──使える人間だと認めつつも、自分は随分前からその男の事が気に食わなかった気がする。

 

 男が自分に対して向ける忠誠心に関しては疑うべくもなかったが、逆にその否の打ち所の無さが、余計に腹立たしく映る事もあった。今回の一件がなくとも、自分と男の関係は、そう遠くない将来、破綻をきたしていただろう。

 

 肥沃なブルターニュ一帯に広大な領地を持ち、そこに建つ城塞は、シャントセからマシュクール、ティフォージュ、プゾージュ、いずれも名門の名に恥じぬ威風堂々としたものばかり。それらを守る軍団は、潤沢な資金によって整えられた精鋭揃いで、身代金を惜しまぬ主に絶対の信頼を寄せて戦う。

 

生まれながらに約束された富、そして栄光。

何もかもが自分とは違った。どれもこれもが恵まれていた。

 

だから。

 

そんな自分から、彼女すら奪いとっていこうとする男を許せなかった。それだけは譲れなかった。故に──

 

『手に入らないのであれば、いっそ誰の手も届かない場所へ彼女を送ってしまいましょう。貴方が味わった失う苦しみを、彼にも思い知らせてやるのです』

 

──耳元で囁く悪魔の言葉に、

 

「コンピエーニュに援軍を送る事は認めぬ。

引き続きブルゴーニュ派とは、話し合いによる交渉を進めよ。これ以上無駄な血を流す必要はない。和平の道こそが、フランス王たる私の意思なのだから」

 

──躊躇う事無く、自分は挙がってきた報告へと指示を下していた。

 

自ら切り捨ててしまえば、楽になれる。 

これ以上、期待を裏切られ続ける痛みに苦しまずに済む。

 

「……そうだ男爵。今の私にはもう、貴様の忠誠も、乙女の奇跡も必要無いのだ」

 

人知れず胸の内で呟くと、遠くナントの地で己の無力に歯噛みしているであろう男の様子を想像して、初めて自分は、勝利というものが齎すえもいわれぬ優越感に、心が満たされていくのを感じたのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

「そうだ、貴様があの娘を汚し……殺したのだ……!」

 

それは予想を超える者からの、途方もない糾弾だった。

確かに自らの進軍が遅れた事により、結果としてジャンヌ救出がより困難になってしまった事について責任を感じないジルでも無かったが、本来、それは決して彼だけが負うものでもない。

国の境を越え、様々な立場の者達によって複雑怪奇に編みこまれた政治的な利害関係と、その上に成り立つ砂上の楼閣がごとき脆く虚ろな当世の事情は、貴族とて宮廷にあっては一介の武人として使われる身に過ぎない彼の手には余るものであった。

 

それでもなお、ジルの罪を問うというならば、それこそ今、彼に断罪の剣を落とさんとしているシャルルもまた等しく裁かれるべき立場にあるのではないのか?

 

「…………畏れながら陛下」

 

数奇な流れを見せる運命の波に翻弄されつつも、表明だけであれ、何とか平静を取り戻してみせたジルの精神的鍛練は、流石と言えたかもしれない。

 

「イングランド軍が実に周到かつ気鋭揃いであったとはいえ、乙女の奪還が叶わなかったのは、無念ながら、この私の不徳がなすところであるのは、明白の事実。

しかしながら、ここにおられる貴方様が、真に我らが頂くシャルル七世陛下であるとおっしゃるならば、どうか臣の問いにも答えて頂きたい。

そこまで乙女の身を案じておられたならば……陛下、何故に乙女が苦戦の折、コンピエーニュから求められたであろう増援をお許しにならなかったのです !?

 

髪の色艶も褪せ、薄汚れた肌に襤褸を纏う、かつての栄光からは見る影もなく窶れた姿でありながらも、主君を問い質すその張りのある声と凛とした立ち居振る舞いは、在りし日の栄光の地位を容易に想起させる事が出来た。

 ただ、そんな見る者によっては感動すら覚えるであろう忠義の礼も、激情にかられる青年の目には、滑稽の余り、より腹立たしさを増長させるものとしか移らなかったようである。

己を約束の地・ランスへと導いた忠臣を、まるで路傍の石でも見るような眼差しで見遣るのみの王に代わり彼の望みに答えたのは、ここまでその存在を顧みられずにいたジルの叔父であった。

 

「陛下は元来、無駄な血が流れる事を好まぬ。

要所であるオルレアンを取り戻し、ランスでの戴冠を果たした以上、これより後は、憎らしい仇敵ではあるが、イングランドとも和解の道を探っていく事を望んでおられた──

 

もっともらしい内容をもっともらしい口調で告げる侍従長の言葉を鵜呑みにする程、ジルの判断力も衰えてはいない。

いらぬ場面で口を挟んでは、真実の行方をくらますのはドゥ・ラ・トレモイユの得意とするところであったから、侍従長がさらに言葉をつごうとする前に、すかさず忠勤の騎士は鋼刃めいた視線を声の主へと飛ばす。

 

「叔父上、私は陛下に問うているのですが」

「……私の言葉は常に陛下の言葉に等しいものだと心得ているがね。男爵よ」

 

前線にあって敵兵を怯えさせる鋭い眼光を向けられて、多少たじろぐ様子を見せたドゥ・ラ・トレモイユだが、こちらも伊達に宮廷を我が物として利権を貪ってきてはいないのだろう。

咳払い一つで場の流れを再び自分に戻すと、視線によって主の意を受け、その舌は言葉をせき止められる以前より勢いを増したようだった。

 

「──否、貴君はもはやレイ男爵でもブリエンヌ伯爵でもない。

王権への反逆、教会への反逆、果ては人としての在り方への反逆と、口にするもおぞましい悪徳を積み重ねた下手人に過ぎない。

我々は貴君にしかるべき罰を与えるだろう」

「ローマ・カトリックは、『元』フランス王国元帥にしてブルターニュ公国陸軍中将たるジル・ド・レイ卿の破門教令を全会一致で決定致しました」

 

 侍従長の語尾を引き継いで、若い神父が宣告する。口にしたそれは、すなわち社会的な死刑宣告に等しかった。

 

「……貴方もこれで、晴れて彼女と同じ異端の身ですよ」

 人の形をした悪魔がうっそりと嗤う。

 さあ、もうこれでお前は私から逃げられないぞ──盤上に大手をかけた者特有の傲慢な自信に溢れた笑みだった。

 

「後はこのまま大人しく宗教裁判の開かれる日を待つ事だな。

それにしても……お前の聡明さに期待して元帥の地位にまで推挙してやったというのに、随分と私を失望させてくれたものだ」

「元より私にとって元帥の地位など興味の無いもの。

貴方はただ自分の思い通りになる駒が──リッシュモン殿に対するあてつけになる存在が欲しかっただけなのでしょう?叔父上」

 

大仰に嘆息をついてみせる侍従長へ、いつしか哀しみに変わって深奥から湧き上がってきた何かに突き動かされるようにジルは斬りつけるような言葉を投げかける。

 

「ぬかせ若造が……!政治の駆け引きも知らぬ者に意見などされたくないわ!!小娘一人の為にあたら兵と金を無駄に捨てたお前などに──」

 

「──言葉通りの『人でなし』の貴様などに善良なキリスト教徒である我々が従う謂れはあるまい?化物よ」

図星をさされて激昂する侍従長を抑え、それまで場の成り行きを見守っていたシャルルが再び口を開いた。

 

「そうやって、さも賢者を気取って乙女に甘言を弄し、誘惑したのだろう──化物」

「陛下……貴方は……」

 牢へ彼が入ってきた時からの違和感。そういえば、シャルルは最初から徹底してジルを臣下としては勿論、人としても見ていなかった──

「シノンに現れた時のジャンヌは真に汚れなき乙女であった……だが、貴様にその純潔を穢されて……魔女として処刑された」

 ──王ははっきりと知っているのだ。自分が人ならざる身で国に仕えていた事実を。

 

「違います……!断じてそんな事は!私も乙女もただフランスと貴方の勝利を願って──」

「貴様の忠義面と綺麗事など今更誰が信じるか。見境の無いケダモノが、今も乙女を処刑台へ送っただけでは飽き足らず、夜毎男を相手に腰を振っているのだろう?汚らわしい……!」

「…………っ」

 

 浴びせかけられた余りの屈辱に、ジルの身が震えた。

シャルルが吐き捨てた言葉の裏には、極彩色の嫌悪と侮蔑が渦巻いている。そして実際、今も隠しがたい行為の残り香に犯されたジルの姿には、彼の糾弾に抗しうるだけの説得力があるはずもなかった。

だが、それもこれも残された家族と仲間、そして他ならぬシャルルの身を守る為だというのに。

それを思えば、あまりにも酷な仕打ちだった。

 

「貴様のような下種など裁判の時間をかけるだけ無駄というものだ。

 何より一時とは言え、元帥位まで得た者が、さらし者になるなど国の恥だ。

 貴様は人知れず、このまま地下深くで朽ち果てるがいい。

 『敬虔なるキリスト教徒にして王国元帥たるジル=ド=レイは、黙って宮廷を去った』『オルレアンに救出に赴いた貴族などどこにもいない』──

 私はそうある事を望む」

 

「……陛下……」

 

 畳み掛けられる審判に、言葉も出ない。

 端から慈悲を請う事は期待していなかった。ただ、王として国を正しく、より良く導いてくれさえすれば良かった。

だが……だが……これでは……

 

「……まあ、それが一番落ち着くところとしては無難なところでしょうねぇ。

 教会は陛下のご意向に従いますよ。

 こちらとしては世に仇なす魔物を〈処分〉出来さえすればいいのですから」

 

 場違いなほど朗らかな声でプレラーティが王に追従する。

 心底、愉快でたまらないのだろう。妖しい光を宿した瞳は濡れ輝き、口元があの亀裂のような笑みを浮かべている。

 

「それでは、その不愉快な〈モノ〉を、一刻も早くこのフランスから消してくれ」

「御意のままに」

 

 そして。

 臣下の心胆を解する事も無く、ただただ虜の騎士へ絶望のみを残し、王は牢獄を後にしたのだった。