還り着く場所(10)

 ──そこは例えるならば悪魔の箱庭。無造作に切り取られた地獄の断片だった。

 気がつくと、ジルは一人、その場所に立っていた。
 石造りの部屋。採光用の天窓から差し込むわずかな月明かりと松明によって照らされた空間は薄暗く、肌に纏わりつく湿り気を帯びた空気は、この上なく不快だった。

 ここはどこだろう?
 周囲に視線を走らせ一呼吸した途端──凄まじい悪臭が鼻を突いた。
 思わず咽返りそうになる口元を抑え、何とか堪える。

 突如襲った粘膜を爛れさせるようなその刺激は、一言で言えば死臭であった。

 血と鋼に火薬とを織り交ぜた死神の香は、戦場でも馴染み深いものであったが、これに加え、脳髄を痺れさせる奇妙に甘ったるい匂いが部屋には充満していた。
 何かの薬品か、あるいは花の香りだろうか……正体は判然としないが、真っ当な目的によって生じているものとは到底思えなかった。
 ただ場に留まっているだけで軽い眩暈を覚える。
 空間全体を覆う、凝縮された狂気。
 女や子供であったなら、すぐに吐き気を催し、その場に昏倒してしまいかねない、穢れの渦。

 それは招かれざる来訪者へ確かに警告していた。
 これ以上、踏み入ってはならぬ、と。

 だが、胸騒ぎとは裏腹に、目が闇に慣れてくるにつれ、ジルの関心はますます後戻り出来なくなっていく。
 この場所。どこか見覚えがあるのだ。窓の位置。頑丈そうな扉の向こう、地上に続いているであろう細く長い階段──

 ──考えてはいけない。思い出してはいけない。

 本能が危険を知らせている。しかし、それでも確かめずにはいられない。
 更なる手掛かりを求めて、踏み出した足が何かに躓いた。

「な───」

 何だ、これは。そう口に出すより早く、瞬時に思考は床に転がるものを理解した。

 暗がりの中に浮かび上がる白い腕。
 晒された断面からは赤黒い肉と白い骨が飛び出している──それはかつて生きた誰かの一部だったもの。

 釣り込まれるように足下の先へと視線を向けると、石畳には人間を構成するべき部品がそこかしこに散乱していた。
 日の下であれば、あたり一帯は血の海である事にすぐ気が付いただろう。
 それがはたして何人分の命で賄われているのか。にわかには判断しかねる数の肉塊が、血だまりの中、じわじわと腐食するのを待ちながら沈んでいる。
 酸鼻極まる光景だった。

「………………」

 ジルは言葉を失った。
 十年来、前線で戦ってきた。死体など見慣れて久しい。
 だが、それでもなお、ジルが今目の前に広がる光景に悪趣味と異常性を感じたのは、必要以上に傷つけられ辱められた遺体の状態と、そのいずれもが戦士となるべく鍛えられた大人の男とは程遠い、華奢な造りをしていた事だった。
 小さく細い指先。やせ気味で骨の浮いた胴回り──バラバラになった全てを繋ぎ合わせても、この腕の中にすっぽりと収まってしまいそうなそれらは、どう見ても小柄な女性、あるいはまだ幼いであろう少年や少女のようにしか見えなかった。

 なんて、おぞましい。

 こんな外界から隔絶された場所で。一体誰が。何の為に。
 柔肌に傷をつけ、五指の爪を引きはがし、あまつさえはらわたを引きずり出して。
 惨たらしい宴に興じたのだろう。

 血だまりからは、怨嗟と無念が立ち昇っている。
 場に満ちた重苦しい気配は、異臭によるものだけでは決してない。
 こうして佇んでいる間にも、理不尽に齎された死によって無理矢理この世界から逐われた魂たちが、己を地の底へと引きずり込もうと、足元から腕を盛んに伸ばし蠢いている様子が目に見えるようだった。

 視界の端々に感じられる亡者の嘆き、この場で行われた一方的な虐待と拷問の予感に、胸が悪くなってくる。

 やはり長居するべきではない──そう思い直した刹那、鼓膜をつんざくような悲鳴が石壁に響いた。

 声のした方向を辿ると、揺らめく松明の明かりの中に、複数の人影が現れた。
 死臭漂う牢獄のような部屋には不釣り合いなほど豪奢な寝台。
 天蓋に覆われたその上で、二人の人間が揉みあっている。

 恐怖に歪んだ顔で泣き叫びながら必死の抵抗を続けているのは、年端もいかない少年だった。
 その細い身体を被さるようにして組み敷くのは、死神を思わせる黒い長衣を纏った誰か。その顔はマントのフードに隠されて表情を伺い知る事は出来ないが、興奮しているのか、口元から洩れる吐息は荒々しく、危うい熱を帯びていた。
 寝台を軋ませ身をよじり、足を蹴り上げ、少年がいくら暴れまわろうとも、細い身体を縫いとめる黒衣の長身はびくともしない。

 少年が一際大きな悲鳴を上げた。
 松明の明かりを反射して、暗がりの中に閃く不吉な光。
 黒衣が虚空に振り上げたものにジルが瞠目する。

「やめろ……!」

 得体の知れない相手に、素手で挑む愚かさは重々承知していた。
 それでも目の前で狼藉を働こうとしている輩を、見過ごす事は出来なかった。

 躯を踏み分け寝台に駆け寄ると、少年の頭部をかち割ろうとしていた戦斧を持つ腕を掴み、捩じり上げる。
 現役の軍人である男爵に身体を押さえ付けられて、なおも抵抗を試みる黒衣の手から得物がすべり落ちた。

 石畳に響く重い金属の音。
 その瞬間、振り返った黒衣とジルの目があった。
 衣擦れの音に合わせて、明らかになるその素顔。

「え───?」

 悲憤と絶望、そして諦念とに冒され、やつれ果てた白い肌。
 身も心も屍のようでありながら、そこだけは何かの妄執に突き動かされるかのように、狂暴な光を放つ紅い瞳。
 血走る切れ長の目元には濃い隈が落ち、幽鬼のようなその様子は在りし日の威厳など見る影もないが、一方で厭世と退廃に彩られ、悪戯に命を弄ぶ姿は、いっそ死の天使の趣さえあった。

 禁忌の愉悦に耽溺し、堕ちた男がジルを嗤う。
 良心と信仰の対極にあるこの場に相応しい、荒んだ冷笑を刻む美貌は、彼自身のものだった。

 

■■■

 

「………………!」

 衝撃に刹那で覚醒したジルの視界に映った室内は、まだ明るかった。
 窓の外に広がる領地の景色はごく穏やかで、農民達が畑仕事に精を出している様子が見て取れる。

 頭を一振りして、纏わりつく悪夢の余韻を振り払う。
 疲れていたのか、書簡したためている最中にうたた寝をしてしまったらしい。
 取り落としたペンを拾い上げ、ジルは深々と溜息を吐いた。

 夢に見た光景は、元々ジルが人ならざる力を手にした時から、常に脳裏の片隅に置いていた不安を具現化したものだった。

 ──ティフォージュの城の奥底、地下にある隠し部屋で繰り広げられる背徳の儀式。
 祭壇に捧げられるのはパンとワインではなく、恨めし気な表情で虚空を見つめる生首と、まだ温かい臓物の数々。
 妖しげな香が焚かれるその中で、己は悲鳴を上げる細い首筋を噛み千切り、溢れだす血潮で喉を潤しながら、腐肉に塗れて絶頂する──

 戦乱の世から取り残された怪物が、平和な生活を取り戻した人々の日常に放逐されたらどうなるのか──想像しうる中で最悪の末路の一つ。

 だからこそ、戦場に倒れる事が叶わなかった時、自分は頃合いを見て潔く命を絶つと決めていた。
 例えこの身がいくら『ヒト』とは違うものに成り果てようとも。救済は無く、魂は永遠に地獄を彷徨う事になろうとも。性根まで悪魔に売り渡すつもりは更々なかった。
 胸に抱く誇りと意志だけは、最期の瞬間まで人間でありたい。
 それなのに。

「ジャンヌ……」

 ジルが治世の時代を迎えても生き続ける事を望み、彼自身もまたその傍らに在りたいと願った少女は、今、ここにはいない。

 シャルルにブルターニュへの帰還を命じられた後、ジルとジャンヌは別れを惜しむ間もなく引き離された。
 宮廷を去った後も、前線にいる将校達とジルの遣り取りは続き、戦場との繋がりは断たれてはいなかったが、ジャンヌに対するシャルル達の警戒と監視は殊の外強かった。
 放った密偵達も乙女と直に接触するのは難しく、遠巻きに状況を伝えてくるのが精一杯だった。

 シャルルがトレモイユの甥であるジルすら宮廷から遠ざけ、ジャンヌもまた蔑ろにしているという知らせに、ノルマンディにいるアランソンやリッシュモン達は大いに失望し、憤慨した。
 しかし彼らもまた宮廷に対しては依然無力であり、二人の処遇について働きかける事は叶わなかった。

 事実上、職権を停止されたも同然であったが、未だジルは元帥位にあり、今のところ宮廷に機能していない王軍の総司令官職に代わる誰かを据える動きは見えなかった。
 しかし、現状が長く続けば、トレモイユが幅を利かし厭戦の風潮が強い彼らも、真に国益に繋がる判断を下すことが出来る有能な指導者を迎えざるを得なくなるだろう。

 その時を見込んで、ジルは前職の大元帥であり、王家に繋がるブルターニュ公の弟であるリッシュモンと、密偵を通じ、意見交換を重ねていた。
 伯爵の力を抑える為にジルを元帥に推挙したトレモイユからしてみれば、甥の判断は裏切りであり通敵行為だとなじっただろう。
 だが、ジル自身はかねてから思慮深く誠実な人柄のリッシュモン伯を尊敬していたし、共に戦場を駆けた者として、リッシュモンもまた自分の地位を継いだ青年を悪く思ってはいなかった。
 侍従長の思惑はどうであれ、互いに国の行く末を憂う有能な軍人である二人の間には、わだかまりなど存在していなかったのだ。

 リッシュモンはジルが提案する常設軍の設立についても強く興味を示し、自分が宮廷に復帰した暁には、その実現の為、必ずや協力して欲しいと若い男爵に伝えていた。
 伯爵の賛意を得て、また頼りにされるのは軍人として誇らしく、彼が言う通り、新たなフランスを築く礎となれれば、どんなに喜ばしいことか。
 そしてその時、自分の傍らに愛する少女が微笑んでいたのなら──
 この世の地獄で悲嘆に狂う悪夢とは相反する輝かしい未来。あまりにも出来過ぎていて、想像する事すら畏れ多く感じる。

 本当にそんな日がくるのだろうか。
 この瞬間、フランス最高の将軍に認められた青年の心を占めるのは、自らが歴史に名を残す事ではなく、もっとささやかな願いだった。

 ジャンヌ──今はただ、貴女に会いたい。

 

■■■

 

 ──1429年12月。
 ラ・シャリテ奪還作戦の失敗により、シュリの宮廷におけるジャンヌの立場がより孤立を深める中、領地への帰還を命じられたジルもまた孤独を味わっていた。

 この頃、王国随一の大領主たる元帥が抱える居城の一つ、シャントセは、現当主の長女マリが誕生した事で大いに湧いていた。
 名付け親達の立ち合いの下、洗礼を無事済ませた大切な姫君の世話に奔走する家臣達の様子を、一向に現実感が伴わないまま、何時ぞやのようにジルはただ、遠巻きに眺めていた。
 父になった実感など──歓びなど得られるはずもない。
 新しい命は、彼があずかり知らぬところで行われた秘事によって齎されたものだったのだから。

 だが、それでも。
 生まれてくる子に罪はない。一族の長としての体面もある。
 あまり妻や子を邪険にしていては、家臣達も訝しむ。
 きっと娘も──あくまでも戸籍上の繋がりではあるが──物心もつかないうちに、所領の拡大に利用されるようになるのだろう。
 たとえ一時であっても、いつわりなき愛と誠の慕情に身を焦がした者としては、その行く末に憐れみを覚え、幸多き事を願わなくもなかった。

 複雑な思いに揺り動かされながら、形式に則りジルが育児室を訪れると、そこには既に先客がいた。

「……おや、兄上。
まさかいらっしゃるとは、思ってもおりませんでした」
「…………」

 むつきに包まれた赤子を腕に抱きながら、どこか誇らしげな顔で、ルネは今や王国元帥となった兄を出迎えた。

 たちまちその場の空気が凍りついた。
 対峙する兄弟の間で、乳母や家臣達がおろおろとそれぞれの顔を見比べては、口をぱくぱくさせている。
 だが、そんな動揺を隠せないでいる周囲の様子を余所に、ルネは相変わらず慌てる様子もなく、堂々とした態度で言葉を続ける。

「カトリーヌ殿は立派に領主の妻としての役目を果たして下さいました。
 見て御覧なさい。この愛らしい赤子を。
 将来は母に似てさぞ美しくなることでしょう」

 ジルは無言を貫いたまま、娘を抱く弟を見つめている。
 赤子は大人しく男の腕に抱かれながら、その深い愛情を感じさせる蒼い瞳に向かって、無邪気な笑顔を振りまいていた。
 ──きっと本能で一体誰が父親であるのか理解しているのだろう。

「お忙しい所、せっかくいらっしゃったのです。
 貴方もこの子を抱いてやるといい。
 大切な大切な──一族の娘なのですから」

 ルネは赤子を『ジルの娘』とは言わなかった。
 周囲の家臣達もあえてそれを聞き流したまま、言及しようとはしない。
 この場にいる者は皆、知っているのだ。
 赤子の出自と、真実を。

 それでいて、ルネに悪びれた様子は全くなかった。
 さも当然のように、赤子からの信頼を独占したまま、弟はジルに言い放った。

「留守の間、この子やカトリーヌ殿は私が力の限りお守りしますゆえに。
 どうぞ、兄上は一族の栄誉の為、王国元帥としてのお役目を全うして下さいませ」
「……ああ、頼んだ」

 受け応える声は抑揚がなく、我ながら恐ろしい程感情が欠落していた。

 固唾を飲んで見守る家臣達が憐れになり、結局娘には指一本触れる事無く、ジルは育児室を退去した。
 弟から差し出された温かな命を受け取る気にはとてもなれなかった。
 踵を返したジルの網膜には、見送るルネの勝利者然とした不敵な笑みが焼き付いてた。

 

■■■

 

 弟が自分に対し、親しみの一片も持ち合わせていないのは重々承知していたはずだった。
 以前だったら、勝手に対抗意識を燃やし、時に悦に入り、あるいは臍を噛む相手を気にも留めなかっただろう。

 だというのに、あの場で味わったやり切れなさが、ずっと尾を引き続けている。
 忘れていたはずの痛み。克服したはずの感情。
 それが今になって何故。

 これが、少女に恋し、愛を得た代償なのだろうか。
 歓びを味わうには、苦しみもまた感じなければならない。それは必然的な等価交換。
 神は確かに公平だ──龍や悪魔にも例えられた自分が、随分と人間臭くなったものだと、ジルは自嘲する。

 それにしても、何やら城門のあたりが騒がしい。
 執事や侍女達が慌てふためく気配が俄かに伝わってくる。
 特に来客の予定はなかったはずだが。

 城主の疑問に対する答えは、思いの外早く返ってきた。
 階下で言い争う声がひとしきり石壁に跳ねた後、執務室に戻ったジルの耳に飛び込んできたのは、戦場の臼砲を思わせる男の怒声だった。

「ジルよ、何故儂に黙って所領に手を付けた……!」

 ずかずかと毛足の長い絨毯が敷かれた石畳を踏み鳴らす音も荒々しく、今なお一族に多大な影響力を奮うジャン・ド・クランが、孫であるジルに詰め寄ってくる。
 ──ああ、やはり来たか。
 老いていまだ血気盛んなこの男は、自らに気に入らない事態が起こると、すぐに癇癪を起す。
 予想してしかるべき祖父の剣幕に、ジルは内心うんざりしながら、表情だけは神妙な面持ちでその場に畏まった。

「何故……?
 それは軍を招集する為に速やかに資金が必要であると判断したからですが」

 軍資金の枯渇を理由に戦地への派兵を渋るシャルルを説得する材料とする為、ジルは密かに父祖伝来の遺産であるブレゾン城を売却していた。

 オルレアンに出立した当初から王家の資金繰りは深刻であり、ヨランドやリッシュモンは私財を投じてその兵力を維持していた。
 貴族は誇りと名誉を重んじるが、傭兵はしかるべき報酬が無ければ決して動かない。
 先のアザンクールの戦いで大敗し、いわば正規軍である貴族とその郎党からなる騎士団の多くが犠牲となったフランスとしては、イングランドとの戦いをつづける為には、どうしても傭兵の力を頼らざるを得なかったのだ。

 支払いを渋れば、彼らの士気は露骨に下がり、埋め合わせをしようと占領地における掠奪は苛烈を極める事になる。そしてそれは、必然的に人々の間から新たな憎しみと争いの火種を生むのに繋がっていた。
 リッシュモンから元帥位を引き継いだジルとしても、当然のように彼に倣った。それだけの事である。

「馬鹿者……!
 それが必要かどうか判断するのはお前ではない!この儂だ!」
「──ラ・シュズよ、何をおっしゃるか!
 一族の当主はもう貴方ではない──この私だ!」

 軍人としては確かに尊敬出来る面もあったが、叔父のトレモイユ同様、利己主義の権化のような祖父のやり方は、ジルには到底許容出来るものではなく、度々対立を繰り返してきた。
 両親を失い、後ろ盾が必要であった幼少時であったならばいざ知らず、成人して宮廷に上ってさえ、何かにつけて口を挟んでくる祖父の存在は、もはや彼にとって重荷以外の何者でもなかった。

「黙れ!この恩知らずが!」

 烈火のごとき言葉と共に、ジルの顔にワインがぶちまけられる。
 感情に任せるがまま、卓上にあった杯を引っ掴んだクラン公が、若い当主に向かって投げつけたのだ。
 ごろり、と美しい細工が施されたベネチア産のグラスが絨毯の上に転がる。額を切ったのか、酒精の香りに交じって鉄臭ささが鼻腔を突いた。

「父と母を失い、路頭に迷うところだったお前達兄弟をここまで立派に育ててやったのは誰だと思っている…… !? 」

 確かにそれについては感謝している。
 だが、そもそも父であるギィは生前、この粗暴で強欲な祖父の存在を警戒し、何かあった時は彼の従兄弟である人物を頼るよう、言いつけてあったのだ。
 その遺言を破棄し、ジルやルネを学問の道から遠ざけ、自らの都合が良いように軍人としての訓練を強いたのは、他ならぬクラン公自身である。

 そして、皮肉にも祖父の存在を毛嫌いしていたはずのジルが、彼の期待に強く応えてしまっていた。

「いつまでもくだらぬ理想論にかぶれおって……!
 何故わからぬのか!
 理想や愛で一族や領地は守れぬ!
 この世は、金と力が全てだ……!
 そんな軟弱な考えでおるから、ルネにカトリーヌを寝取られたのだ!!」

「─────っ!」

「フン……儂が知らないとでも思ったか。
 世間知らずの小娘にも弟にも侮られて。
 まったく、男として少しは恥ずかしいと思わないのか、お前は」

 蔑むようなクラン公の視線に、ぽたぽたと己が血とキリストの聖血を滴らせたジルの頬へ朱が昇った。

「……まあ、カトリーヌの腹に入った子種がお前達どちらのものであっても、一族の血を継いでいる事に変わりはないからな。
 無駄に口外しなければ何とでもなる。
 出来れば、世継ぎになる男子が欲しかったところだが……次に期待する事にしよう」

 悔しさに歯を食いしばり、握りしめた拳を震わせているジルを、完全に場の主導権を奪った形になったクラン公は、さも愉快そうに嘲笑う。

「儂を黙らせたかったら、力尽くでカトリーヌを組み敷いて、男子を生ませる事だ。
 世継ぎを残す役目を果たせぬのであれば、それは弟に任せて、せいぜい一族の栄誉の為、元帥として宮廷に仕え武勲を上げるのに励むのだな……!」

 言いたいだけ言い終えて、その場に俯いたまま、身動ぎせずにいる孫にクラン公は背を向ける。
 その去り際、アンジュ公家に仕える狡猾な老将軍は嘆かわしそうに溜息を吐いた。

「お前達の性格と能力が逆であれば、どれだけ良かっただろうに……」
「………………」
「一族に利を齎さぬ役立たずに用はない。
 身の程を弁えたならば、二度と儂には逆らうな」

 結局、それ以上祖父に何も言い返せないまま、ジルは自室に取り残された。
 額から流れていた血は既に止まっていたが、心に穿たれた傷はむしろじわじわとより痛みを増しながら、疼き続けていた。

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