ルカシュが突き当たりの角を曲がった時には一足遅く、ちょうど彼女を乗せたエレベーターが、扉を閉じたところであった。表示を確認すると、下へ下へと下りていく。

「エントランスのある一階か」

 次のエレベーターがやって来る時間を惜しんで、ルカシュは階段へと走った。

駆け下りるというより、滑り下りているかのような速度で、彼は階下を目指す。

 そしてルカシュは、エレベーターとほぼ同時に一階へ到着した。

「さて、どこだ……?」

 息も切らさず、続けて彼は周囲に隈なく視線を送った。

 いた。彼女だ。

 やはり誰かを捜しているのか、エントランスのほぼ中央で立ち止まり、左右を見回している。

 と、その時。ルカシュの鋭い聴覚が妙な音を捉えた、次の瞬間。

「………!」 

声を上げる前に、ルカシュは猛然と──本気で駆け出していた。

 無防備な彼女に向かって、天井のシャンデリアが落ちてくる。

 その場を動けないでいる小さな身体を抱き寄せて、ルカシュは床を蹴ると、安全圏まで離脱した。

 直後、衝撃音が耳を刺す。ルカシュは安堵のため息をもらした。

「……間一髪だったな」

 耳元で囁かれる物憂げな声に、なつきは目を開いた。

そこには、いつの間に現れたのであろう、先程廊下で出会ったあの男性が、自分を抱きかかえ床に膝をついていた。

「イヤリングを落としたのは幸運だった。でなければ今頃君は、私ではなく、死神の(かいな)に抱かれていただろう」 

彼の言葉に、彼女は傍らへと目を走らせる。

自分が数秒前まで立っていた場所には、多くのガラスや金属片が散乱し、その衝撃がいかほどであったかを物語っていた。

もし、彼が駆けつけてくれなかったら……そう思うと悪寒が襲ってきた。

「なつき君!大丈夫か!」

そこへ真っ青な顔で永蔵が走って来る。

野次馬も徐々に集まりつつあった。

「永蔵さん!また(・・)だわ……もう偶然とは思えない……わたし……わたし……」

「落ち着いて。気をしっかり持つんだ。

 ……どうもありがとうございます。何とお礼を申し上げたらよいか……」

 深々と頭を下げてくる男性に、ルカシュは何とかあくびをかみ殺して言った。

「いや、そんなことより私は……」

「ああ、謝礼に関しては、後日きっちりさせて頂きますので、お手数ですがこちらの方へご連絡下さい。

それでは、私たちはこれで」

 男性は一方的に話を進め、懐中から取り出した名刺をルカシュに渡すと、女性と一緒にいそいそと、玄関先に横付けされた車に乗り込み、建物を後にした。

名刺とイヤリングを持て余し、ルカシュは一人その場に取り残された。

「結局渡せずじまいか……しかし」

 シャンデリアの残骸に目を向けて、神父は呟いた。

「ここまで来たのは、そう無駄でもなかったようだな」

 彼の唇が一瞬、妖しく弧を描いたのを、その時誰も気がつかなかった。

 

 

「ウィナーズレコード……今日本のヒットチャートを支配している最大手レーベルよ。その社員と一緒だったという事は、貴方が助けた女の子は歌手だったのかしら?」

上品な調度品に飾られた部屋でゆったりと午後の紅茶を楽しみながら、私服姿のシスター・レジーナは、いつになく忙しそうな黒髪の神父に目を向けた。

「……ええ……今回の件に関しては……はい、わかっております。重ね重ね申し上げますが、私は真実を述べただけであって……はあ、そうですね……以後気をつけますので……それでは失礼致します」

 ルカシュは静かに受話器を置いた後、電話での応対を行っている間苦労して抑え込んでいた怒りを爆発させた。

「まったくそろって同じ事をくどくどくどくど……ああ、うっとおしい!俺の睡眠時間を返せ!」

 彼の八つ当たりを受けて、優美な猫足のテーブルが真っ二つに叩き割られた。 

これで少なくとも数十万円がパアになったのは確実である。

「あらあら勿体無いこと……」

 しかしレジーナはといえば実に落ち着いたもの。苦笑してはまたカップに口をつける。

 来日以前からルカシュのパートナーを務めるこの尼僧は、どことなく魔性を感じさせる神父の美貌とは対照的に、その職にふさわしい清雅な雰囲気の持ち主であった。

 長い栗色の髪に澄んだ碧眼。繊細な造形の容顔は、常に慈愛に満ちた微笑みをたたえている。

しかしルカシュは、彼女が外見そのままのか弱い女性ではない事を、重々承知していた。

「まったく……いいご身分だな、レジーナ」

 恨めしげな視線を送ってくる神父に、彼女は涼しい声で言った。

「自分の立場もわきまえずに、マスコミの取材なんて引き受けた貴方が悪いのよ。自業自得。たまには事後処理で東奔西走する、私の苦労も味わいなさい」

「……………」

 そう言われてしまっては、ルカシュに反論する術はなかった。

 悪魔祓いというのは、基本的に非公開の秘蹟である。加えて、教会の近代化を推し進めている多くの聖職者達は悪魔祓いに懐疑的であり、それを執り行う悪魔祓い師──エクソシストもまた、あまり好意的な目で見られてはいないのが現状である。彼らは時代錯誤な存在を公には認めたくないのだ。

 そこへ何をとち狂ったのか、どこかの馬鹿エクソシストが日本のテレビ局から出演依頼を受け、スタジオで大暴れしたなどという知らせが飛び込んできた。

敬虔な聖職者の皆様が、この凶報にどのような反応をしめしたか。

 その答えがこれである。

 収録の翌日から、現在出向している教区の責任者である首都大司教を皮切りとした説教の集中砲火を、ルカシュは浴び続ける事となった。

 大司教達の言うことは腹立たしいが、無下な返事をするわけにもいかず、ルカシュは久々の休暇を、ずっと電話の前で過ごさなければならなかった。

 もちろん番組の放映は差し止め。依頼料もパア……どころか、違約金まで払わされた。踏んだり蹴ったりである。

「ほら、お呼びよ」

いい加減うんざりしてきたところに、また着信音が鳴った。

「そんなに煩わしいなら回線を切ってしまえばいいのに……おかしな人」

レジーナの言い分はもっともであった。そもそも彼の性格からして、すでに無視を決め込んでいても何ら不思議ではない。むしろ、甘んじて説教を受けているのが大いに不自然である。

(……何かを待っているのかしら?)

ルカシュは彼女の言葉を聞き流すと無言のまま電話に近づき、受話器を掴んで開口一番、

「今回の件に関しては重々反省しておりますので!それでは失礼」

 早々に電話を切ろうとした。しかし、

「……待って!どうか話を聞いて下さい!」

返ってきたその声は、今まで彼が嫌というほど聞いてきた壮年の男性のものではなかった。

 ルカシュの瞳に不敵な光が灯る──ついに彼はカードを引き当てた。

「いかがされました?」

 切羽詰まった女性の声に、ルカシュは受話器を持つ手を引き戻す。

 続けて聞こえてきた告白には、涙が混じっていた。

「助けて下さい……このままだと私、殺されてしまう……」

 

 

 電話があった翌日。二人の人物が教会を訪れていた。

 鳳条なつき。レジーナが予想した通り、彼女はウィナーズレコードが売り出し中の新人アーティストであった。

出会った時とは髪型やメイクなど大分印象が異なっていたが、彼女はまぎれもなくルカシュが事故から守った女性であり、そしてあのイヤリングの持ち主だった。

「あなたは……あの時の」

「奇遇ですね。さあ、どうぞ」

 彼の顔を見て驚く彼女とそのマネージャーをいつもの私室へ通すと、ルカシュはチェストの上に置かれた小物入れの中から、先日、渡しそびれたままになっていたイヤリングを、彼女の前に差し出した。

「お受け取り下さい。大切なものなのでしょう?」

「神父さんが拾って下さっていたんですか!ありがとうございます。これ、デビューの記念に母がプレゼントしてくれたものなんですよ」

 心底うれしそうに、彼女はイヤリングを手に取った。ルカシュはその様子を見て淡く微笑みながらも、あくまで事務的に切り出した。

「さて、本題に入らせて頂きましょう……貴方は命を狙われているとのお話でしたが、それはいつ頃から、どのような形で表面化したのですか?」

 はしゃいでいた彼女の顔が、みるみるうちに暗くなった。

「はい……新曲の発売が決まった頃ですから、ちょうど一ヶ月半ほど前になります。私の周りで事故が多発するようになったのは」

最初はほんのささいなものだった。しかし、それが命にかかわるようなものへと変わるのに、そう長い時間はかからなかった。

「セットが倒れてきたり、暴走車が突っ込んできたり……最初はただの偶然だと思っていました。永蔵さんも気にしないようにって。

 だけど、一度や二度ならともかく、立て続けになんておかしいじゃないですか」

 これは間違いなく、『誰か』による故意のものだ……そう彼女は確信した。

しかしいずれの場合も、その証拠となるものは、一切発見されなかった。

「以前に助けていただいた時の事故も、警察が現場検証をしたんですが落下の原因は不明で……シャンデリアを支えていたワイヤーは新品のしっかりしたものであったし、細工をした後も見つからないので、あくまで〈不慮の事故〉に過ぎないと……」

永倉が彼女の話を引き継いだ。

ルカシュは口元に指をあて沈黙を守ったまま、彼らの話にじっと耳を傾けている。

「もうどうしようもなくて、いつもビクビクしながら仕事に出ていました。恐怖から開放される日が来るのを、ただひたすら願って。

 ……でも、最近では私だけじゃなくて、それが周りのスタッフにまで飛び火して……エスカレートする一方なんです」

 彼女の横に座る永倉も、先日事故に巻き込まれ、危うく大ケガを負うところだったのだという。

「そのうちみんなが私を気味悪がって避け始めたんです……当然ですよね……みんな命は惜しいもの。もう私、誰も頼る人がいなくて……それで出演していた番組のプロデューサーが冗談半分で言っていた噂を聞いて……お電話したんです」

 しばしその場に落ちる沈黙。

「わかりました……」

 ルカシュがおもむろに口を開いた。

「この依頼、引き受けさせていただきましょう」

 二人の間に、ほっと安堵の空気が流れるのがわかる。そこへルカシュは、極めてさり気ない口調で続けた。

「つきましては、依頼料についてですが……」

「え……ああ、もちろん払わせていただきますとも。前回のお礼を含めて」

「三千万」

「は………?」

「今回の料金は諸経費込みで三千万円になりますが、よろしいですね」

その桁違いの数字を聞いて永倉が凍りつく。

「彼女は天下のウィナーズが認めた有望な人材。このくらいの投資は惜しくないでしょう」

「い……いくら何でもそんな大金……」

「そうですか?私の依頼料としては、かなり安い方なのですがね……アルバムの一枚もヒットすれば、簡単に手に入るはした金ではありませんか」

 平然と言ってのける神父に、

「じょ……冗談じゃない!人の弱みにつけこんで、私たちを強請るつもりですか!」

 思わず永倉が席を立ち上がる。

「強請る……?とんでもない」

 白皙の美貌に冷たい微笑が浮かぶ。

「条件が気に食わないのであれば帰って頂いて結構。私は強制しませんよ。他の退魔士なり霊能者なり、好きに相談すればいい……結果は目に見えていますがね」

 取り付く島もない口調で、彼は言い切った。

「少なくともこれだけは言えますわ」

 突如その場に割って入った第三者の声に、依頼者達が部屋の入り口へ視線を向ける。

「彼は我が教皇庁が誇る現代最高のエクソシストの一人。その彼と同等の力を持つ退魔士を日本で探すのは、まず不可能です」

ルカシュの傍らに立った上品なスーツ姿の美女──レジーナが断言する。

「ここで帰れば、あなた方がみすみす事件解決への大きな機会を逃す事になるのは間違いありません」

「………そんな」

「……分かりました。三千万円でお願いします」

「なつき君!」

「今すぐは無理でも、私、がんばって払います!ですからお願いします!」

 必死に頭を下げる彼女を一瞥してから、ルカシュは永倉に言った。

「決まりですね……それでは契約書にサインをしていただきましょう。保証人は貴方でよろしいですね?」

傲岸不遜な神父に反感を抱きつつも、永倉は彼女の意思に従うしかなかった。