──例えこの身が炎の中へと滅しても、貴方を想う心は共に在り続けましょう。
いつか永劫の輪に捕われた貴方に真の安息が訪れるその日まで。

 

Raison d'etre

 

暗く暗く蟠った悪意に、あらゆるものが冒された城壁の中、未だ白い輝きを失わずにいる意識が一つ。
この世の穢れというものをおよそ知らない魂が放つのは、まるで夜道を彷徨う子供に一条の希望を与える綺羅星のような優しい光──実際、かつての自分は何度その手に、その言葉に、その眼差しに救われてきただろう。
しかし、今はもう、あの戦場にあって頼もしく力強かった光も、さながら風前の灯がごとく儚げな瞬きを繰り返すばかり。神の摂理を超えた不条理を前に、不死身であるはずの命は静かに燃え尽きようとしている──

──全て私のせいだ。

あの時、無理な進軍をしなければ。忠告を聞いていれば。
もう一度、彼に会いたいと願わなければ。

募る悔恨で折れそうになる心を、足を、なんとか叱咤して囚われの騎士の下へと彼女は歩を進める。己の罪と向き合う為に。
いくら打ちのめしてもまったく醜態を曝さない相手に疲れきったのか、正体を失って眠りこけている番兵達の脇を何事もなくすり抜け、愛しい人の傍らに立つ。

──やっとまた会えた。

だが、再会の喜びよりも先に押し寄せてくる哀しみに胸を詰まらせ、彼女はとうとうその場に崩れ落ちた。天の祝福をそのままに映しこむ、蒼く澄んだ瞳からは次から次へと涙が吹き零れてくる。

ほんの数日の間に、彼の姿は最後に分かれた時とは別人のように変わり果てていた。宮廷に集う貴婦人方を虜にし、前線に立つ兵士達の尊敬を一身に集めていた美貌こそ損なわれていなかったが、飽くなき拷問に憔悴しきった横顔の目元には隈が落ち、頬骨がうっすらと浮き始めている。そのやつれた額にかかる髪はどうした事だろう。夜天の煌きも濡れ羽の艶も失せ、涸れ切った白い地色を曝していた。俊敏で快活だった若者が、急に病に伏した老人に変じてしまったような様相。
そして、真に彼は今、死の床にある。

──ごめんなさい。

ここにきて何も出来ない、ただ詫びるしかない己の無力を彼女は呪った。

 

──ごめんなさい。ごめんなさい。
私さえ間違わなければ──貴方に心を寄せたりしなければ。
貴方がそれに答えてくれる事を期待しなければ──

彼はこのまま王国屈指の大貴族として、また主君を玉座に導き故国を侵略から救った英雄として、真に偉大な騎士と生涯人々に慕われ、歴史にその名を残す事が出来たのだ。

しかし、自分が彼に道を踏み誤らせてしまったばかりに、全ては取り返しのつかない事になってしまった。

彼女の処刑は国家の意思。王が望んだ事。それに反して独自に救出の軍を差し向けた事は、すなわち、主君への反逆、数多の民への裏切りに他ならない。
更に悪い事に、この件には王権すら凌ぐ絶対的支配者である教会が関わっていた。王を蔑ろにしただけでなく、神の教えに背いた罪までも彼には課される事となる。
──教会と対立するという事。それはこの時代において身の破滅以外の何ものでもない。

騎士としての名誉も、人として最低限の尊厳すら奪われて抹殺される──これが誰よりも高潔な生き様を貫いた若者に残された末路だった。

──ああ、神よ。何故、これほど貴方の御心と共にあらんとした人が、貶められ、蔑まれて、人としての生を絶たれようとしなければいけないのですか?
祈れども、彼女の願いは天に届かない。何故なら彼女もまた、天への階段から墜ちてしまった存在だったから。

「……どうして泣いているのです?」

夜明けを待つ静寂の中、余りの絶望に声も出ない少女の嘆きが時に流れ行くだけと思われた場に、別の意思が紛れ込む。
まさかと思ったが……気が付くと目覚めていた青年は、ごく自然な調子で、少女に語りかけていた。

 

「乱暴をされた傷が痛むのですか?それともお慕いもうした陛下が下されたご決断に心乱されておられるのですか?
それとも──」

血が滲んだ唇に自嘲の笑みをのせると、場違いなほど穏やかな眼差しを彼女の騎士は向けてきた。

「私がこのような無様な姿で生き永らえている事が、見るに耐えませんか?」

──そんな──そんな事はありません!

力いっぱい心で叫び否定する彼女の様子に、青年は目を細め嬉しそうに言う。

「ありがとう──貴方は本当にお優しいのですね」

 

力が萎えた腕をゆっくりと伸ばし、青年はいつかのように彼女を宥めようと色素の薄い髪に触れようとしたが、全ての爪を引き剥がされ、血に汚れた自らの指先に気が付くと、苦笑し、そのまま名残惜しそうに手を戻した。

「本当は捕縛されてからすぐにでも胸を突いてしまえば良かったのですが……貴方の事が心残りで……せめて消息がしれるまでと……ぐずぐずしている間にこんな様になってしまいました。
食は断っているので、おかげで傷も回復しませんが……なかなかどうして、人の身を捨ててしまうと、望んでも簡単には死ねないものですね」

寂しそうに零した後、やつれた顔に浮かんだのは心からの笑顔だった。

「でも……良かった。御身はご無事なのですね。
流石は誉れ高き『憤怒』のエチエンヌ殿。この先私が戻らずとも、あの御仁さえいらっしゃれば、我らがフランス軍は安泰でしょう」

この言葉に。
彼女は何も返す事が出来なかった。事態の残酷さに魂まで引き裂かれそうだった。
彼は知らない。まだ何も知らされていないのだ。
彼が捕らえられ、彼女と引き離されてからの数日間に起こった出来事を。
言葉が見つからない。どう伝えればいいかわからない。

だってこの真実はつまり──彼の生涯をかけた戦いが全て徒労に過ぎなかったという事を突きつけ、あらゆる希望を打ち砕く結果しかもたらさないのだから。

これから孤独にひっそりと息を引き取ろうと覚悟している者に、そんな仕打ちが出来ようか。

だから彼女は──

──ええ、そうですね。だから安心して下さい。私は今、とても幸せなのです。

真実は胸に秘めたまま、自分のありのままの気持ちだけ伝える事にした。
しかし、もし彼自身が望まずとも、死神に見放されたまま尚も生き続ける事になれば、いずれ彼女の身に起こった事を知るに至るだろう。その時彼が自らを傷つけないように、細心の注意を払いつつ。

──そう、私は本当に幸せでした。この人がただ生きるだけでも苦難を強いられる荒れ果てた世界で、まだ貴方のような心から国を憂い、民を思う真の騎士に出会えた事を。そして一緒に戦えた事を誇りに思います。そして──

少しはにかみながら、今どうしても伝えなければいけない一言を口にする。

──一人の人間として、貴方に愛された事を、貴方を愛した事を誇りに思います。
私はもう貴方と共に戦う事は出来ぬ身ですが、いつもこの心はお側に控え、その身の無事をお祈りしております。
ですからどうか──私の騎士よ。貴方は貴方のままでいて下さい。貴方が懐く誇り高い理想は、何時の時代でも人々の救いとなるものです。
貴方は故国を救う英雄となった。
その力はいずれ、もっと多くの人々を救える力になるでしょう。

彼女の必死の懇願を知ってか知らずか……騎士たる青年はやや呆けたような表情で彼女の様子を見守っていたが、やがて合点がいったように、力強く微笑み、頷いた。

「承知致しました。我が命がこの世にあり続ける事を許されたならば、誓って貴方の信頼に恥じぬ生き方を致しましょう」

──約束、ですよ?

ああ、もう時間が無い。まだ伝えたい事は沢山あるのに。
全ての感覚が遮られているような地下牢にも、うっすらと光が指し始め、新しい一日の訪れを住人に告げていた。夢の時間は終わり、朝がやってくる。

ええ必ず。

急速に薄れゆく彼女の気配に、一抹の寂しさを感じつつも、囚われの騎士は去り行く来訪者を安堵の表情で見送った。

例え幻でも会えて良かった……これで私は報われる……

気が緩んだからか、今更ながら眠気が総身を包み込む。また砦全体が目を覚ませば、苛烈な拷問が待っている。それまでの僅かな時間だけでも、彼は心地良い達成感に身を委ね、静かに目蓋を閉じた。

その穏やかな寝顔を視界が閉ざされる瞬間まで、彼女は目に焼き付けていた。

 

◆◆◆

 

そして時は流れ。
彼は再び騎士として戦場に立っている。

それもただの騎士ではない。神の威を借りてその敵を討つ教会の騎士──聖騎士と呼ばれるまでになった。
粉々に折り砕かれ、二度と剣を握る事は適わぬと思っていた指に今しっかりと感じる重みは、伝説にその名を残す、名剣のそれだ。

一度は異端とされた身が、教会の希望を一身に背負う事になろうとは。なんたる皮肉。なんたる矛盾。

苦笑が思わず漏れるが、今は己とかつての敵を嘲笑っている時ではない。

指揮を一任された新たな戦場は──常に世界の理が崩壊する瀬戸際にあった。そして今も目の前に押し寄せる魔性の業火は、人々の最後の砦たる教皇庁をも包み込もうとしている。
教会の教えと権威など、自分にとってなんの興味も沸かない事であるが……彼らが滅びる事で生じる世の混乱は、何としてでも避けなければならない。

──貴方は貴方のままでいて下さい。

ええ。ジャンヌ。だからこそ、私は今もここに立っている。

放つものの怒りをそのまま体現したような膨大な熱量が騎士に殺到する。それを彼は抜き放った一閃の剣風のみで吹き散らした。

「──いくぞ我が剣よ。今宵は汝の力を存分に借りる事が出来そうだ」

永い夜の予感を感じつつ、彼は煉獄へと身を躍らせた。

 

◆◆◆

 

あとがき。(というか、なかがき)
『好きなカップリング』のアンケートでジル×ジャンヌに票が入っていた事にちょっと感激したので、今の元帥を支える彼女との〈誓約〉の巻をさらっと書いてみました。
調べてみるまで知らなかったのですが、〈レゾンデートル〉って語源は英語でなくフランス語だったんですね……きゃー!ますますぴったり!……というわけで、タイトルは〈存在意義〉そのまんまになりました(安直)。
ラストは今後控えているVSルカさんな〈ローマ・サンピエトロ攻防戦〉の冒頭です。で、元帥の持っているのが某『堕ちた聖剣』だったり。
威力については片鱗に過ぎませんがご覧の通り。フルパワー状態なら多分殿下の〈極王の牙〉とも打ち合えますね……コレ(えええッ!どんだけ)。
早く書きたい妖怪大戦争。でもそれは当分先の話。