還り着く場所(6)
──名前を呼ぶようになったのは、自分の方が先だった。
「みなさん私の事を『乙女』や『聖女様』と呼んで下さいますけど、ただの『ジャンヌ』で結構ですよ」
言われて、真っ先に応じたのはアランソン公だったろうか。
以来、少女のごく近くにいた幕僚の何人かは、『救国の聖女』である彼女に対し、親しみを込めて「ジャンヌ」と、その名で直接呼ぶ事が多くなっていった。
とはいえ、これを機に畏れ多くも神の使いである彼女を軽んずる風潮が出てもらっても困る。
オルレアン方面に派遣された軍の総責任者であり、いわば王家の代表として戦場に赴いているアランソン公はともかく、他の騎士や傭兵達があまり馴れ馴れしく少女に接する機会を与えるべきではない。そう判断したジルやラ・イールは、公の場ではあくまでも慇懃に『乙女』『我らが聖女』と彼女を敬い、宮廷の貴婦人に対するような姿勢を保ち続けていた──もっとも傭兵隊長の方は他人の目が無くなると、途端に『娘っ子』呼ばわりだったが。
そんな二人にジャンヌ自身は不満そうだったが、理解してもらうしかない。全ては彼女を護り、フランスを勝利に導く為で、その大義名分の前では、個人の持つ感情や希望が入る余地はないのだ。
しかしながら──ジルの場合、この大義名分は、己の中に芽生えつつある不可解な衝動を制御する良い言い訳にもなっていた。
──少女をその『個』の名前で呼んでしまったら、自分の中の何かが崩れてしまうかもしれない。そんな説明出来ない不安があったのだ。
◆◆◆
ところが。
そんなある時、冷静沈着で知られる男爵はらしくもなく、心乱された隙をイングランド側につかれて負傷した。
戦場に出た御使いたる乙女が、猛将の名を欲しいままにする彼ですら及びもつかぬ猪突猛進ぶりで、一人、敵兵の矢面に立つのを見てしまったからだ。
軍旗を掲げ、兵士達を鼓舞する事に夢中の少女は、自らを狙う射手の存在に気付いていない。
声を出すよりも先に、身体が動いた。
矢が風を切る音。
彼らにとっては悪夢を連れてきた魔女に他ならない少女に向かって、次々と躍りかかるイングランドの将兵達。
──馬鹿な、こんなところで彼女を失ってなるものか。
お前達になど、指一本、触れさせはしない──!
絹を裂くような悲鳴が上がった。
少女の前に飛び出したフランスの若い将軍の左胸に、鎧通しの矢が、深々と突き刺さっていた。
甲冑の下、生暖かいものが染み出して肌の上を伝い、広がっていくのが分かった。
大丈夫──目を見開いたまま立ち尽くしている少女に声をかけようとするが、喉元をせり上がってくるものが邪魔をして、言葉が出ない。
「──っ!」
凄まじい怒気と鮮血を吐きながら振り返る敵将へ、イングランドの弓兵は次の矢を射る。
どうせ致命傷だ。もう人質の用は足さない。ならば『アルマニャックの売女』共々、討ち倒して名を上げよう。そんなところか。
太腿へ、肩口へと続けて矢が吸い込まれる。青年の長身が仰け反った。耳障りな罵倒や快哉の声と共に、傷ついた騎士と少女に殺意が押し寄せる。
だが──とらせはしない。
まだ自分も彼女もここで果てるつもりはない──
ジルの身体に烈気が漲る。
悲鳴を上げるのは、イングランド兵の番だった。
瀕死の騎士の瞳が血の色に輝いたかと思った次の瞬間、何も知らずに躍りかかってきた兵士達は、次々と身体の一部を削ぎ落とされて、地面に転がっていた。
剣を構える青年以外、彼らの身に何が起こったのか、理解し得た者はいなかった。
まさに、何かの魔術としか思えないような、俄かには信じがたい光景だった。
そこからの展開は一方的だった。
突如現れた得体の知れない『怪物』の恐怖に、本能から凍りつくイングランド兵。
一瞬の躊躇。逃げるなら早く逃げればよいものを。
うっすらと蒼白の美貌に浮かびあがる表情。向かい合う者を怖気立たせるのに充分過ぎる凄絶な笑みだった。
恐怖を打ち払うように、イングランド兵は再び雄叫びを上げ、剣を振りかぶる。
しかし、もう遅い。
彼の剣はそのまま彼の祈りである。その真摯さにおいて右に出る者はいない。
白刃が空気を斬り裂き、哀れな獲物に葬送の舞踏を刻む。
断末魔を上げる暇すら与えられず、野鳥に啄ばまれる死体がさらに増えた。
「ひっ……」
恐慌状態に陥った敵兵が足を取られて仲間の遺体の上に突っ伏する。
異様な気配を纏って立ちはだかる騎士に、傭兵や下級の騎士は蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出し始めたが、それでも彼らを率いる立場の将ともなると、意地もあるのだろう。黒髪の美しい死神に、それでもなお、剣を構える者もいる。
だが、勇敢なるものであろうと、臆病なものであろうと、騎士の剣が彼らに与えるものは常に平等だった。
「やっぱりこいつらは魔女──」
切結ぶ間もなく剣を弾き飛ばされ、恐怖に引きつった男の胸元に、稲妻のような尖突が閃く。
易々と胸板を突き破った剣先は、その言葉と命とを永久に絶えさせた。
「──乙女よ」
騎士の喉にようやく声が戻る。
感情を押し殺した、低く、かすれた声。
「あまりにも突出し過ぎです。ここは一度退却を」
紡がれた言葉に、蒼褪めた少女がこくこくと頷く。
邪魔な矢尻をへし折りながら、聖女を気遣う騎士の瞳は、なおも不吉な紅い光を放っている。
自分を見る少女の瞳に怯えの気配を感じ取って、ジルは思わず目を伏せた。
その後も、陣羽織を血で染め上げた幽鬼のような騎士に抱えられたジャンヌは、彼の耳元でずっと涙声で「ごめんなさい、ごめんなさい……」と繰り返していた。
ジルは唇を噛んだ。
もはや取り返しのつかぬ失態だった。
乙女をむざむざ危険に晒し、あまつさえ、その目の前で明らかに致命傷と分かる傷を負い、妖魔の力を使うところを見られてしまった。
ただ、力を使うだけならどうという事は無かった。だが今は一時に大量の失血をした事で、彼の意志とは関係なく、その身を気が遠くなるほどの吸血衝動が支配しつつあった。
薄れゆく人の意識に変わって、魔物の本能が急速にその存在を主張し始める。
このまま、抗う意志を放棄してしまえば、腕の中の少女に貪りつき、その魂ごとを全身の血液を吸い上げてしまうだろう。
今も無防備に晒されるその白い項に、贄の証を刻もうと、大きく開きそうになる咢を、ジルは最後の力で必死に抑え、長く伸びた牙で己の唇を食い破り、新たな血をにじませていた。
「──将軍」
ああ、そんな目で私を見ないでくれ。
貴方にだけは──貴方にだけはこんな姿を見られたくなかったのに。
苦悩に美貌を歪ませたまま、それでも聖女の騎士は手綱捌きも鮮やかに愛馬を疾駆させると、合流した副官に乙女を託す。
そして、物言いたげな彼女を残し、一人、あやかしの力を帯びた勇将はその本能が命ずる勢いのまま、前線へと舞い戻る。
戦わなければおさまらなかった。
この自分に失態を演じさせたイングランド兵に対する怒りと、血への渇望が、彼を荒れ狂わせ、その身を死の嵐と化した。
殺しても殺しても殺したりぬ。
誰か自分を止めてくれ。
──結局、イングランド側が撤退を始めるまで、騎士は聖女の下へは帰らなかった。
◆◆◆
「後は任せる──もう私は御終いだ」
幕舎に戻った後も、ジルはそう傭兵隊長へ一言告げると、彼の姿を認めたジャンヌが何か言葉を発するより先に、すぐに彼らへ背を向け、天幕を潜った。
合わせる顔などあるはずもない。自分が酷く惨めで情けなかった。
しかし、少女は決して彼を諦めたり蔑んだりはしなかった。
怯えていたのはジルの方だった。
「貴女は実際、恐ろしくないのですか……?
否、忌まわしいとは感じないのですか?
血に飢え、魂の渇きを癒す為に敵を屠り、その返り血を浴びる事で獣のように瞳を輝かせる、騎士とは名ばかりの亡者を」
全てを告白した後、渇望の炎を宿したままの瞳で、彼を追ってきた聖女にジルは問うた。
「そんなはずはありません……私は貴方に感謝する事こそあれ、忌まわしいなどと思う理由など、あるはずがないでしょう?」
ジャンヌは穏やかに否定の意を示すと、騎士の冷え切った手を取り、胸の前で掲げながら、彼女の通り名そのものである慈母のような微笑みを浮かべた。
「……乙女」
「それに、貴方がそのような身体になったのも、全ては国と民を思うが為。
自らの身を賭して尽くす者を、神が見捨てるはずがありません」
温かな気配が、指先から伝わり、騎士の身体を包み込んでいく。
それは母の胎内に還ったような、言葉に出来ぬ安堵感があった。
彼女の放つ聖性によって、ジルの身体を支配し、闘争へと昂ぶらせていた異形の力が宥められ、人と魔性の狭間で彼を苛んでいた苦痛が和らいでいく。
波がひいていくように血の渇きが治まっていくのが分かる。まるでその救われ得ぬ魂ごと癒されていくようだった。
──ああ、彼女はこんな私でも、まだ『戦友』として──『人間』として見てくれるのか。
少女の労りの気持ちに気付いたと同時に、ジルの脳裏に閃くものがあった。
そうか。彼女もまた、自分を『聖女』ではなく、一個の人間として接して欲しかったのかもしれない。
「乙女……いいえ、ジャンヌ」
気が付くと、ごく自然にその名を呼んでいた。
「…………?」
「貴女に会えて、本当に良かった」
「……私も同じ気持ちです……」
この戦いを経てまた、ジルの中で少女の存在は、特別なものになった。
◆◆◆
しかし、自らの事は気軽に呼び捨ててくれて構わないと言うジャンヌではあったが、ジルが少女をその名で呼ぶようになっても、彼女の青年に対しての呼称は相変わらず『男爵様』『将軍閣下』のままだった。
だからジルは尋ねたのだ。
戴冠式を無事終えた後、ちょうど二人きりなった聖堂の中庭で。
一時に大勢の貴賓が集い、古くからの伝統に則って行われた厳かな儀式だった。さすがに緊張したのだろう。どことなく頼りない足取りで愛する少女が傍らにやって来るのを認めると、ジルはふらついて倒れそうになったジャンヌの身体を、慣れた手つきで素早く抱き留めた。
「大丈夫ですか?ジャンヌ」
「……ええ。大丈夫です。
あれほど立派な式典になるとは思っていなくて……ちょっとびっくりしてしまっただけです」
気遣いのこもった深い碧の瞳に、今や国の英雄となった『オルレアンの聖女』こと、ジャンヌ=ダルクは照れたように微笑んだ。
しかし言葉とは裏腹に、その顔色はお世辞にも良いとは言い難いものだ。
いくら『聖女』、『救世主』と誉めそやされても、彼女は元々貴族でも騎士でもない、ただの村娘に過ぎない。自分のような人の皮を被った化物とはわけが違う。
村娘にしては、そこいらの貴族の娘よりよほど度胸も気品も備わっていたが、ジルにとっては、初めて出会った時から、その身に圧倒的な神秘を感じつつも、あくまで彼女は庇護すべき対象であり──凍えて冷え切った心に甘やかな『幸福』とも言える感情を齎してくれる存在だった。
それを多くの人が『恋』と呼ぶものだと、最初に自覚したのはいつだったか。
──否、本当は出会ったあの瞬間から、自分は彼女に恋していたのかもしれない。
「御身は既に貴女だけのものではないのです。
このところあまり体調が優れないご様子。
無理をなさいますな」
「ふふ、貴方の目は誤魔化せませんね。将軍。
……いいえ、もう元帥閣下でしたね。ごめんなさい」
オルレアン開放の功績により、名将アルテュール=リッシュモンが退いたままになっていたその地位へ、25歳の誕生日を待たずして身を置く事になった戦友を、聖女は柔らかく目を細め、誇らしげな微笑みで祝う。
彼女の忠実なる騎士であるジルは、これに小さく頭を振った。
「私がこのような身に余る栄光を得る事が出来たのも、全てはジャンヌ、貴女のおかげです。
貴女とて、それだけの労を称えられる資格はあるのですよ?
いくら貴女が平民の出身であろうと、陛下も軍功目覚しい臣下に対しては、相応の処遇をされるでしょう」
「でも、私は別に……そのようなものが欲しくて戦いに参加していたわけではありませんし……」
この言葉に、ジルは彼にしては珍しく、おどけたように肩をすくめてみせた。
「それを言うなら、私とて、別に元帥になりたくて戦っていたわけではありませんよ。
今も『元帥』と呼ばれても自分の事だとはまるで思えませんしね。
どうせ貴女に呼んで頂けるなら、よほど名前で呼んで頂けた方が嬉しいです」
「え?」
「こんなところで恨み言も何ですが……お付のドーロンやレイモン、ルイは名前で呼んで下さるのに、私だけは貴女に名前で呼んで頂いた事が一度もないのです。
私はこれでも、貴女にとっては身近な──それなりに『特別な人間』になれたのではないかと自負していたのですが……それはただの自惚れだったのでしょうか?」
何やら戸惑う少女の顔を覗き込みながら、大真面目な顔で睨んでみる。そんな元帥からの抗議に、何故かジャンヌは酷く慌てた様子で、頬をうっすら赤らめながら、
「そ、そうですか?
あ、いえ、その……別に私にとってルイ達の方が特別だからとかそういうわけではなくて……ただ男爵様にはくれぐれもご無礼がないようにと思っての事だったのですが……えーと……」
頭一つ分よりも高い位置から見下ろしてくる彼に向って、心底申し訳なさそうな上目遣いで訴える。
「……すみませんでした、ジル」
ぽつりとこぼした後、彼女は今度こそ耳まで真っ赤になった。
「いやだわ私……!
ごめんなさい!元帥!けっして!けっしてそんなつもりでは……!」
騎士の位すら持たない、身分はあくまでも『田舎から出てきた農民の娘』に過ぎない自分が、貴族である青年を敬称すら付けずに呼び捨てる事の不自然さに気が付いたのだろう。
だが、ジルが彼女の口から出た響きに感じたものは、まったく別だった。
その場を必死に取り繕うとする少女の様子に、冷淡な態度を保っていたジルだったが、とうとう堪えきれずに吹き出した。
「……貴女でもそんなお顔をされる事はあるのですね」
笑い過ぎてこぼれ出した涙をぬぐいつつ、相手を安心させるように、くしゃりと色素の薄い髪を撫でてやる。
「貴女がそうお呼びになりたいのであれば、別に私はいっこうに構いませんよ? 私も貴女を『乙女』ではなく、こうしてジャンヌと呼ばせて頂いているのですからね。
それに実際、その方がより嬉しいですし」
それは紛れもない青年の本音だった。
彼女が口にするだけで、ありふれた自分の名前すら、何か神聖なものに感じられた。
「本当に……?」
「聖女に嘘はつけませんよ。
ただ、アランソン公達の目が気になるのであれば、その時はこれまで通り『男爵』でも結構ですので。
二人だけの時は、どうぞお気軽に呼び捨てて下さい」
どこか口調が弾んでくるのを抑えられないジルの一言に対し、
「……お気軽になんて無理です。
……だって私……」
「いかがされましたか?」
何やらもごもごと口篭るジャンヌに、相変わらず遠慮なく整った顔を近づけてくる少年のような元帥。
「……なんでもありません!」
肩をいからせ、ぷいっと上気させた顔を背ける彼女を見て、そういった駆け引きの機微に疎いジルはわけが分からず、その時は怪訝な顔をするしかなかった。
◆◆◆
……しかし、今になって考えれば……
宿舎として与えられた部屋に戻り、寝台に長身を投げ出して天井を見上げながら、ジルは思う。
ジャンヌは私を意識していたからこそ、軽々しく名を口にすることが出来なかったのだろう。もし、その名で青年を呼んでしまえば、彼女が幕僚の中でも男爵を男として特別な感情で見ていると知れ渡ってしまうから。そして、それをジルが特に気にすることなく受け止めてしまえば、尚の事、二人の関係が只ならぬものであると公言するようなものだ。
公平性の欠如は、戦いにおいて、司令官の判断を鈍らせ、兵士達の士気を下げる。
彼女もそれを理解していた。ゆえに、戴冠式を無事行うまでは、フランスの為の聖女であり続けたのだ。
でも、これからは──
ラ・イールの話では、随分前から乙女は彼女の忠実なる騎士である男爵へと、戦友に対するもの以上の感情を寄せていたらしい。それは乙女の側で直接彼女の世話を焼いていた従者であるドーロンや、あまつさえ恋敵に当たるであろうアランソン公でさえ気付いていたという。身近にいて知らぬはジルばかりだったというわけだ。
だって仕方がないじゃないか。
人として人に惹かれるなど、ずっと自分にはありえないと思っていたのだから。
ラ・イールはこうも言った。
「どうせ奥方は弟とよろしくやってるんだろ?
だったらお前さんだって負い目を感じる事は無いさ。
領地の為に近親婚を押し通した爺様だ。
案外、聖女様がお前さんの息子を身ごもれば、悪いようにはしないかもしれないぜ?」
いくらなんでも都合が良過ぎる──だが、あの祖父ならあり得ない話でもない。
実際、嫡子の問題など、この時代、金さえ積めば教会に認めさせるのは決して不可能な事ではなかった。それは貴族であれば公では口にしないものの、みな知っている話だった。
何よりジル自身、あまりに父にも母にも似ていない自分に、ひょっとしたら自分は貰われ子なのではないのか……と悩んだ事があったからだ。
愛する女性と息子を挟んでの生活……どんなに幸せな時間だろう。
幼子を抱きながら微笑む、美しく成長した少女の姿を夢想しかけて、すっかり舞い上がってしまっている自分にジルは頭を抱えた。
自分が彼女を愛していて、またそんな彼女も自分を好いてくれていると分かってしまうと、何ともこそばゆいというか、本当に明日からどんな顔をして皆と向き合えばいいのか、果たしてこんな調子でまともに軍人としての仕事がこなせるのか、あれこれ不安になり、どうにも落ち着かなくなってくる。
ただ、それ以上に、今のジルの中にどうしようもなく湧き上がってくるのは、歓びの感情に他ならない。
常に気を引き締めていないと、知らず頬や目元が緩んできてしまうのが分かる。女を目にすれば声をかけずにはいられない、そんな調子の良い男達に冷ややかな視線を送っていたものだが、まさかこんなだらしがない状態に自分がなってしまうとは……
戦場にまで持ち込んでいた史書も、開いてはみたものの、内容がちっとも頭に入ってこない。
どうも全く別のところに自分の意識は行ってしまっているらしい……少し自分で自分が嫌になる。
「──お館様、お客様です」
ノックの音とともに声がかかったのはその時だった。
日が暮れた後に男爵の部屋を訪ねてくるのは、まず一人しかいない。
扉の前には、自らの側近と他に二人の気配……小声で何やら「頑張ってくるのよ……!」「はい!」「それでは邪魔者は退散する事にしましょうか」と妙に楽しそうな会話が聞こえる。
当人達は内緒話のつもりでも、常人より聴覚が発達しているジルの前では筒抜けも同然だった。
来ているのはドーロンとジャンヌで間違いない。
会話だけ聴いていると女二人の掛け合いに聞こえるが、ドーロンは紛れもなく男性である。シャルル王の信頼も厚い騎士で、その王から直接ジャンヌ護衛の使命を賜っていた。戦場での腕も立ち、気遣いも細やかで根も誠実な男だが、「心は乙女」と言って憚らない変わり者としても知られていた。
女性に言い寄られる機会も少なくはないようだが、当人は全く興味が無いらしい。
──そういえば、エチエンヌ殿が「ドーロンが妙に絡んでくる……正直勘弁してほしい」と言っていたな……
「あたしもラ・イール隊長のところに行ってこなくちゃ♪ふふふ♪」等と言う不吉な男の呟きを聞き取って、今日ばかりはくれぐれも彼が遊郭で楽しんでいる事を願わずにはいられないジルであった。
男二人の気配が階下へ去った後、はたして、少女を迎え入れる為にジルが立った扉の先には、ジャンヌが一人佇んでいた。
ジルの目が見開く。
少女は普段の簡素な衣装ではなく、当世の流行をふんだんに取り入れた、貴族の令嬢同然の可憐なドレス姿だったからだ。
「陛下がご褒美に贈って下さったんです……に、似合いますか?」
一瞬、言葉を失い、その姿に見惚れていたジルに、おずおずとジャンヌが問う。
「はい……正直、見違えました……
──あ、いや、そうではなく……貴女は普段から美しいですが、それにも増してその……あまりにも愛らしい姿でしたので……言葉が出てこなくて……」
大きく開いた胸元から惜しげもなくさらされる眩しい柔肌に、思わず吸い込まれた視線を慌てて外し、しどろもどろになる元帥の言葉に、少女はぱっと顔を輝かせると、軽やかなステップを刻みながら、扉をくぐり抜け、部屋の中でくるっとその身を一回転させた。
ふわり。スカートが風をはらんで翻る。そのままの勢いで、ジャンヌは先ほどまでジルが横になっていた寝台の上に、ぽん、と腰掛ける。
そんな無邪気な少女の様子にジルもまた目を細めると、彼女の隣にそっと並ぶ。これが彼女が『講義』をするにあたり、二人が採るこの部屋における定位置だった。
「あの……今夜は私、改めてジルにお礼が言いたくて来たんです」
慣れない格好で落ち着かないのか、スカートの布地を指先で弄いながら、少女は言葉を切り出した。
視線は何故かジルが隣にきても床に落としたまま。
もじもじと、彼女らしくない歯切れの悪い口調だった。
「世間知らずの私が、これまで殿方の中でなんとかやってこれたのも、ラ・イール隊長やジャン、そして貴方やアランソン公が支えて下さったからです。皆さんには感謝しても感謝仕切れません」
「何をおっしゃる。
我々は皆、貴女に万の感謝をする事はあれど、感謝されるほどの事は致しておりませんよ。
それぞれが、それぞれのやり方で、して当然の仕事をしただけです」
「そ、そんなことはありません……!
中でもジル、貴方には他の方には相談出来ない事もたくさん聞いて頂きましたし、何より貴方は私の命の恩人です。
貴方がいなければ、私は『神様』から与えられたお役目を全うする事は出来ませんでした。
本当に、本当に感謝しています」
「ありがとうございます。私も神の意志の実現に一助出来て光栄ですよ」
口では殊勝な事を言いつつも、少女から礼を言われるのは悪い気分ではなかった。
それにしても──今、彼女は『神様』から与えられた役目は既に全うされた、と言っていなかったか?
オルレアンや幾つかの街は解放したが、まだイングランド軍の攻勢は続いているというのに?
そんなジルが内心感じた疑問を、そのいぶかしげな視線から敏感に感じ取ったのか、ジャンヌは言った。
「私が『神様』に言いつけられたのは、オルレアンの街の解放と、陛下のランスでの戴冠式を滞りなく果たす事までです。
『神様』はこれから先はもう私の自由にしてもよい、とおっしゃいました。
確かに、陛下は無事フランス王として即位されました。ですが、まだそのお手元に都であるパリは戻ってきておりません。
私も貴方が言ったように、このまま速やかに作戦に移ってパリを奪還するべきだと思います。
他にも、アランソン公の御領地を回復するお手伝いもして差し上げたいですし、何より私は──」
少女が顔を上げる。深く澄み切った蒼い瞳にジルの姿が映り込んだ。
「──私は、ジル、貴方の傍にいたいのです。
戦争はやはり悲しいですし、辛い事も多いですけれど……これからもフランスの為に頑張りますから……私と一緒に戦ってくれますか?」
こんな表情の少女を、ジルは見たことがなかった。
胸が締め付けられるような……切なく、それでいて艶っぽい表情と声だった。
「私は所詮、田舎から出てきたただの小娘です。
お礼をすると言っても、陛下と違って、貴族である貴方に相応しい贈り物は何も出来ません。
もし、私にも差し出せるものがあるとすれば……それは……」
震える唇から、それ以上の言葉は出なかった。
少女の細い指が、ドレスの肩口にかかっている。
ここまでくれば、いくらジルがその手の事情に鈍かろうと、少女が何をしようとしているのか、彼に対して何を差しだそうとしているのか、皆まで言われずとも理解する事が出来た。
この夜更けに年頃の少女が──それも普段はあえて性を感じさせないよう、男物の衣装を着こんでいる麗人が──わざわざ無防備な女物の衣装に着替えて、男の部屋を訪れているのだ。たどり着く先にある答えは一つしかない。
華奢な肩が、袖から抜かれようとしていた。
張り出した胸元の双丘も零れんばかりになっている。
白い肌が上気して、ほんのりと薄紅色に染まっていた。
「私……あまり上手には出来ないかもしれませんけど……身体は丈夫です……から──」
そんな少女の不器用な告白を遮ったのは、目の前の青年の口付けだった。
「…………」
一瞬が、永遠になった時間だった。
ただ、唇に触れるだけの軽い接吻。それでもその柔らかさと甘さは、どんな芳醇なワインよりもジルを酔わせた。
そうだ。自分だけは理解していたつもりではなかったのか。
この少女が背負わされているものの大きさに。
少女一人が任されるには、あまりに重過ぎる使命と、その為に与えられた偉大な力の代償。
誰にも理解されない孤独。
少女は聖女であるが、決して神そのものではない。全知全能の存在ではないのだ。
傷つき、涙し、恋もする──愛らしい一人の女性だった。
「もし……パリを取り戻す事が出来たら……」
言葉を紡ぐ唇には、まだ幸福な感触が残っている。
少女の形の良いあごに指を添えたまま、ジルは言った。
涙にしっとりと濡れる蒼い瞳。身体の芯が熱くなるのを止められない。
このまま二人して日が昇るまで、我を忘れて互いの熱を奪いあいたい。一時でも少女が抱える不安を忘れさせるほどの悦びを、愛される女の幸せを、まだ無垢なその身体に与えてやりたい──そんな衝動に駆られたが、軍人としての理性が、辛うじてそれを圧し留めた。
「パリの街が陛下を迎え入れたその時には──貴女の全てを私に許して頂けますか?」
──まだ、駄目だ。
自分も彼女も、ただの男と女になるわけにはいかない──
せめて、パリがフランスの首都として王を迎えるその時までは。
神ならぬその身では、指揮官として当然であり、仕方のない判断だった。
──だが、この時彼女の逸る気持ちを汲まなかった事、そして何より自分の気持ちに正直にならなかった事を、彼はその生涯──500年以上の時を通じて後悔する事になった。
「──愛しています」
祈るような一言だった。
「貴女が望むのであれば、私はいつでも貴女の傍におりましょう」
「ジル……」
今度は更に深く口付けた。
甘く鼻にかかる少女の熱い吐息に、ジルの脳髄も痺れ、与えられる官能に酔い痴れる。
──ああ、なんで自分は、もっと早く少女の気持ちに気が付かなかったのだろう。
──なんでもっと早くにこうしていなかったのだろう。
──彼女はずっと待ってくれていたのに。
いつまでもこうしていたい──そんな本能からくる欲求を、それでも鋼の精神力で振り切ると、高揚する気持ちに息を乱しながら、ジルの唇は名残惜しそうに少女のそれをひと撫でした後、そっと離された。
見つめ合うジャンヌの瞳から次々と透明な滴が零れる。
泣いているのか笑っているのか、嬉しいのか、悲しいのか、俄かには判断をつけ難い表情で、その着衣を乱したまま、少女は今や想い想われる恋人同士となった青年の胸に縋りつく。
青年もまた、少女に請われるまま細い身体を抱き寄せ、彼女の存在をただ感じる事だけに全てを傾ける。
まだこれからも厳しい戦いが続くだろう。
それでも二人なら、乗り越えてゆける──まだこの時は、そう信じて疑っていなかった。