にはまだ魔力を発動させないだけの理性は辛うじて残っていた。仮にそんな事態までに事が発展すれば、このあたり一帯の地図を新たに作成しなければならなくなるだろう。

これは早々に助けを呼んだ方が良いかもしれない……エリフォンはそろそろとその場を移動し始めた。

「お前のような利己主義者に総帥の位は相応しくない!セイクリッド!」

「馴れ馴れしくその名を呼ぶな!私をその名で呼んでいいのは一人だけだ!」

「ふん。恋は盲目というのは本当だな。世界の均衡よりあの女一人の方が大事か?

 どんな手を使ってお前の心を掴んだのやら。さぞかし楽しませてくれるらしいな。あの女は」

「下卑た台詞を吐くな!汚らわしい!『高潔な法皇』が聞いて呆れる」

「私は何も言っていないぞ?お前があの女と淫靡卑猥な愛情に酔っているとは一言もな!」

「なっ……」

「どうした?図星か?いつまでも恋人気分でいいもんだ。まるでままごとだな!

 理想ばかり夢見てないで、少しは現実を──」

 相手を罵る事に夢中になって、レイグリフの注意力が散漫になったその瞬間。

 鈍い衝撃音とドサリと何かが落下する音──エリフォンは目の前で起こった事態を理解出来なかった。

 レイグリフがさっきまでいた位置から二、三メートル離れた場所に仰向けになって倒れていた。それをダレンフィムが拳を握り締めたまま無言で凝視している。

 数秒の混乱のうち、ようやくエリフォンの思考は現実に追いついた。

 レイグリフがゆっくりと身体を起こす。端正な顔に怒りはなく、ただ、『信じられない』という呆然とした表情をして、自分を殴りつけた相手を見ている。

 数十秒前までの言い争いが嘘の様に静かであった。木の葉のざわめきさえも聞こえない。

「……もういい。たくさんだ。貴様と話す事は何もない」

 打って変わった静かな感情のこもらない声で、ダレンフィムは告げた。

 キレた──エリフォンはダレンフィムのその様子を見て心底戦慄した。息子の〈東宮〉もそのクチだが、こういうタイプはそれでもまだどなっている間はマシなのだ。本当に恐いのは、そういう『熱激ゾーン』とでも言うべき状態を通り越して『冷徹ゾーン』に突入してしまった時である。ようするにもう感情表現が出来ない程、激昂極まった心理状態なのだ。

 押し殺したわけでもない、淡々とした口調と仮面のような無表情の中、ただ碧玉の瞳だけが殺気と言うのも生易しい位の敵意を放っている。

「私もだ──お前には失望したよ」

 レイグリフが投げやりに同意する。そして決定的な一言を放った。

兄弟ごっこもこれまでだな。

 いい加減鬱陶しくなっていたのだ。丁度いい──我は汝との盟約を放棄する」

「いいだろう……レイグリフ

 口を酸欠の金魚のようにパクパクさせているエリフォンを余所に、事務的な口調で二人は言葉を交わした後、不機嫌さそのままに荒々しく音をたてて飾布を翻すと、空間を跳躍してそれぞれの宮へと戻っていった。

 何でもないように取り交わされた二人の会話──だが、それは絶縁宣言に──世界存続の危機に他ならない。

 今や陽気なエリフォンの顔面は蒼白になっていた。幾千もの修羅場を切り抜け、どんな状況でも笑い飛ばせる豪胆な彼にあるまじき動揺ぶりである。

(やばい──本当にヤバイ──どうしよう──どうしよう♪オー♪パキャラマード、パッキャラマード、パオパオパッパッパ〜♪って、駄目じゃん!俺!?

 傍らの木にゴンゴン頭を打ちつけ、そのままフラリとエリフォンは崩れ落ちた。本来精神生命体であるだけあって、先程までの怒涛の展開は相当負荷がかかったようだ。

「落ち着け〜落ち着け〜

 ここは『人』という字を書いてだな〜

 ……あ、これは『入』だァ〜!?

 天上人らしからぬ情けない格好で、エリフォンは精神の均衡を取り戻そうと、必死に左手に『人』字を書き続けた。

 ──そして、数分後──

「とりあえず……火の雨が降らないように、テルテル坊主を吊るさにゃあならんわな」

 先刻のメロメロな様子が嘘のようにキリリとした王者の顔で、エリフォンは出張中の〈東宮〉との連絡回線を開いていた。