在りし日の血の絆
「将軍……将軍はどちらに……?」
血の臭いが鼻につく陣内において、およそ場違いとしか思えない可憐な声が、徐々に軍団の士気を高める御使いの加護として定着しつつあった頃。
その声の主は進軍に際して自らに与えられた副官である騎士……彼こそ実質的な部隊指揮官である……の姿を求めて、砦の中を彷徨っていた。
「乙女よ、如何されましたかな?」
いずこから迷い込んだ天使かという風情の少女を認めて、人懐っこい笑みを浮かべた赤毛の巨漢がほっそりとした背中に向って声をかける。
「隊長。将軍の姿が見当たらないので探していたのです。
隊長はご存知ですか?」
「ん?男爵ですかい?あの御仁が戦の後、ふらっといなくなるのは何時もの事じゃないですか」
「そうですが……あの方は負傷されていたのです。
なのに……」
気がついたらもう姿が見えなくなってしまっていて、と柳眉を寄せ、溜息をつく少女に、
「それこそ心配無用というものですよ」
気安く『隊長』と呼ばれた巨漢は言う。
「ああ見えても男爵は我等がフランスの誇る勇将です。矢の一、二本刺さったところで死にやしませんて。
次の戦いが始まる頃には、きっとまたあの腹が立つ程涼しい顔で御前に戻ってきますよ」
まったくシャクですがなぁ……と、殊更明るく言い切り、華奢な肩を叩く傭兵隊長に対し、乙女の横顔は相変わらず冴えない。
「あれは手当てを受けずに放っておけるような傷ではありませんでした……」
沈痛な面持ちで語る声は、今にも泣き出してしまいそうなほど、語尾が震えていている。
その場から立ち去ろうとしていた巨漢が驚いて振り返った。
自分達の旗印である少女がここまで弱気を見せる事などなかったからだ。
「それは間近で見ていた私が、一番よく知っています……!」
「…………」
……先の戦で件の男爵が少女を庇ってらしくもない傷を負ったのは、他ならぬ本人から聞いている。そして傷の状態もまた彼は確認していた。
あれは普通だったらそのまま落命していても何ら不思議ではない深手だった。
少女が不安になるのも頷けるというものである。実際、砦に帰着した直後に見た騎士の顔は、血の気を失い、死者のように青ざめていた。
しかしそれでも、『あの』男爵に限って死ぬ事はないだろう。
そう断言出来るのだ。
彼は死なない。否、死ねない、とうべきか。
とは言え、詳しい事情を知らない少女に、いくら頭ごなしに言い聞かせたところで、納得してくれ、という方が無理な相談だろう。
いくら隠し通そうとしたところで、すぐ近くにいるのだ。どうせこの先、今日と似たような事態になる可能性はいくらでも考えられる。巨漢は腹を括った。
「……わかりました。
男爵から固く止められていたんですが、乙女が心配なさるのも無理はない。どうかあのカッコつけに『無体な真似はするな』と直接言い聞かせてやって下さい」
◆◆◆
砦の北端……人気のない奥まった場所。
松明の明かりも少ない心寂しい暗がりの中、木の幹に背を預け、静かに長身を横たえている甲冑姿の青年の影が浮かび上がる。
精緻な細工が施された剣帯や、金糸の縫い取りのある絹の直垂は染め色も鮮やかで、王家すら凌ぐと言われる大貴族の富の証としては存分なものである。
それにしても若い。今年で確か24になるらしいが……見た目は横に並ぶ少女とそう変わらないように思える。極めて端正な横顔は未だ少年の面影を残したまま、その時を留めていた。
閉じられた目蓋はぴくりとも動かず、照り返す炎の下ですら白い肌のせいで、思わず『万が一』の事態を連想してしまうが、薄く開いた唇から漏れ出る呼気が規則正しく青みがかった黒髪を揺らしている様子を見るに、冥府の女王は今のところこの世にも美しい騎士を自らの宮殿へ迎える気を起こさないでいてくれているらしい。
「おい。生きているか?男爵」
息をつめたままでいる少女に代わって、さも大した事ではないように、巨漢は勤めてぞんざいな調子で声をかける。
「……エチエンヌ殿か。如何した」
永遠に開く事がないように思えた目蓋が、ゆっくりと開いていく。
少女は安堵したが、それもつかの間。
「……何故」
場の空気が凍りつく。
本来そこに居てはならない人物を認めて、途端、騎士の切れ長の瞳が大きく見開かれた。
「何故……ここにお連れした!?」
「だからその名前で呼ぶのはやめろ」とげんなりした顔でうそぶく傭兵隊長の言葉など全く耳に入らない様子で、騎士は鋭い口調で同僚に迫る。
「そうは言うけどなぁ……男爵。実際無理なんだって。仮に今日騙し通せたって、戦いがこのまま続けばいずれはボロが出る。
だったら、素直に吐いておいた方がいい。
そうすれば、お互い余計な心配をしないで済むだろ?」
「それは……!」
「それとも何か?どこの馬の骨とも知れない村娘の事なんざ、信用出来ないかね?」
「……そんな事は無い!……だが……」
騎士は自分の顔から目を離せないまま、居心地が悪そうにその場の成り行きを見守っている少女と、いたって悪びれの無い表情でいる巨漢の傭兵隊長の顔を心底困ったようにしばし見比べていたが、やがて観念したのか、少女の方へ向き直ると、どこか自嘲気味な笑みを唇の端にのせて切り出した。
「……この瞳に驚いているのですか?」
穏やかな問いかけに、少女が無言で小さく頷く。
微笑む彼の瞳の色は、常の深い碧ではなく、今はその身体中から血の色を集めたかのような紅の光を弾いていた。視線を交わすのが一瞬であれば、松明の炎が映り込んでいるように見えなくもないが、しばらく見ればそうでない事がすぐに分かる。
おそらく今の彼の瞳は全く光のない暗がりでも、自ら光を発している事だろう。ちょうど人の手が入らない森を闊歩する獣のように。それは禍々しくも不思議と惹きつけられる、魔性の灯火だった。
「無理もありません。あの荒々しいイングランド兵達ですら、私と目を合わせると怖気づき、手元を狂わせ、酷い者は剣も交えずに本陣へ逃げ帰ろうとするのですから。
……それだけ、人ならざる者の気配というのは、本能に訴えるものがあるのでしょう」
「何を……何をおっしゃっているのですか?将軍」
戸惑いを隠せない少女に対する態度はあくまでも優しく礼に適ったものであったが、その実、騎士の言葉の一つ一つには、有無を言わさぬ固さがあった。
「貴女ほどではありませんが、この私も敵兵にはそれなりに名が知られているのですよ……貴女も聞いた事はあるでしょう?【フランスの悪魔】、【騎士の姿をした怪物】と彼らが私を呼んでいるのを」
【悪魔】……確かに騎士の武勇を恐れる敵が、彼を戦場でそう罵るのを聞いた事は、確かに一度や二度ではない。
だが、それはあくまでも人並み外れたその実力を例えての話であって、王太子の信頼も厚いれっきとしたフランス貴族である彼が本当に化物であるはずがない。
そうであるはずがない……のだが。
「彼らの言葉は、あながち無責任な出任せでもないのです……実際、私は人間ではないのですから。
私は『帰参者(レブナント)』──人の血と魂を吸い尽くす吸血鬼です」
失血の為の意識の混濁、錯乱……そう言い切るには、余りにも彼の言葉は静かでさりげなく……本当にいつも通り、何くれと自分の世話を焼いてくれる時とまるで同じで……だからこそ、重く少女の心に沈み込んだ。
「そんな……」
「……私が10になる頃、アザンクールで父と叔父が倒れ……続いて母も失いました。幼かった私と弟は母方の祖父に預けられ……その保護という名の束縛の下、ままならぬ人の世の虚しさを味わってきました。
貴人達が安全な王宮で退屈を持て余す中、本来争いとは関係のない、無辜の民が死んでいく……そんな世界において他の多くの人はどこにおわすともわからぬ天の主に救いを求めましたが、私はもっと即物的な手段に頼る事にしたのです。
祈りが届かぬならば、祈る時間に一人でも我が民に仇なす敵を打ち倒し、乱世から平穏を取り戻す力を。
そして、いかな研鑽、知識を持ってしても、人の身では超えられぬ壁があると、この無慈悲な戦場で思い知らされた時……私は人の身を捨てました。
それがちょうど今から5年前……19で私の魂は人ならざる者の側に委ねられる事になったのです。その時から、私の中の時間は留まり……こうして剣で滅びぬ身となりました」
青年が無造作に外した甲冑の下の傷は既に塞がっており、直垂まで滴るように染みこんだ血の跡さえなければ、負傷したという事実そのものが信じられない状態にまで完治していた。
「……ただ、過ぎた力を持つ以上、代償は払わねばなりません。
矢傷程度ならば、どうという事はないのですが、今回は少々深手だった為に大分血を失ってしまったようです。
『力』を発揮すればした分だけ、我が身は飢え、血を欲するのです……人の、生き血を」
今度こそ、本当に少女は言葉を失った。
その様子に騎士もまた居た堪れなくなったのか、視線を外し、俯く。しかし寛げた胸元を整えつつも、決して言葉は止めない。
「……他の如何なるものもこの渇きを癒す事は適わない。私が生き永らえるには、他者の命を啜るしか方法が無い。
いずれ、甘んじて報いは受けるつもりです。ですが、その時までは必ずや貴女を守り、フランスに勝利を齎すと誓いましょう」
「………………」
何とも気まずく、長い沈黙がその場を支配した。
重苦しい空気にいよいよ居た堪れなくなったのか、二人のやりとりを見守っていた巨漢が、少女に自分の寝所へ戻るよう促そうとした、その時。
「……な」
少女が空いたもう一方の手を徐に剣の柄へとかけるのに気がつき、騎士は眉を顰め、抜かれた刃がほっそりとした手首にあてがわれる様に、いよいよ驚きに目を見開いた。
「何をなさろうとしているのです!」
そろりと引かれようとした剣を慌てて押さえ込み、叱責の声を上げる。
「心配なさらずとも加減はします!
血が必要なのでしょう?だったら私の血を──」
「だからと言って御身が傷つけば本末転倒ではありませんか!
このまま大人しくしていれば、朝には体力も持ち直します!それでも渇きを覚えたら戦の中でイングランド兵を打ち倒し、その返り血を浴びれば済む事です!
それに今下手に血を与えられてしまっては、私は自制が効かなくなってしまう──」
「そんな状態で本当に戦えるというのですか!?
『戦には常に万全の備えをして挑め』と私に教えて下さったのは他ならぬ貴方ではありませんか!」
「それとこれとは違う!」
「何も違いません!
だったら将軍!貴方はこの戦が終わったら一体どうして生きていくつもりなのですか!?平和な世界でどうやって糧を得ていくつもりなのですか!?」
「──この命を絶ちます」
「…………!」
あっさりと……ごく当たり前の予定を伝えるように、迷いもなく騎士は言い切った。
「治世の中において呪われた我が身は最早不要の存在。するべき事をすませたら、私はこの世界から去るでしょう」
「…………」
「……祖父が欲しいのは富と名誉だけ。私はそれを手にするための手段の一つでしかありません。
いなくなったとて……実際、どうという事はないのですよ」
「ですが……奥方様がいらっしゃるのでしょう?
きっと悲しまれます」
「……妻は……私を憎みこそすれ、愛してはいないでしょう……彼女との結婚は、祖父がその領地欲しさに司祭を脅して無理矢理認めさせた形だけのものでしたから」
「…………」
「そんなお顔をされないで下さい。
この戦いに勝利する事さえ出来れば……そして貴女を故郷へ無事送り届ける事さえ出来れば、私はきっと幸せに逝く事が出来ます。
たとえそこが地獄であっても」
「将……軍……」
余りにも悲愴な騎士の決意に、胸が張り裂けそうだった。
ここまで──
ここまでして戦って。戦い抜いて。
手に入れた平穏を享受する事もなく、この人はあくまでも自分を殺してしまうつもりなのだ。
「……隊長は……以前からご存知だったのですか?」
内の動揺を押し殺した声で、少女が傍らに控える巨漢に尋ねた。
「え?……ええ、まあ……これでも男爵とは長い付き合いになりますので」
「そうですか……
わかりました。少しの間、席を外して頂けますか?」
少女の言葉に、巨漢がらしくもなく戸惑った様子で、若い騎士の表情を伺う。
数少ない理解者を安心させるように騎士が頷くと、傭兵隊長は若い二人を気にしつつも、その場を後にした。
◆◆◆
巨漢の背中が完全に闇に紛れる頃、少女は再び重い口を開いた。
「……どうして……今までお話してくれなかったのですか」
「その必要はない、そう判断していました」
「他の皆さんは……アランソン公やデュノワ伯は……」
「無論、知らないはずです。
むしろエチエンヌ殿……【ラ・イール】隊長が数少ない例外なのです。
確かにアランソン公やデュノワ伯は信頼に足る人物ですが……彼らに繋がる全ての人物がそうであるかと言えば、そうと言い切れないのもまた事実なのです」
彼が言わんとしている事は漠然とではあるが少女にも理解出来た。宮廷は華やかな外見とは裏腹に、権謀策術渦巻く魔窟とも言える場所だ。それ象徴するような人物の顔を幾人か思い出し、少女は表情を曇らせた。
「それに貴女に限って言えば……ただ恐ろしかったのです」
「恐ろしい……?」
この敵軍から【悪魔】とまで言われる猛将が?
一体何を恐れるというのだろう。
「問いかけに問いで答える無礼をお許し下さい。
貴女は実際、恐ろしくないのですか……?
否、忌まわしいとは感じないのですか?
血に飢え、魂の渇きを癒す為に敵を屠り、その返り血を浴びる事で獣のように瞳を輝かせる、騎士とは名ばかりの亡者を」
男爵の瞳は相変わらず渇望の炎を宿したままだ。しかし、その炎の中にそれとは違うものが揺らめく様を見て取って、少女は柔らかに否定の意を示した。
「そんなはずはありません……私は貴方に感謝する事こそあれ、忌まわしいなどと思う理由など、あるはずがないでしょう?」
騎士の冷え切った手を……自らの窮地を何度となく救ったその手を取って、【聖女】と呼ばれる少女はその通り名そのものである慈母のような微笑みを浮かべた。
「……乙女」
「それに、貴方がそのような身体になったのも、全ては国と民を思うが為。
自らの身を賭して尽くす者を、神が見捨てるはずがありません」
祈るように、悼むように。全てを包み込むように。
彼と、彼の中に集う救われえぬ魂達に向かって、少女がその力を解放する。
──生きて。
──あなたは生きなければいけない人だから。
──何故、そんなに死ねないはずの身体で死に急ごうとするのですか?
少女の内から放たれる聖性によって、騎士の身体を支配し、闘争へと昂ぶらせていた異形の力が宥められ、血の輝きを発していた瞳が、彼本来の新緑が映り込む湖水の色を思い起こさせる青みがかった碧へと戻っていく。
「ありがとうございます。おかげで大分……楽になりました」
少女の手の温もりと縋る様な視線に、ようやく騎士の表情は穏やかなものになった。
大きく一息吐くと、騎士は柔らかな微笑みをその美貌に浮かべ、彼女に言った。
「乙女……いいえ、ジャンヌ」
「…………?」
少女が蒼い瞳を見開く。
それは、これまで他の者達が気軽にその名を呼ぶようになっても、頑なに彼女に対する礼を崩さなかった彼が、初めて少女の名を口にした瞬間だった。
「貴女に会えて、本当に良かった」
「………………
私も同じ気持ちです……」
その時。
少女は改めて、自分の中に一つの答えがはっきりと導き出されてしまった事に、気が付いてしまった。
──ああ、だめだ。やはり私はこの人のことを。
「夜も大分更けました……貴女もお疲れでしょう。
もう休んだ方がいい」
「でしたら……せめてお側にいさせて下さい」
少女の言葉に、騎士は一瞬驚いた表情を見せたが、
「……ええ。
ですが、くれぐれももう剣には触れないで下さいね」
そのまま彼女が自らの傍らに寄り添うのを許したのだった。
「はい」
喜びと悲しみと相反する感情に、その心を震わせながら少女は騎士に微笑み返す。
──恋など望むべくもない身であるのに。私は決して愛してはいけない人を愛してしまった。
◆◆◆
星明りだけが、二つの気高くも悲しい命達を見守る中。
どうしようもない己の無力を感じつつ、少女は騎士の隣で眠りについた。
その身が呪われて尚、誇りを失わない騎士の魂にいつか心からの安息が訪れる事を祈りつつ──