悲しみと死とが宿るその眼には、 混濁した真っ赤な光が燃え上がる。 歪んだすが眼とよじれた瞳は、 禍が星か雷光か。 鼻孔と青ざめた口から、 陰霧と悪臭を噴出している。 怒り狂い、狂猛な、絶望した 彼のうめき声は雷鳴。吐息は稲妻。
タッソー「エルサレム解放」
その日その時のルカシュの機嫌は最悪であった。 彼が身を置いているのは、さるテレビ局の看板番組の一つである、ディスカッションを主体としたバラエティ番組の収録スタジオ。毎回決まったテーマについて、タレントやその道の専門家を招き、トークを繰り広げるというこの番組に、彼は特別ゲストとして招かれていた。ちなみに扱われたテーマが、〈霊能者と超常現象〉であった事は言うまでもない。 今回のテレビ出演依頼を、彼は興味本位のごく軽い気持ちで引き受けたのだが、スタジオに入ってからというもの、己の判断を猛烈に後悔し続けていた。 (コメント云々というより、番組に華を添えるためのアイドル代わりに呼ばれたわけか……冗談じゃない。俺はそんなに安くないぞ) 確かに彼は、豪語に足りて余りある容姿の持ち主であった。 常に濡れているかのように艶やかな黒髪は、雪花石膏の肌と好対照で、それぞれの持つ美しさをよりいっそう惹きたてていた。流れるような柳眉に、闇夜に浮かぶ月のような銀灰色の切れ長の瞳。すっと通った高い鼻梁に、形のよい朱唇───まだ少年の面影を残す顔は、見る者に感嘆のため息をつかせずにはいられない。 まさしく、絵に描いたような美男子である。 日本人男性の平均身長を遥かに上回る凄艶な長身痩躯は、ごく一般的な黒の司祭服に包まれている。しかし、その上に纏っている銀糸で刺繍が施された濃紺のケープは、おそらく、今日ここにやって来ている者達のほとんどが、初めて見るものであろう。 ローマ=カトリック教会の総本山であるヴァティカンが認定した退魔士の数は、決して多くはない。さらに、その中でも最優秀とされる者にしか与えられない名誉の証を持つ神父は、世界でたった一二人しかいないからだ──〈主の御剣〉。彼らは在野の退魔士達の間でこう呼ばれている。 ヨーロッパでは知る人ぞ知る英雄の彼であったが、本国より遠く離れた東端の島国である日本においては、いかにも胡散臭い民間霊能者達との差異は、無いに等しかった。 朝早くから控え室で長々と待たせられたあげく、スタジオに入ってからは、スペシャリストである彼にとっては滑稽も甚だしい資料・検証のVTRや、議論というにはあまりにも無秩序な口ゲンカの応酬に付き合わされて、ルカシュはすっかり辟易していた。 今もまだ、一枚の心霊写真と呼ばれるものをめぐって、「ここに写っているのは女性の霊だ」「いや男性だ」と、霊能者同士が互いを激しく罵り合っている。それに対してさらにレギュラー出演者達が、次々と間髪入れず意見するのだから、この場はまるでただ今台風通過中といったような荒れ様だった。 「さて、イタリアで名高きエクソシストである神父は、この写真についてどういった意見をお持ちなんでしょうか?」 スタジオに入ってから一言も発言せず、腕組みしたまま事の成り行きを傍観している若い神父に堪り兼ねてか、司会者の女性アナが話を振ってきた。 その一声で、スタジオ内の視線がルカシュの元へ集中する。 ルカシュはため息一つついた後、固く結ばれていた唇を動かした。 「黙れ素人共」 よく通るバリトンの美声が、辛辣な台詞を出演者達の耳に叩きつけた。騒がしかったその場が水を打ったようにしんとなる。 ルカシュは席から立ち上がり、言い争っていた霊能者達に向き直ると、たまりにたまったものを一気にぶちまけた。 「貴方達がどうしても私からの意見が聞きたいというのなら言って差し上げましょう…… いいか素人!その写真に写っているのはただの光学的な幻像だ!男も女も関係ない!それ以前の問題だ!神のお告げか悪魔のささやきか、何を聞いたのかしらないがそれも幻聴だ!病院行け病院へ! そこの坊主!私が言うのもなんだが、信徒を導く者として恥ずかしくないのか?お前のところの開祖はあの世で泣いてるぞ!そもそも霊能力が無いのなら、最初からこんなところに来るな!自分から素人宣言してどうするんだ! わかったか素人!知ったような口で業界事情を語るな素人!こんなペテンに踊らされているのがいい証拠だ素人!お前達のような存在が日本を内部から腐らせているんだ!……嘆かわしい」 来日からまだ半年とは思えない流暢な日本語で、神父は機関銃のごとくまくし立てると、霊能者達の方へつかつかと歩み寄って行き、 「……以上だ」 問題になっていた心霊写真を彼らの手から取り上げ、一瞥すると、たちまちそれは蒼白く燃え上がり、灰燼と化した。 彼にとっては何の雑作もない事であったが、その現象は出演者達を驚愕させた。 あっけにとられている彼らを尻目に、ルカシュはまるで何事もなかったかのように悠然と、そのまま席へ戻る事なくスタジオを後にした。 ルカシュが発言している間、その迫力の前にひたすら圧倒されていた観衆であったが、彼が会場から姿を消したのを合図に、ほどなくスタジオは収拾のつかない大混乱に陥ったのであった……
「まったく、貴重な時間を無駄にしたな……こんなことなら出演料をもっと高くしておけばよかった……」 会場の混乱などおかまいなしで、ルカシュはテレビ局の廊下を駐車場出口に向かって進みながら一人ごちた。 「顔が売れるといっても、色物として売れたところで何のメリットもない……どころかデメリットばかりだ」 それにしても眠い。よくスタジオで爆睡しなかったものだ。やはり昼間はしっかり寝ておかないと、夜の活動にも支障が出る。 ……今日はこの後何もせず、たっぷり睡眠をとる事にしよう。そうルカシュは決め込んだ。 こんな事を考えながら、いつもに増してとろんとした目でルカシュは歩いていた。おのずと注意力も散漫になる。 そこへ反対側から女性が駆けて来て、彼とすれ違いさま衝突した。 女性……といってもまだ若い。少女で充分通る容姿だ。もっとも東洋系の人間は──知り合いの女性警部補がいい例だが──年齢より幼く見えがちなので、実年齢は定かではない。線が細く、なかなか可愛らしい顔立ちをしている。これは標準以上といっていいだろう。 思わずしげしげと見つめてしまったが、相手もまた、ぶつかったのが見慣れぬ異国人の美形ということで驚いている様子である。 ルカシュを見上げるその顔が、みるみる紅潮していく。 「え…と…アイ…アイムソーリー」 「いえ、こちらこそ失敬。お嬢さん」 たどたどしい英語の謝罪に、ルカシュは滑らかな日本語でさらりと応じた。 彼女はバツが悪そうに赤い顔をさらに赤くすると、 「す、すいません!急いでいたんで……ごめんなさいっ!」 彼に向かって一礼すると、逃げるように走り去っていった。 「……あの調子じゃあ、また誰かにぶつかるんじゃないか?」 遠ざかる小さな背中を、目をこすりつつ見送ったルカシュは、何気なく視線を足元に落とした。 「ん?これは……あの娘が落としていったのか」 バラをモチーフにした、片方だけのスプリング式イヤリングを拾い上げ、ルカシュはどうしたものかと悩んだ。 一刻も早く帰って寝たいのは山々だが、落とし主がはっきりしている以上、このままにしておくのも後味が悪い。 それにいくら走って行ったとはいえ、まだそう遠くには行っていないはずだ。彼の足なら十二分に追いつける。 「やれやれ……今日は面倒な事ばかりだ」 ルカシュは踵を返すと、女性を追って駆け出した。
忘れ物を取りに、慌てて楽屋へ戻った鳳条なつきは、無事目的を果たすと、部屋へ飛び込んで来た時の勢いもそのまま、マネージャーの待つエントランスホールへと向かっていた。 その途中男性にぶつかってしまったが、謝罪もそこそこに走り出し、息を切らしながらようやくホールへたどり着いた。 一年前に新装されたこの局の正面玄関は、まるで一流ホテルのそれのように洒落た様相を呈している。 なつきはひとまずその場に立ち止まって周囲を見回すと、フロアの片隅にたたずむ男性マネージャーの姿を発見した。 相手もこちらに気がつき、二人の視線があった次の瞬間、突如彼の顔が強張った。 「永蔵さん、どうし……」 彼女が皆を言う前に、答えは頭上から降ってきた。 ガシャアアアアンッ! 天井を飾っていた豪奢なシャンデリアが落下し床に叩きつけられた甲高い音が、ホール中に響き渡った。
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