還り着く場所(17)

「……ジル……ジル……」

彼の姿は最後に分かれた時とは別人のように変わり果てていた。
宮廷に集う貴婦人方を虜にし、前線に立つ兵士達の尊敬を一身に集めていた美貌こそ損なわれていなかったが、そのやつれた額にかかる髪はどうした事だろう。夜天の煌きも濡れ羽の艶も失せ、涸れ切った白い地色を曝していた。
俊敏で快活だった若者が、急に病に伏した老人に変じてしまったような様相。

お願い……目を開けて……お願い……

それでも彼の命の所在を確かめたくて、少女はその手に、その髪に触れようとするが、実体を伴わない彼女の意志は虚しくすり抜けるばかり。

──お願い。

ここにきて何も出来ない、ただ詫びるしかない己の無力に彼女はうちひしがれ、耐え忍ぶしかなかった。

 

◆◆◆

 
この日、邪なる神父は目に見えて上機嫌だった。
なぜなら、ようやく自分の想い人との逢瀬にこぎつける事が出来たからだ。

──残念ながら、ルーアンでの交戦からしばらくの間、件のジル・ド・レイと顔を会わせる機会には恵まれなかった。

神父としての素養にいくら難があろうとも、彼──フランソワーズ・プレラーティが当代随一の魔術師であり悪魔祓い師である事に変わりはなく、用事であれば、主の代行者たる教皇の御名の下、異形の戦場に馳せ参じなければならない。
結果、焦らされば焦らされるほど、内に秘めた思慕の情は膨れ上がり、苛立ちと共に彼の仕事をより大胆かつ残酷なものにした。
この時、狩り出された異端者達は真に不運だったとしか言いようがない。
それでも、その果てない欲望が行き着く先にいる哀れな若者よりは、まだ救いがあったとも考えられる。

さて──我が愛しの騎士殿は如何お過しでしょうか。

報告によると、捕らえられて以来、与えられる水や食事には一切手を付けず、ただされるがまま、甘んじて責め苦の限りに耐え続けているらしい。
当然、本来彼が力を奮うのに最も必要な血を補う事が出来なくなってからも随分久しくなる。
糧を断ったまま、時に意識を失う程苛烈な拷問を受け続けているのであれば、いい加減、人としての体裁を保つのも難しくなってきている頃だろうに、その超人的な精神力でもって魔性の本能を抑えこみ、座して静かに瞑目する姿は、まるで死期を悟った聖者のようだとか。

おかげでここにきてお偉方の中には『彼が吸血鬼だというのは、何かの悪い冗談なのではないか』と言い出す者が出て来る始末だ。
現場の人間としては、冗談で精鋭の退魔師を10名以上殺されてたまるかと言いたいところだが。

──あの時はしてやられましたね。

戦いの最中、あれほど短時間のうちに獲物が『化ける』とは、正直な話、プレラーティ自身も想像していなかった。
『人間上がりのはぐれ吸血鬼』という情報を鵜呑みにし、舐めてかかっていた者は、その場で次々と獲物の餌食になった。
瞬く間に力を増し、その戦場を己の舞台として吠え猛る様に、一瞬、伝え聞く『黄金の王』──夜魔と呼ばれる者達の頂点に立つ始祖吸血鬼の姿を重ねあわせたりもしたが、さすがにそれは過大評価だったらしい。

早々に限界がきたのか、あるいは有り余る力を制御しきれなかったのか──互いに一歩も譲らない、刹那の隙を縫うような精神を削り合う攻防の末、人外の騎士は捕縛された。
本当は他の魔術師に足止めをさせているところへ少し規模の大きい術式を破裂させてやればもっと簡単に済んだのだが、加減を誤った挙句、うっかり滅ぼしてしまっては元も子もない。
本能のままに血肉を貪るだけの屍喰鬼ならば、その場で処理してしまえば全て終わりだ。一方、人間と変わらぬ高い知能を持ち、己の意志で異能を奮う事が出来る完成された吸血鬼には、教皇庁にとっても、プレラーティにとっても多大な利用価値がある。
研究の為にも、対象は極力生け捕りにするのが望ましい。

──しかしあれだけの暴威を振りまいておきながら、随分と諦めがいいというか、大人しいものだ。

最もそういう潔いところこそが彼の一番好ましいところであるから、浅ましい真似に走ったり、簡単に堕落してもらっては困る。

──それを成すべきは私の役目なのですから。

少しずつ、チェスの盤面を詰めていくように、じわりじわりと、抜かりなく責め立てて、あの端麗な顔が苦痛に歪み、透徹とした瞳が絶望で濁っていく様を心ゆくまで愉しむのだ。
そして、翼をもがれた鳥が、もはや飛翔する誇りすら忘れてしまった暁には、その救われない魂が腐り落ちて消え去るまで存分に飼い馴らしてやろう。

──面倒をかけさせられた分、骨の髄まで味あわせて頂かなければ。

美しいもの、汚れのないものを蹂躙し、愛しいそれが苦しみの果て壊れゆく様を見つめる事に至上の喜びを感じる……プレラーティはそういう類の人間だった。
今まさに自分がこの希代の悲劇にさらなる彩りを添える様に想いを馳せつつ、陰気な地下牢への道行を、まるで夜半の繁華街へでも繰り出す若者のような軽い足取りで下りていく。

やがて口汚い罵りの言葉と、激しい打擲の音に混じって、くぐもった苦鳴の声が耳に入ってくるようになる。
果たして、長い石段の突き当たりに、目指すべき鳥籠はあった。
安価な獣脂の燃える臭いに混じって、慣れぬ者であれば足を踏み入れた瞬間、むせ返り、知らず顔をしかめたくなるような刺激が鼻をつく。
虜の身とは言え、およそ一国の要職にあった大貴族に施されるものではない劣悪な環境の下、理不尽なまでの暴力に曝されつつ、未だ憐れにも正気を保ったまま、誇り高き騎士はそこにいた。

こうして想い人との再会を果たすまでに要した時間は、自分の感覚だと随分長く感じたものだが、実際はせいぜい投獄から10日ばかりしか経っていないはずだった。
しかし今や騎士の姿は、かつてランスで対面した頃からは想像もつかない程変わり果てていた。

武装や貴族としての権威を象徴する装飾の類が全て取り上げられているのはもちろんの事、仕立ての良かった着衣は、牢内を引きずられ、壁に打ち付けられているうちに、擦り切れ破れ、処々に血痕を散らした凄惨な状態になっている。
何より騎士自身の様相が尋常ではなかった。闇の中にも浮かび上がるように白かった肌は垢じみて薄汚れ、かさついた唇の端は切れて血を滲ませている。
そして……最も彼を彼たらしめていたであろう、北フランスでは珍しい見事な青みを帯びた黒髪については、今や見る影もない。
折檻に耐えるべく、丸められた背を伝い落ちる流れは、すっかり色素を失い、まるで老人のような混じり気のない白へと輝きを変じていた。

それでもなお、変わらないものもある。

例えば、それは武人としての強い矜持の下、情けは請うまいと引き結ばれた口許であったり、世界に自分が愛されてある事を信じて疑わないような揺るぎのない眼差しといったものであったが、それよりなにより、こうして窶れ果ててさえ、彼の類い稀な美しさは匂い立つようだった。

──そうだ。やはり貴方はそうでないと。

知らず、プレラーティの唇は喜悦の笑みに歪んだ。

「ごきげんよう騎士殿。それそろ口を割る気にはなってくれましたか?」

雇い主である神父が牢内に入ってくる気配を察して、ようやく牢番達の手が止まる。
襟首を掴まれ、無造作に訪問者の足元へ投げ出された青年は、か細い喘ぎを漏らし、石畳の上に突っ伏したまま動かなくなった。

「おやおや、あの勇ましさはどうしてしまわれたのです。貴方の憎いプレラーティがここにおりますよ?」

頭上から降りかけられたおよそ場にそぐわない甘やかな声に、青年の指先がわずかに震えるが、もはや込める力も尽き果てた腕は、上体を起こす事すら叶わず、その爪はただ虚しく石畳の上に溜まった土埃を削るに留まる。

──否、指先に爪など一枚もない。
拷問に際して一枚、一枚剥ぎ取られていったそれは、未だ再生されずに、あるべき場所には赤黒く血がこびりついているだけだった。

「ああ、こんなに弱ってしまわれて……きちんとお食事を採られないからですよ」

言葉だけはあくまでも白々しいほど慇懃に、神父の姿を借りた悪魔は青年の前で膝を折ると、その輝きを失った髪に指を絡め、さながら慈母のごとく愛おしげにかき上げる。
待ち望んだこの瞬間に、しばしえもいわれぬ興奮からか、絡めた指先を振るわせたプレラーティであったが、

「……おい」

──それもつかの間。途端、端麗な顔をしかめ、傍らに控えていた牢番達に声を荒げていた。

「顔に傷がついているじゃないか」

申し訳程度の明かりが置かれているだけの牢内は昼なお暗く、足を踏み入れた時分には全く気がつかなかったが、長い髪に隠れていた青年の右目は無惨にも醜く潰されており、瞼の下に隠れた瞳は、完全に光を失っているようだった。

「ああ、ご指示の通り直接は殴っちゃいないんですが、よろけた時のあたりどころが悪かったんでしょうね──」

言葉は最後まで続かず、唐突に途切れた。
されるがままに髪を弄ばれていた青年が、片方しかない目で瞠目する。

悪びれなく答えた牢番に返ってきたのは、理解を示す頷きではなく、憤怒に任せた魔術の一撃だった。

認識を超えたあまりの事態に、周囲がただ立ち尽くす中、一瞬のうちに頭部の上半分を吹き飛ばされた兵士の身体は前のめりに倒れ込むと、あたりの床に脳漿と血液とを撒き散らす。

「……なんと……いう事を」

しかし己が引き起こした酸鼻窮まる光景など全く目に入ってこないのか、恐るべき異端の神父の関心はあくまでも手にした玩具を傷つけられた事に始終していた。

「ふざけるなよこの屑共!あれほど!あれほど言い聞かせたはずだろ!
顔だけは!顔だけは決して傷つけるなと──
それを……『当たり所が悪かった』だぁ !? とぼけるのも大概にしろよ無能が!
よろけてかすっただけでこんな傷になるか !? ああ!? 」

前線の傭兵もかくやという程に一変した口調の主は、言葉も無い牢番の一人に掴みかかると、細腕に似合わぬ怪力で、有無を言わさずその顔面を壁へと叩きつけた。

「ほら!こうして!こうして!
こうして何度も!痛めつけたんだろうがッ!
はっ!そんな言い訳なんざ!見え見えなんだよッ!」

湧き上がる激情に突き動かされるまま、許しを請う声が聞こえなくなり、やがて弛緩し切った身体の重みを腕に感じるまで、理不尽な暴行は続くかに見えた。
そして実際、プレラーティはそのつもりでいた。『彼』の声を聞くまでは。

「……やめろ」

か細いが、凛然とした否定の意思が込められた響きが、嗜虐の熱に犯された鼓膜に届く。

「無益な殺生はやめろ……プレラーティ……」

ただそれだけの事で、たちまち、憤怒に彩られていた美貌が、見る者を総毛立たせるような危うい笑みに包まれた。

「ああ……やっと名前を呼んで下さったのですね」

不気味なほど無邪気な喜びが滲んだ声を上げて、プレラーティは青年に振り返った。

「流石は聖女の騎士。痛めつけられた相手でも救いの手を差し伸べますか。いや、何とも慈悲深い。
良かったですねぇ……貴方のような屑でも、この騎士殿は人としての情けをかけて下さるそうですよ?」

プレラーティの問いかけに牢番は答えない。
彼は神父に首筋を掴まれたまま、頭蓋に甚大な損傷を被った末、そのままこと切れていた。

「……おやおや、感激のあまり声も上げられないのかと思ったら……残念ながら手遅れだったようです」
おどけて肩を竦める神父の傍らで、命という高い対価によって初めて戒めから解放された牢番の遺体が、ずるずると音を立てながら壁伝いに崩れ落ちていく。

──この世の理を超えた魔術師には、この世の法すら及ばぬのか。

こちらからは窺い知る事の出来ぬそれの顔面が、肉親ですら目を背けずにはいられぬ様相であるのは、戦場での経験から想像に難くない。
訪れから一刻も経たずして、造作もなく二人の命を奪って棄てた男に、いよいよ正義感からなる純粋な怒りを燃やさずにはいられない騎士であったが、そんな彼の胸の内を知ってか知らずか、あまつさえ、プレラーティはこんな提案を言ってのけた。

「このまま朽ち果てさせるのも何ですし……せっかくですから、新鮮なうちに彼等の血肉を頂いたらどうですか?」

──瞬間、聞き手の激情は沸点を越えていた。

「ふざけるな……!」
一体あの弱り切った身体のどこにこれほどの覇気が残っていたのか。騎士にして貴族たる青年の大喝が牢内に響き渡る。

が、しかし。かつての戦場でならば兵共も畏縮しきったであろう一声も、今となっては、つかの間の戯れを楽しむ神父にとって、何の痛痒も呼び起こさぬ掛け合いの一環に過ぎないようだった。

「別にふざけてなどいませんよ。私はあくまでもこの場にあってしごく合理的な提案をしただけです。
ああ、それとも二人では足りないというご相談でしたら、そこのでくの棒も私が代わって捌いてさしあげますが?」
「ひっ……」

プレラーティが思わせぶりな視線を投げかけた途端、恐怖に戦きつつも、立ちすくんだまま逃げる事すら適わなかった残り一人の牢番が、言葉にならぬ悲鳴を上げ、弾かれたように出口に向かって駆け出した。

「よせっ……!」

地を這う青年がかすれ声で制止しようしたのは、果たしてどちらであったか。
しかし結果として、いずれも者も彼の言葉に耳を傾けず、その目の前で必然的に悲劇はまた繰り返される。

「あ」

呼吸するような自然さで紡がれる異質の法則。
我が身に何が起こったのか理解する前に、身体の中央にぽっかりと穴を空けた男は、出口まであと一歩のところで救いを求めるように震える腕で宙をかいた後、虚しく力尽きた。

「……あーあ、まったく……一度ならず、二度も私の『力』を見たというのに、無防備に背中を曝すとは……本当に愚鈍というか、平和な方たちですねぇ。
そんな人間を魔術師が──ましてやこの私が黙って帰すはずがないでしょう?」

とうとう傷ついた虜囚の貴人のみを残すだけとなった殺戮の場に、およそ屈託というものが無いプレラーティの軽やかな笑い声が不釣合いに木霊する。

「……この……」
「……はい?」

芝居がかった優雅なターンで、くるりと振り返った神父に浴びせられたのは、当然賞賛であるはずもなく、憤怒に柳眉を逆立てた騎士の血を吐くような叱責だった。

「……この……外道がっ!
貴様は……貴様は人の命を何だと思っている……!」

「外道とはまた心外な……貴方がそれを言いますか?閣下」

予想して然りの展開とは言え、どこまでも自身のそれとはかみ合わぬ『正義』を貫き通そうとする騎士に、プレラーティは辟易とした表情で告げた。

「私は教皇庁の秘儀を預かり行使するものとして、全てを隠密に計らわねばならぬ立場にあります。そのためにはやむを得ず、こうして最低限の『人払い』を迫られる場面も多々あるのです。
戦場を行く貴方ならば理解して下さるかと思っていたのに……酷いですね」
「ほざけ!貴様と私は違う!」

「違う……?何が違うというのです?」
うっそりとした微笑みに底知れぬ悪意をのせて、プレラーティは囁いた。

「貴方自身はどう思っているか知りませんけれど……傍から見れば、貴方も私も同じ立派な〈化物〉なんですよ。
ねえ、ジル・ド・レイ元帥閣下」

亀裂のような笑みを深くしながら、神父は騎士に呪いの言葉を言祝ぐ。

「きっかけは何にしろ、貴方が人の道を棄てた事に変わりは無い。
貴方には最早、人と同じ時間は流れない。人と同じ糧を得る事は出来ない。
そんな貴方を他の人間はどう見るでしょうね?
若く美しい姿のまま歳をとらず、聖体であるパンやワインも拒む身体を抱えて、この先どうやってその本性を誤魔化していくおつもりですか?
もう、無理なんですよ。
貴方が人として、人と共に生きる事は。
だから……」

神父の瞳が愉悦に輝き、殊更楽しそうに語尾が弾む。

「……ねえ?〈化物〉は〈化物〉らしく、一緒に面白おかしく生きようではありませんか。
ええ、私達は人の道を外れた存在であって、多くの人間にとって忌まわしく、呪わしいものとして映るかもしれません。
ですが、同時に彼らの敷いた法則に縛られる事がない、超越した存在でもあるのです。
私達には力がある。それが人間に対して絶対である限り、私達は彼らにとって神にも近しい優位を誇る事が出来る。
自分より劣る生き物に、いちいち憐憫の情を懐く必要はありません。
実際、人間とて己の家畜を屠る時、涙を流したりはしないでしょう?そういう事です」

「……つまり、仲間になれと?そう貴様は言いたいのか」
「んー、仲間というのは、少しばかりニュアンスが違うんですけど……そうとって下さっても構いませんよ。少しずつ手順を踏んでいくのも悪くはありませんから」
「だったら断る」

片方だけの瞳に強い意志を光らせて、全てを奪われた青年が最後の誇りを胸に、迷い無く断言する。

「こうなった以上……今更人として生きることなど……望んではいない」

全身から鋭い闘気を発しつつ、残る力で何とか上体を引き起こした騎士は、強烈な拒絶の一言を神父に放った。

「異端の洗礼を受けた時、既に我が人生は対価として捧げたも同然。
もはや思い残す事など何も無い。
さあ、殺せ。貴様なら容易に出来るはずだろう。
でなければ……私が今、この場で貴様を殺す」

それは最後通牒と言っていい内容だった。
騎士の目は本気で、だからこそプレラーティは……心底愉快でたまらなかった。

「……何が可笑しい」
腹を抱え、涙すら流して笑い転げる若い神父に、得体の知れない戦慄を覚えつつ、だがそれは決して表情には出さぬまま騎士が問う。

「だって……はは、貴方があまりにも可愛らしい事をおっしゃるからですよ、閣下。
私を殺す?貴方が?その身体で?
無理ですよ。そんなの」
哀れむような目つきでこちらを見やる神父に、
「やってみなければ……わからないだろうッ!」

騎士の瞳が朱に染まる。

──どんな魔術師であれ、魔術の発動には呪文詠唱が伴う。
自他共に認める天才的な魔術師であるプレラーティのそれは驚嘆すべき速さを誇るが、どんなに短縮されていようと、実際の攻撃力の解放までの時間差は存在する。
たとえ人の身では適わぬ数瞬の見極めでも、闇の獣と化した己の五体と感覚ならば──ましてやこの距離ならば、明らかに魔術がこの身を削ぐより早く、相手の懐に飛び込み、息の根を止める事が出来るはず。

一撃で仕留める──

怒りのままに全神経を励起させ、伏せっていた床を蹴った。
相手は目と鼻の先。外す事など考えられない距離。
神父の唇がおもむろに動く。
だが遅い──!

──獲った。
傷を無視して身体に負荷をかけた。この後、反動で自分はもうまともに動けまい。だが別に構わない。奴を──奴を道ずれに出来るならば……!

骨と骨がぶつかり合い、軋む鈍い音と衝撃が拳に走った。

「な……」
「残念ですね。閣下。
並みの魔術師だったら、今の一撃で命を落としていた事でしょう。
ですが、私は並みの魔術師ではないのです」

プレラーティは涼やかな表情でその掌中に収めた騎士の拳を見やると、

「貴方は『人間の騎士』としては一角の人物かもしれません。しかしながら、私から言わせれば、吸血鬼としての能力は、むしろ下から数えた方が早いくらいなのですよ。
その身を霧や炎に変える事も叶わず、人や獣の心を操る事も出来ない。
これでも私は、今まで他の退魔師が手に負えないような化物共をうんざりするほど相手にしてきたのです。
それとくらべたら……万全の状態の貴方でさえ、脅威には感じない」

言って握ったままの拳に軽く力を込めると、そこを支点として、あっさりと騎士の身体が宙を舞った。

「うっ……」

受身も取れず背中から石畳の上に叩きつけられ、騎士が一瞬息を詰まらせる。
相手が事態に対処出来ぬ間に、神父はどっかりとその上に腰を下ろすと、改めて不届き者の手を取った。

「綺麗な手ですね。剣を取るよりも、絵筆や楽器を持つ方がよくお似合いだ」
「………………ッ!」

ぱきり、と。
何気ない仕種で、中指が折られた。瞬間、延髄を走る痛みに、騎士の全身が痙攣し、力を失った碧い瞳が見開かれる。

「ふうん……これでも悲鳴は上げませんか。育ちが良いのに大したものです。
さぞかし牢番共も甚振り甲斐がなかったでしょうね」

そしてまた、ぽきりと。
造作もなく薬指が同じ要領で動かなくなった。

「っぐ…………!」
「参りましたね……正直、ここまで強情だとは思いませんでした。
では、これで如何です?」

ぶらぶらと、折れて腫れ上がった指を弄んでいたプレラーティの目が妖しい光を帯びた次の瞬間。

「……ッ!ああああああああああッ!」

固く結ばれていた騎士の唇から、とうとうのどが破れそうな悲鳴が上がった。

「そうそう。その声が聞きたかったんですよ。流石に痛かったですか?」

のしかかる相手に対し、嬉しそうに話しかけるプレラーティの手に握られていたはずの騎士の手は──もはや原型を留めておらず、そう大きくはない掌の中で、赤黒い肉塊と化していた。

「お可哀想に……これでもう、剣も槍も握れませんね」

呟き、流れ出た鮮血をうっとりと見つめた後、長い舌で味わうようにぞわりと舐め上げ、神父は恍惚とした表情を浮かべた。

「さあ、閣下。如何致しますか?
貴方の攻撃は私には届かない。
ですが、もしかしたら──五体が満足に回復さえすれば──万に一つの可能性ではありますけれど、一矢報いる事も出来るかもしれません。
急げばまだ右手を取り戻す事が出来ますよ。
その為に必要な糧は、ほら、すぐそこに転がっているではありませんか──」

青白い顔に脂汗を浮かべ、とうとう己の意志では指一本動かす事も叶わなくなった囚われの騎士を、プレラーティはそれだけで飽き足らず、なおも言葉で嬲り続ける。

「──さあ、啜りなさい人の血を。
その口で。その喉で。惨たらしく。誇らしく。
受け入れなさい。己の呪われた性を。
人ならざる者達の祝福を」

既に相手が彼に対して抵抗出来る手段は唯一つ、輝きに不可侵の誇りを秘めた視線のみと知り、神父の嗜虐心はより煽られ、その行為は箍を外してますます増長した。
プレラーティは青年の露になった首筋をゆっくり焦らすように嘗め上げると、尖らせた舌先を耳朶に運び、挿し入れては、気の向くままに弄び始める。

「ふふ……お望みとあらば、口移しして差し上げてもいいんですよ?」

その一方で色艶を失った唇に指先を伸ばしたかと思うと、形にそってやんわりと愛撫した。
騎士の下肢には知らぬ間に蛇のようにプレラーティのそれが絡み付き、欲望を隠そうともしない奔放な腰が繰り返し彼のそれへと擦り付けられる。

「強がるのもいい加減になさい。
たったそれだけの事で苦痛から解放されるのですよ?
貴方にとっての享楽の美酒がすぐ目の前があるのというのに。
何故そこまで拒むのです。
もう楽になりましょう?
それを選ぶ事を責める者など、どこにもいないのですから」

熱い吐息と一緒に甘くかすれた声音で吹き込まれる堕落への誘惑。
だがこのような極限の状況にあっても、神父の言葉は騎士の心胆を挫くには至らなかった。

「……同じ事を何度も言わせるな。
貴様の妄言に従うつもりはない。さっさと殺せ」

冷たく告げると、ここに至るまでずっと神父を睨みつけていた視線をあっさりと外し、覚悟を決めたように騎士は静かに瞳を閉じた。

「………………」

──その行為はすなわち、プレラーティの存在自体を完全に無視すると、そう宣言したも同然であった。
憎まれるのは良い。一向に構わない。むしろ大いに結構である。
強く憎まれれば憎まれるほど、彼の感情の中心に自分は在り続ける事が出来るのだ。
だが無視するというのは──己だけをはるか高みにおいて、この自分を心に留める価値も無いものと決めつけるのは──

「──赦しません」

熱に浮かされていた神父の言葉に、それまでとは違う剣呑な空気──氷刃のごとき怜悧さが篭る。

「そんな事は絶対に、赦しません……!」

──言って、プレラーティは、やおら虜囚の貴人の纏っていた着衣に手をかけ、既にあちこちに解れをきたしていたそれを、魔術で強化された恐ろしい怪力でもって、殆ど一息に破り棄てた。

「な……」

肌が外気に触れる冷たさに、驚きで騎士の目が再び見開かれる。
その視界に入ってきたのは、嘲りと怒りに唇を歪める背徳の魔術師の禍々しい微笑みだった。

「貴方が悪いんですよ閣下……貴方が自分の立場というものを全く理解しようとしないから、こういう事になるのです。
せっかく優しくしてあげようと思っていたのに──
言葉で言い聞かせても分からぬのならば、いいでしょう。
私の機嫌を損ねた報い、思い知りなさい」

「……ッ!」

本能的に己の身に降りかかろうとしている災厄を察知した獲物が、身をよじって縛めから必死に逃れようとする。
しかしそれを鳩尾に容赦のない一撃を加える事であっさりと黙らせ、狩人は不気味な笑みを張り付かせたまま、無防備な脇腹に爪を立てた。

「が……はっ!」
「楽には殺しませんよ。
元より、下級であるとはいえ、吸血鬼である貴方を、『完全に』滅ぼし尽くす事は、魔術師でも難儀な作業ですからねぇ。
貴方のように分からず屋な方には、しっかりと教育をしてあげなければいけないようです。
ですから閣下、今から貴方にはその意思とは関係なく、泣いて叫んでも永遠に安息が訪れない生き地獄を味わって頂きます。
いっそ狂ってしまった方が幸せと思えるような……そう、魔女の釜の底のような毎日をね」

言ってプレラーティは、柔肌に食い込ませた爪をぎりぎりと、切り刻む感触を味わうように、ゆっくりと引いた。
傷口から玉のような血がじわりと滲み出す。
そして組み敷いた青年の身体がのたうつ度、露わになった肌のそこかしこに赤い線が刻まれていった。

「さあ、またあの可愛らしい悲鳴を聞かせて下さいよ。
つまらないじゃないですか」

苦悶に歪む騎士の顔に頬ずりするプレラーティの口元は、淫らな興奮によって震えている。
最早その嗜虐の趣味を諌めるものは誰もいない。生贄を存分に弄り尽くす事が出来る条件が揃った今、彼は最高潮に達したその欲望を速やかに発露させた。

「……うっ!?」

騎士が思わず息を詰まらせ、身体を仰け反らせた。
下肢から凄まじい悪寒が這い上がってくる。何かが最も触れられたくない場所を、更にその奥を目指して押し入ってくる。

──その時彼の脳裏に浮かび上がる一つの光景。
ならず者共に襲われ、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した農村。この時代では良くある出来事だった。
遊び半分で槍や剣で串刺しされる男達。彼等の遺骸の前で家から引きずり出され、犯される女達──同じ人間に、人間が誇りも尊厳もなく殺されていくあの悲劇を止めたくて、大切な者をもう失いたくなくて、剣を握り、この身を戦に捧げたはずなのに──他ならぬ自分が、彼らと同じ暴力の元に屈しようとしている現実に、呆然とした。

「やめ……放…せっ!……」

託し込まれた指が蠢き、ほぐす様に内側へ擦り付けられる。
拒絶する身体が吐き気を催し、そんな自分を嬉々として見つめる不躾な視線を感じるが、どうする事も出来ない。

「……吸血鬼が吸血鬼と呼ばれる所以は、知っての通り、血液を媒介として命と力を吸い上げる事にありますが、別に媒介とするのは何も血液でなくても良いんですよ。
傾向としてその場合が『多い』というだけで、他のものでも代用出きる。あまり知られていない事ですがね。
それが『これ』です」
「………………っ!」

指よりも遥かに凶暴な質量を誇示するものがそこへと捩込まれ、体内を蹂躙される圧迫感と、先程までとは比較にならない苦痛に、騎士が目を剥いた。

「っぐぁ……あっ……!」

自然に逆らう形で無理矢理身体をこじ開けられ、男の性を受け止めきれずに鮮血を滴らせる青年の秘部の様子を見て、うっとりとしながらプレラーティが呟く。

「……ああ、まるで破瓜の血のようですね。
『彼女』も実に綺麗な血を見せてくれましたよ。
『神に遣わされた聖女』という噂は怪しいものですが、とりあえず『処女』であるというのは、紛れも無い真実だったようですね」

貫かれる痛みと嫌悪とに翻弄され散り散りになっていた青年の意識が、神父の一言で、一箇所に集約される。

──今、なんと。

「感じませんか?『彼女』の残り香を──ふふふ──」

問うより早く、神父が愉悦に堪え切れず、狂ったような高笑いを上げながら応える。

「──くくくっ──はははッ!
だからさぁ!テメェの女をヤった男に掘られておっ勃ててる気分はどうだい?騎士様よぉ!?」

青年が鼓膜を叩いたその言葉を理解するのに、わずかだが時間を要した。
頭では直ぐに思い立ったが、心が現実を事実として認めるのを拒んだからだ。

「き……」

そして思考が焦点を得た時、あまりの事に目の前が真っ暗になり──続いて沸き起こった怒りというのも生易しい感情の業火が視界を真っ赤に明滅させた。

「…………き、貴様ぁアアアアアッ!」

端麗な顔を悪鬼の形相と化して吠えかかる青年の首に手をかけ、呼吸の流れを遮ると、神父はとどめとばかりに言葉をたたみかけた。

「かはっ……」
「ああそうさ!生意気なことばかりほざくあの女もこうして奥まで突っ込んでやった!
悔しいよなぁ?哀しいよなぁ?
ひひっ、その無様なツラ、最高ッ!にそそるぜぇええ!!」

もはや言葉もない青年を、僧衣の悪魔が嘲笑う。

「結局テメェがご大層に語る正義や騎士道じゃ何も救えやしねぇんだよ、この童貞野郎。
せいぜい自分の無力と不運を呪いやがれ」

「……っが……あ、ああッ!」

深奥をえぐられ、耐え切れずに青年の整った唇から喘ぎが漏れ、瞳からは涙が零れ落ちる。

一度口火を切ってしまうと、男が中で動く度、意思に反して喉からは勝手に啼き声が流れ出し、相手をいたずらに悦ばせるだけのそれを必死に噛み殺そうとすればする程、己のものとは俄かに信じ難い甘ったるい声が頭蓋に反響する。
また時間の経過と共に、辛うじて正気を保たせている痛みすら、ぞくぞくするような快感へとすり代わってゆく感覚が、より彼を絶望させた。

いくら騎士が乞おうとも、もはや肉を抉る速駆けも、それによって己の身体が拓かれてゆくのも止められない。

「──ああ、とても良い表情になってきましたね。
淫らで惨めったらしくて、実によくお似合いですよ。
では、愉しませてくれたご褒美をさしあげましょうか」

俄かに中を磨り上げる動きが激しくなり、耳元で獣が歓喜の叫びを上げるのを聞いた刹那、最後の誇りすら打ち砕かれた青年もまた、おぞましい熱が形を得て迸るのを感じつつ、これ以上ないほどの屈辱と未知の感覚に脳髄を灼かれながら意識を手放していた。

 

◆◆◆

 
……騎士が再び意識を取り戻した時、身支度を整えた悪魔が何事もなかったように背を向けて、牢を出て行こうとするのが、完全に視力を取り戻した『両目』に映っていた。
見れば、砕かれた拳も完全ではないがその機能を復元しつつある。
ただ、鈍痛が走る腰と、擦れた呻き声しか発さない喉は遺憾ともしがたく、厭が応にもこの身に起こった出来事を思い知らせた。

背後で衣擦れの音を察した神父が、涼しい顔で振り返る。

「自分で言うのも何ですが、極上の魔力が詰まった精です。
見た目の傷はだいたい回復出来たようですが……体力的にはまだ厳しいようですね。
それではこれからは趣向を変えて、好き者を毎日二、三人あてがって差し上げる事に致しましょう。
上手く彼らに媚を売って、沢山注いでもらう事です。
ああ、大丈夫。
心配しなくても貴方、充分その『素養』はありますよ──初心であれだけ乱れるなんて。この賢者気取りの淫売が。
今からどれだけ堕ちていくのか楽しみで仕方がないですねぇ。はははははッ!」

蒼褪めたまま、何も言い返す事が出来ない青年をそのまま残して、来た時同様、軽い足取りでプレラーティは光がさす世界へ戻っていった。

「……ジャンヌ……あ……ああ……」

──今度こそ本当に唯一人、暗い闇の中に取り残された騎士はしばし自失の状態にあったが、

「……あああああああああああああああッ!」

静寂に己の呼気以外、何の気配も感じられなくなると、全てを賭しても救えなかった少女の命に慟哭した。

 

 

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