「……おやおや、感激のあまり声も上げられないのかと思ったら……残念ながら手遅れだったようです」
おどけて肩を竦める神父の傍らで、命という高い対価によって初めて戒めから解放された牢番の遺体が、ずるずると音を立てながら壁伝いに崩れ落ちていく。

──この世の理を超えた魔術師には、この世の法すら及ばぬのか。

 こちらからは窺い知る事の出来ぬそれの顔面が、肉親ですら目を背けずにはいられぬ様相であるのは、戦場での経験から想像に難くない。
 訪れから一刻も経たずして、造作もなく二人の命を奪って棄てた男に、いよいよ正義感からなる純粋な怒りを燃やさずにはいられない騎士であったが、そんな彼の胸の内を知ってか知らずか、あまつさえ、プレラーティはこんな提案を言ってのけた。

「このまま朽ち果てさせるのも何ですし……せっかくですから、新鮮なうちに彼等の血肉を頂いたらどうですか?」

──瞬間、聞き手の激情は沸点を越えていた。

「ふざけるな……!」
 一体あの弱り切った身体のどこにこれほどの覇気が残っていたのか。騎士にして貴族たる青年の大喝が牢内に響き渡る。

 が、しかし。かつての戦場でならば兵共も畏縮しきったであろう一声も、今となっては、つかの間の戯れを楽しむ神父にとって、何の痛痒も呼び起こさぬ掛け合いの一環に過ぎないようだった。

「別にふざけてなどいませんよ。私はあくまでもこの場にあってしごく合理的な提案をしただけです。
 ああ、それとも二人では足りないというご相談でしたら、そこのでくの棒も私が代わって捌いてさしあげますが?」
「ひっ……」
プレラーティが思わせぶりな視線を投げかけた途端、恐怖に戦きつつも、立ちすくんだまま逃げる事すら適わなかった残り一人の牢番が、言葉にならぬ悲鳴を上げ、弾かれたように出口に向かって駆け出した。

「よせっ……!」

 地を這う青年がかすれ声で制止しようしたのは、果たしてどちらであったか。
 しかし結果として、いずれも者も彼の言葉に耳を傾けず、その目の前で必然的に悲劇はまた繰り返される。

「あ」

 呼吸するような自然さで紡がれる異質の法則。
 我が身に何が起こったのか理解する前に、身体の中央にぽっかりと穴を空けた男は、出口まであと一歩のところで救いを求めるように震える腕で宙をかいた後、虚しく力尽きた。

 

「……あーあ、まったく……一度ならず、二度も私の『力』を見たというのに、無防備に背中を曝すとは……本当に愚鈍というか、平和な方たちですねぇ。
 そんな人間を魔術師が──ましてやこの私が黙って帰すはずがないでしょう?」

 とうとう傷ついた虜囚の貴人のみを残すだけとなった殺戮の場に、およそ屈託というものが無いプレラーティの軽やかな笑い声が不釣合いに木霊する。

「……この……」
「……はい?」

 芝居がかった優雅なターンで、くるりと振り返った神父に浴びせられたのは、当然賞賛であるはずもなく、憤怒に柳眉を逆立てた騎士の血を吐くような叱責だった。

「……この……外道がっ!
 貴様は……貴様は人の命を何だと思っている……!」

「外道とはまた心外な……貴方がそれを言いますか?閣下」
 予想して然りの展開とは言え、どこまでも自身のそれとはかみ合わぬ『正義』を貫き通そうとする騎士に、プレラーティは辟易とした表情で告げた。

「私は教皇庁の秘儀を預かり行使するものとして、全てを隠密に計らわねばならぬ立場にあります。そのためにはやむを得ず、こうして最低限の『人払い』を迫られる場面も多々あるのです。
 戦場を行く貴方ならば理解して下さるかと思っていたのに……酷いですね」
「ほざけ!貴様と私は違う!」

「違う……?何が違うというのです?」
 うっそりとした微笑みに底知れぬ悪意をのせて、プレラーティは囁いた。

「貴方自身はどう思っているか知りませんけれど……傍から見れば、貴方も私も同じ立派な〈化物〉なんですよ。ジル=ド=レイ元帥」

 

亀裂のような笑みを深くしながら、神父は騎士に呪いの言葉を言祝ぐ。

「きっかけは何にしろ、貴方が人の道を棄てた事に変わりは無い。
 貴方には最早、人と同じ時間は流れない。人と同じ糧を得る事は出来ない。
 そんな貴方を他の人間はどう見るでしょうね?
 若く美しい姿のまま歳をとらず、聖体であるパンやワインも拒む身体を抱えて、この先どうやってその本性を誤魔化していくおつもりですか?
 もう、無理なんですよ。
 貴方が人として、人と共に生きる事は。
 だから……」
 
 神父の瞳が愉悦に輝き、殊更楽しそうに語尾が弾む。

「……ねえ?〈化物〉は〈化物〉らしく、一緒に面白おかしく生きようではありませんか。
 ええ、私達は人の道を外れた存在であって、多くの人間にとって忌まわしく、呪わしいものとして映るかもしれません。
 ですが、同時に彼らの敷いた法則に縛られる事がない、超越した存在でもあるのです。
 私達には力がある。それが人間に対して絶対である限り、私達は彼らにとって神にも近しい優位を誇る事が出来る。
 自分より劣る生き物に、いちいち憐憫の情を懐く必要はありません。
 実際、人間とて己の家畜を屠る時、涙を流したりはしないでしょう?そういう事です」
「……つまり、仲間になれと?そう貴様は言いたいのか」
「んー、仲間というのは、少しばかりニュアンスが違うんですけど……そうとって下さっても構いませんよ。少しずつ手順を踏んでいくのも悪くはありませんから」
「だったら断る」
 
 片方だけの瞳に強い意志を光らせて、全てを奪われた青年が最後の誇りを胸に、迷い無く断言する。

「今更人として生きることなど……望んではいない」
 全身から鋭い闘気を発しつつ、残る力で何とか上体を引き起こした騎士は、強烈な拒絶の一言を神父に放った。

「異端の洗礼を受けた時、既に我が人生は対価として捧げたも同然。
 もはや思い残す事など何も無い。
 さあ、殺せ。貴様なら容易に出来るはずだろう。
 でなければ……私が今、この場で貴様を殺す」
 
 それは最後通牒と言っていい内容だった。騎士の目は本気で、だからこそプレラーティは……心底愉快でたまらなかった。

「……何が可笑しい」
 腹を抱え、涙すら流して笑い転げる若い神父に、得体の知れない戦慄を覚えつつ、だがそれは決して表情には出さぬまま騎士が問う。

「だって……はは、貴方があまりにも可愛らしい事をおっしゃるからですよ、閣下。
 私を殺す?貴方が?その身体で?
 無理ですよ。そんなの」
 哀れむような目つきでこちらを見やる神父に、
「やってみなければ……わからないだろうッ!」

 騎士の瞳が朱に染まる。
 
 ──どんな魔術師であれ、魔術の発動には呪文詠唱が伴う。
 自他共に認める天才的な魔術師であるプレラーティのそれは驚嘆すべき速さを誇るが、どんなに短縮されていようと、実際の攻撃力の解放までの時間差は存在する。
 たとえ人の身では適わぬ数瞬の見極めでも、闇の獣と化した己の五体と感覚ならば──ましてやこの距離ならば、明らかに魔術がこの身を削ぐより早く、相手の懐に飛び込み、息の根を止める事が出来るはず。
 
 一撃で仕留める──
 
 怒りのままに全神経を励起させ、伏せっていた床を蹴った。
 相手は目と鼻の先。外す事など考えられない距離。
 神父の唇がおもむろに動く。
 だが遅い──!

 ──獲った。
 
 傷を無視して身体に負荷をかけた。この後、反動で自分はもうまともに動けまい。だが別に構わない。奴を──奴を道ずれに出来るならば……!
 
 骨と骨がぶつかり合い、軋む鈍い音と衝撃が拳に走った。

「な……」
「残念ですね。閣下。
 並みの魔術師だったら、今の一撃で命を落としていた事でしょう。
 ですが、私は並みの魔術師ではないのです」
  
 プレラーティは涼やかな表情でその掌中に収めた騎士の拳を見やると、

「貴方は『人間の騎士』としては一角の人物かもしれません。しかしながら、私から言わせれば、吸血鬼としての能力は、むしろ下から数えた方が早いくらいなのですよ。
 これでも私は、今まで他の退魔師が手に負えないような化物共をうんざりするほど相手にしてきたのです。
 それとくらべたら……万全の状態の貴方でさえ、脅威には感じない」
 言って握ったままの拳に軽く力を込めると、そこを支点として、あっさりと騎士の身体が宙を舞った。

「うっ……」
 
 受身も取れず背中から石畳の上に叩きつけられ、騎士が一瞬息を詰まらせる。
 相手が事態に対処出来ぬ間に、神父はどっかりとその上に腰を下ろすと、改めて不届き者の手を取った。

「綺麗な手ですね。剣を取るよりも、絵筆や楽器を持つ方がよくお似合いだ」
「………………ッ!」
 
 ぱきり、と。
 何気ない仕種で、中指が折られた。瞬間、延髄を走る痛みに、騎士の全身が痙攣し、力を失った碧い瞳が見開かれる。

「ふうん……これでも悲鳴は上げませんか。育ちが良いのに大したものです。
 さぞかし牢番共も甚振り甲斐がなかったでしょうね」
 
 そしてまた、ぽきりと。
 造作もなく薬指が同じ要領で動かなくなった。

「っぐ…………!」
「参りましたね……正直、ここまで強情だとは思いませんでした。
 では、これで如何です?」
 
 ぶらぶらと、折れて腫れ上がった指を弄んでいたプレラーティの目が妖しい光を帯びた次の瞬間。

「……ッ!ああああああああああッ!」
 
 固く結ばれていた騎士の唇から、とうとうのどが破れそうな悲鳴が上がった。

「そうそう。その声が聞きたかったんですよ。流石に痛かったですか?」
 のしかかる相手に対し、嬉しそうに話しかけるプレラーティの手に握られていたはずの騎士の手は──もはや原型を留めておらず、そう大きくはない掌の中で、赤黒い肉塊と化していた。
「お可哀想に……これでもう、剣も槍も握れませんね」
 呟き、流れ出た鮮血をうっとりと見つめた後、長い舌で味わうようにぞわりと舐め上げ、神父は恍惚とした表情を浮かべた。