還り着く場所(2)

「──愛しています」
 それは自分が終生、口にすることはないだろうと、信じて疑わなかった言葉。

「──愛しています」
 その言葉の持つ意味を、その言葉を発する者の胸に宿る灼熱を、自分が真に理解する事は無いだろう──ずっと思っていた。

 気怠い宮廷の中で、戦で訪れた傭兵達の陣中で、何故、他の男女があれほど気軽に愛を囁き合うのか、宇宙の摂理に挑む学者のごとき異様に冷めた目で、互いを求め合う人々を観察していたものだった。

 自分は神の愛が理解出来ない──
 与えられた生に感謝する事も出来ない──
 こんな魂の欠けた出来損ないの自分が、人を愛せるわけがない──
 しかし──

「──愛しています」
 血を吐くような苦しさで。

「──愛しています」
 祈るような真摯さで。

「──愛しています」
 全身が焼き尽くされそうな熱量で。
 この唇から吐いて出る思いは何なのだろう。

「──我らが陛下とフランスへと捧げたこの命でしたが、今より私は貴方の為に生きる剣となりましょう」

 富も、栄誉も、何もいらない。
 私が望むのは、目の前のこの女性(ひと)だけ──

「我が全てを賭して愛しております──ジャンヌ」

 嗚呼、こんなありふれた単語の羅列では、何も伝えきれない。
 ただ堰をきって溢れ出る何かに突き動かされるように、初めて口付けしたあの日。
 敵地の只中、泣きじゃくるぼろぼろの少女を抱き締めた時。自分は本当の意味で『人間』に、一人の男になれた気がした。

◆◆◆

 ──1429年。

 少女という拠り所を見つけるより以前。幼き日のジルが最初に救いを求めたのは、学問と信仰だった。

 幸い、子供の教育に関心の高かった父は、彼に物心がつく頃には聖職者達を城に招き入れ、貴族であっても文盲が多い中、当時としては高度な教養を愛児に授けてくれた。

「若様はまことに優秀な生徒でいらっしゃる。
 若様と過ごすひと時は私達にとっても非常に有意義で楽しゅうございますよ」

 母国語であるフランス語の読み書きは勿論の事、古典や神学を理解するのに必須となるラテン語を始め、音楽や美術といった芸術にも非凡な才能を表す次代の領主に、教師の指導にも熱が入る。

 物覚えが良く、一を知るとすぐに十の答えを返してくる。まるで知識に飢えているかのように、学びに対して貪欲で、妥協というものを許さない少年に、老練な学者達も舌を巻いた。
 そしていつしか、この時代における最も優れた知識階級である聖職者とも議論出来るようになる程、彼の知性は鋭く研鑽されていった。

 このまま学問を究めれば、自分にも『神の国』が見えてくるかもしれない──
 空っぽの心に、生きる意味を与える事が出来るかもしれない──
 だが──

「せっかく城に戻ってきたというのに……またお勉強ですか、兄上」

 自らラテン語の原典を訳し、装丁を施した聖アウグスティヌスの写本を手に黙考していたジルの背中に、揶揄と険とを含んだ男の声がかかる。

「……ルネ。お前も来ていたのか」

 書棚に写本を戻しながらゆっくりと振り返ったジルの前に立っていたのは、弟のルネだった。

 父譲りの黄金色の髪に蒼い瞳。まだ年若く野心に燃える闊達で精悍な印象の顔は、実に端正で男の魅力に溢れている。だが、兄を見る視線は血を分けた家族に対するものにしてはあまりにも非友好的で、嘆息する口元は冷笑に歪んでいた。
 久しぶりに弟と顔を合わせるジルにしても、この調子では当たり障りのない事務的な応答をするしかなく、情を示して抱擁する気にもならなかった。

「そんな大昔の哲学者と戯れているお時間があるなら、少しは奥方に構ってあげたらどうですか」
「………………」

 最も触れて欲しくない話題の一つを持ち出されて、ジルの顔が曇る。

 ルネの言う妻──カトリーヌとは婚姻を交わしてもう9年の歳月が経とうとしているが、未だ二人の間には肝心の世継ぎとなるべき男子が生まれず、一族の総帥である祖父・ジャン=ド=クランを苛立たせていた。

 もともとレイ家に隣接するトアール家の広大な領地を併合する為、強欲な祖父が仕掛けた典型的な政略結婚である。
 略奪も同然の強引な輿入れをさせられた妻が、自分に親愛の情を持ってくれるはずもない。

 せめて、男女の愛を育む事が出来ずとも、祖父に人生を振り回された被害者同士、互いに信頼出来る盟友になれればと考えた事もあったが──所領の相続に関して、思うように動かない彼女の母に対し、祖父が拷問同然の凄まじい折檻を加える場面に立ち会わされたカトリーヌは、同じくその場に同席していた自分に二度と心を開く事は無かった。

 端から結婚にもそこから得られる領地にも興味がなかったジルは、無論祖父を止めたものの──結果として、義母・ベアトリスに対する暴力行為はその後も続けられ、トアール家が所有していたティフォージュ、プソージュの城塞はレイ家の物になったのだから、妻の目から見れば、何も出来なかったジルの事も、祖父と同じ、己に不幸を呼びこむ悪魔としか思えないのだろう。

 己を見つめるカトリーヌの瞳の奥に潜む、怯えとそれ以上の深い憎しみの影に耐えられず、彼女の下から逃げ出したのはジルの方だった。

 もう、あれから何年も、名ばかりの妻の部屋には訪れていない。

 しかし、弟のルネの方からしてみれば、自分は、粛々と領主の妻としての役目を果たす佳人に対して、何の興味も示さない傲慢な男に映るらしい。
 人伝に聞いた話では、随分とカトリーヌを気にかけているらしく、また何くれと世話を焼きたがる弟に、頑なであったカトリーヌも心を許しているとか。

 ──また、私の知らないうちに、私の子が妻の腹に宿るのかもしれないな。
 ジルの顔に我知らず自嘲の笑みが浮かぶ。

 カトリーヌはジルとの結婚後、一度だけ懐妊していた。
 生まれた子は出産後、洗礼すら受けられないまま亡くなり、祖父をいたく落胆させた。
 歓びから一転、沈み込む城内の様子を、ジルは冷ややかな目で見守っていたものだ。
 ──私は、いまだ彼女を抱いた事などないのに。

「……何がおかしいのです。兄上」

 ふいに冷淡な笑みを唇にのせるジルに、ルネがいぶかしげな視線を寄越す。
 半神めいた美貌の持ち主である兄が、そういう表情をすると、ますます人間離れした超越者の余裕を感じさせ、彼を苛立たせるのだ。

「いや……お前がそこまでカトリーヌに心を砕いてくれるのならば、私は安心して戦に出る事が出来る……そう思っただけさ」
「……ふざけないで下さい。
 カトリーヌ殿の夫君は私ではなく、貴方でしょう…… !?
 いつも戦から兄上が無事お帰りになるのを祈ってお待ちしている、あの方の心を、何故、慮ってはやらないのですか!」
「……私の帰りではなく、お前が訪ねてきてくれる事を祈っているのではないか?」
「────── !! 」

 今のジルの求道の場は書庫ではなく、血風吹き荒れる戦場だった。
 父の死から14年の歳月を経て、古の聖者達に真理に至る道を尋ねていた少年は、アンジュ公家を通じてフランス王国に奉仕する一角の軍人になっていた。

 父はジルに文化人としての豊かな教養を身に着ける事を望んでいたが、その父が亡くなった後、後見人となった祖父は孫達に教養など望んでいなかった。

 戦乱の時代は力こそ全て。
 自らも優れた軍事指導者であった祖父は、孫であり将来一族の当主となるべきジルにもそうである事を望み、父の遺言を無視し、家庭教師達も全て罷免してしまった。
 それでも既に初等教育を完璧に修めていたジルは、その後も独学で古典を紐解く楽しみを得たが、三歳年下の弟にはついぞ学問に触れる機会は与えられず、ルネは自分の名すら満足には書けないはずだ。

 これで、軍人としての才覚が兄を上回ったなら、ルネの努力も報われただろうが──皮肉な事に、ジルの才能は学問や芸術に留まらなかった。馬術でも剣術でも、何一つルネが兄に勝る事が出来たものはなかったのだ。

 ルネとは対照的な、青みがかった黒髪に月輪を思わせる女性的な麗容の持ち主であるにも関わらず、兄であるジルが振るう剣は、一つ一つの動きは繊細でありながらも、見極めは豪胆で鋭く、踏み込みからあっという間にルネの剣は叩き落されるのが彼らの試合の常であった。

 また、一介の騎士としての実力もさることながら、指揮官としての判断にも申し分がなく、老齢である祖父・クラン公に代わって実質的な作戦の統率を執る機会も増えており、祖父もことジルの軍人としての資質に関しては、全面の信頼を置いていた。

 ──もともと、初孫であり、容姿端麗、頭脳明晰なジルを祖父は溺愛していたから、ルネとしては面白いはずもない。
 兄弟の仲は、すっかり冷え切っていた。

「いや、少し言い過ぎた。気にしないでくれ。
 ただ、お前はお前の役目を果たしてくれれば、それでいい」
「言われずとも……」

 それきり、兄弟の会話は途絶える。
 兄に嫉妬と嫌悪を隠さない弟、家族の中に居場所を見出せない兄。交わす言葉などあるはずもない。
 重苦しい沈黙の後、去り際、ジルは思い出したように弟へ言った。

「……ああそうだ。
 ラ・シュズ殿の命令でな。またしばらく領地を留守にすることになりそうだ」

 『ラ・シュズ』とは祖父であるクラン公の事である。
 一族の者はその領地を指して彼をこう呼ぶ。

「そうですか。
 今度はどちらに?」
「シノンの宮廷だ。
 何でも近々大きな戦が始まるので、少しでも兵を集めたいとヨランド様が仰せなのだ」

 王太子シャルルの義母・ヨランド=ダラゴンは、祖父やジルの直接の主君にあたるアンジュ公ルイ二世の妃であり、王国きっての賢夫人として知られる人物で、今は王太子を支えるアルマニャック派の重鎮として、フランスの宮廷内で実質的に政治を動かしている人物の一人だった。

「大きな戦ですか。それがフランスにとどめを刺す戦にならなければいいのですがね」
「奇遇だな。珍しくそれには私も同意見だよ……まあ、少しでも陛下の御心を晴れやかにする戦果が得られる事を祈りたいが……」

 この時のジルはまだ、これはまたいつもの戦の始まりに過ぎない、そう考えていた。
 しかし。
 祖父の名代として渋々参内した、厭戦気分に沈む退廃的な宮廷で、とうとう彼は、自らが生まれ落ちた時、どこかに置いてきてしまった『失われた魂の欠片』──運命の少女に出会ったのだった。

 

◆◆◆

 

「──光が、見えました」
 潮風に長い白髪を靡かせながら、青年が呟く。
 まだその髪が色を失う前、遠い栄光の時代に思いを馳せながら。

「あの時はもう夕刻を回っていましたが、貴方が陛下への謁見の為、大広間へと通された時、まるで朝日が差し込んだかのような 眩さに、私の目は一瞬、視界を奪われました。
 戦場で昏い死の影を引き摺って戦う兵士は何度も見てきましたが、あんなに目映く輝くような気配を纏っている人物を目にするのは、貴女が初めてでした」

 ──フランスが窮地に立った時、ロレーヌから現れる一人の乙女に、国は救われるであろう。
 そんな古い言い伝えにある通り、この追い詰められるところまで追い詰められた王太子の宮廷に、神の言葉を携えた聖女がやって来るという。

 あまりにも出来過ぎた話だと、シノンに到着した時、ジルは思ったものだ。
 おそらく、シャルルの心を慰撫し、軍全体の士気を上げる為にヨランドとその一派が手を打った演出だろう──周囲がその『乙女』の話題で持ちきりの中、そう冷静に判断していた。

 だからこそ、王太子とその側近中の側近、ドゥ・ラ・トレモイユが『世間知らずの田舎娘』に対して仕掛けた『はかりごと』に、また底意地の悪い事をするものだと、これから知らずに衆目の中、恥をかかされる事になるであろう女性に対し、心底同情していた。

 今、王がいるべき玉座では、最もそれらしい人物として、本来の主であるシャルルに代わり、その従兄弟であるアランソン公ジャン二世が優雅に足を組んでいる。
 天の主に導かれし本物の聖女であれば、王太子を見間違えるはずがない。そういう理屈らしい。
 アランソン公は王太子と年の頃もほぼ同じで、髪の色や瞳の色も良く似ている。これでは、事前にヨランドから簡単な特徴を教えられていたとしても、実際に王太子本人に会った事がなければ、彼がその人だと信じてしまうだろう──

「……ですが、貴女は見事に側近に紛れた陛下を見つけ出し、皆を唖然とさせた」

 500年を経た今でも、その時の様子ははっきりと覚えている。

 ──彼女の歩みは貴婦人にもひけをとらないたおやかさでありながら、その四肢に漲る力を隠し切れないのか、どこか少女らしい溌剌とした印象を見る者に与えた。
 まっすぐに玉座を見据える瞳は生気に満ち溢れ、淡い色の髪が広間を照らす松明の光に柔らかな光を弾く。その晴れやかな横顔にジルの目は釘付けになった。

 ──こんなに力強く、美しい女性は見たことがない。

 ただ、歩んでいる彼女を見ているだけで、少女が纏う光輝に圧倒されて、頭がくらくらしてくる。
 威嚇するように並ぶ騎士達や、着飾った貴婦人の群れ、居並ぶ老獪な貴族達の視線を物ともせず、件の『乙女』は玉座の前に立つと、優しく微笑んで言った。

「御機嫌よう、麗しい公爵様。
 とても玉座がお似合いですが、わたくしがお話したいのは、王太子様なのです」

 玉座に座るアランソン公が、呆けたように彼女を見ている。まるで魂が抜かれてしまったようだ。
 王家の人間に対して何ら敬意を示さない少女を咎める事も忘れて、宮廷に突如として現れた天使の姿にすっかり見惚れてしまっていた。

 ふいに、少女の視線が玉座を外れて広間の中を滑る。
 そして、刹那。
 多くの貴族に紛れて事の様子を見守っていたジルの視線と、彼女のそれとが交錯した。
 その瞬間、気のせいだろうか、少女の表情が変わった気がした。
 どこか嬉しそうな──悪戯っぽい微笑み。
 ぞくり、と。身体の芯が震え──ジルの心臓の鼓動が跳ね上がった。

「──え、ぃあっ !? 」
「──── !? 」

 つい先程まで無言で事態を観察していた、無愛想な神像のごとき青年が、いきなり奇声を発したのに驚いて、傍らで暖を取っていた老貴族が目を丸くしてジルを見ている。

 少女は自分の視線によって、らしくもなく取り乱している青年の存在には気を留める事もなく、やがて側近達の中にこれまた驚いた顔をして立っていたシャルル王太子その人の姿を見つけ出し、彼の前で優雅に膝を折った。

「気高き我らが王太子様。
 わたくしは乙女ジャンヌと申します。
 神のご意志に従い、あなた様をランスの地でフランスの真の王として戴冠させる為、この地に参りました」

 もはや、王太子と少女との会話など、ろくにジルの耳に入ってきてはいなかった。
 肌が火照って熱い。変な汗が額を伝っていくのが分かる。
 おそらく今、自分の顔は熟れた林檎のように真っ赤だろう。
 事の次第を見届ける事も叶わないまま、彼は広間を飛び出していた。

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