白百合を抱くハイペリオン(3)
壮麗な聖堂に隣接した僧房の一室。
人目を憚るように、予め整えられたその場所で、男はその時が訪れるのを静かに待っていた。
窓から差し込む光は、長らく暗闇の中で過ごしてきた身にはまだ眩しく、素足を包み込む毛足の長い絨毯の上もどこか居心地の悪さを感じる。
かつては当たり前のように享受してきたものが、今の自分にはあまりにも遠く縁のないものになってしまった事に、男は内心苦笑していた。
それほど、彼が人間らしい扱いを受けるのは、久しぶりの事だった。
髪は一筋残らず白くなってはいたものの、まだごく若い……青年といっていいであろうその男は、いささか線が細過ぎる印象はあったが、湯浴みを済ませ、清潔な衣服に袖を通して佇む姿は、回廊を往来している同年代であろう神学生とは明らかに異なる空気を纏っていた。
隙の無い物腰に漂う気品と風格──そして覚悟。見る者が見れば、女性的な優しい面差しの中に納まる碧い目が、男の出自を如実に語っている事に気が付いただろう。
いかにその横顔が深い知性を感じさせるものであったとしても──彼は伽藍の中で教えを説く者ではない。戦場に生きる騎士であると。
ゆえに、男の前に訪れたその司祭は──男の素性と真の姿を知る者は、敬意をもって彼に応じた。
一礼の後、ここまで大切に運んできたそれを、掲げるようにして目の前に差し出す。
「……これは?」
──半年にも渡る過酷な虜囚生活の末、人として持ち得たあらゆるものを剥ぎ取られ、果ては己が名乗るべき名前すら失った男に渡されたのは、たった一枚の皮羊紙だった。
「『彼女』から貴方にと。
我々がこの日まで預かっていたものです」
司祭のその一言で、男の目の色が変わった。
震える手が、書簡に施された封印を丁寧に解き、碧の視線が食い入るようにして、そこに書かれた文字を追う。
彼の動きにあわせて、まだ水滴を含んだ白い絹糸のような長い髪が、淡く光を弾いた。
──私の愛しい人へ。
その一文で始まる手紙は、宛てる者の名も、これを書いた者を示す署名も一切ない。
だが、男は皮羊紙の上を優美に走る筆跡を見ただけで、その想いを託した者が誰であったのか、瞬時に理解した。
──公では見せる事がなかった、彼しか知らない『彼女』の文字。
男が今も愛してやまない少女の手による文字だった。
〈──私の愛しい人へ。
貴方がこの手紙を見ている頃には、私はもう見える形ではこの世界に存在しないでしょう。
〈神様〉はあくまでも私を一人の女として世界に留めるおつもりはないようです。
残念だわ。せっかくこれだけフランス語が書けるようになったのを、貴方に褒めてもらいたかったのに。
全て優れた教師である貴方のおかげです。
貴方の名前の綴りも、ちゃんと覚えたんですよ。
ここに来て、何か間違いがあっては大変だからと、私の名も、貴方の名もこの手紙に記せないのが、とても悔しいです〉
「…………ッ」
まるで書面から『彼女』の声が聞こえてくるようだった。
読み進めるにつれ、その胸の奥や瞳から、知らず噴き出すものに、男は声をつまらせた。
〈でも、どうか私の騎士よ。この天の采配を恨まないで。
〈神様〉は決して残酷でも非情でもないのです。
元より、私は生涯を、この心身の一片に至るまで〈神様〉に捧げると誓って生きてきました。
そしてその事に疑問を感じる事も無かった。
例え力及ばず、使命を果たせぬまま戦場で散る事になっても、後悔をする事はなかったでしょう。
──だって私は、そのように創られた命だったのですから〉
「……まさか……神から天命を告げられた者は……個人の幸せを得る権利はないとでも言うのか……?」
『彼女』の告白に、端正な唇から憤りが零れる。
そんなことがあってなるものか。
己の天命を知り、これを全うするのは本来素晴らしい事であるはずだ。
しかしこれでは──その功績を上げるために授けられた才能は、祝福ではなく、ただの呪いではないか──
男の思いを余所に、『彼女』の文字の形をとった告白はなおも続く。
〈私にとって〈神様〉の存在と使命は全てでした。
でも、貴方と出会って私は、〈聖女〉として使命を果たすよりも先に、人として生きる喜びを、たくさん教えて頂きました。
それは他の方達と比べれば、ほんのささやかなものだったかもしれません。
ですが、私にとってはとても……かけがえのない幸せな時間だったのです。
貴方を始めとして……あの時、あの地に集った全ての人達が──みんな、それぞれ大切で大好きな人達だったから、みんなの為に、みんなに支えられて、私は最期まで〈聖女〉として在り続ける事が出来ました。
その幸せを──貴方との恋を知らなければ、それはそれで、ひたすら迷わずに突き進んで真っ直ぐに──〈神様〉の下へと帰って逝けたのかもしれません。
でも、いいのです。これで。
私は今の私でいられて幸せ。こうして貴方を想う事が出来る私が誇らしいのです〉
「貴女という人は…………何を……」
男は堪えられず、目頭を押さえた。
熱を帯びて溢れ出来るものに、視界がぼんやりと滲む。
〈ただ、〈神様〉との約束は約束です。
〈聖女〉としての私は、ここで終わり。
時を待たず、私は〈魔女〉として裁かれ、処刑されるでしょう。これは運命。
だから貴方が自分を責める事は何もない。
もはや私の心が真の自由を得る為には、この奇跡の象徴となった身を保ったままではいられない、それだけの事なのですから。
だから──私は今、私の出来る事をして逝く事にします。
私は〈神様〉から受けた幾つかの知識を〈彼等〉に与え、その研究を完成させる事と引き換えに、貴方の命を保障するように念押ししておきました。
そして、貴方が彼等が思っているような〈怪物〉ではない事、彼等の研究成果を実用化する為には貴方が必要不可欠である事を伝えました。
そう──貴方は私よりもよほど価値のある存在である事を。
だから貴方は自分の正体──
一体何者であり、そして何が出来るのか、知る権利と必要がある〉
「……私の……価値?……正体……?」
〈愛しい人。貴方が貴方自身を理解し、表現する時がやってきました。
貴方がこれまで使ってきた力は、貴方が持っている力のほんの一片に過ぎません。
今がどんなに試練の中にあろうとも、貴方は必ず立ちあがる人。
だから、もう一度その手に剣を。戦う為の力を。
それが、最期に私が貴方に返せるもの。
──ignis aurum probat,miseria
──fortes viros.dum spiro,spero
──traict et fati litora magnus amor
貴方がこの先、どんなに力を得ても、力を得た事でその身が人からどんなに離れて行ってしまったとしても。
私の祈りと魂はいつでも貴方と共に。
貴方は、私が愛した人。どうかそれを忘れないで。
──貴方を愛する者より〉
「……ジャンヌ」
皮羊紙の上に、ぽたぽたと水滴が幾つも落ちる。
いくら止めようとしても、無駄な努力だった。
もはや憚ることなく、男は肩を震わせ、少女の想いと献身に涙した。
「〈火は黄金を試し、苦難が勇者を試す。命ある限り希望あり。偉大なる愛は運命の岸をも越える〉……ですか」
やはりまだ若い司祭が、文面にあったラテン語の格言を諳んじる。
この時代、貴族でも文盲が珍しくない中、農民として生を受けた娘が知るはずもない、古典教養の一節を。
「……失礼。
申し訳ありませんが、内容は事前に改めさせて頂きましたので……ラテン語も貴方が指導を?」
「いや……私が『彼女』に手解きしたのは、母国語だけだ。
『彼女』は……ジャンヌは、私と出会う前からラテン語の読み書きは完璧だったんだ……むしろ母国語の知識だけが抜け落ちていた印象だった」
指で零れてくる涙を拭いつつ、男は答える。
「付け焼刃の知識しか持たぬ私などよりも、よほど物知りだし、機転の利く娘だったよ……本当に……とても賢い女性だった」
「そうですか……貴方は最初から彼女が何者であるか御存知だったのですね?」
「さあ……どうかな。
せいぜい私が知っているのは、傍らにいた女性が自分とは比べものにならない天才である事と、彼女がとてつもない秘密を抱えていたであろう事だけだ」
ひとしきり今は亡き少女を偲んだ後、男が顔を上げる。
既にその涼やかな表情に悲嘆の影はなく、碧い瞳の奥にはただ静かな闘志だけが燃えていた。
「どうやら、私はこれから色々と学ばなければいけない事があるらしい」
碧い瞳に怜悧な輝きが閃く。
その目はもう、この先にある己の立つべき戦場を見ていた。
「……教えてくれ。私には一体何が出来る?」