──侮ってはいけない、彼もまた夜魔の王なのだから。
◆◆◆
手順は完璧のはずだった。 問題など起こるはずもなかった。 なのに何故、自分は息も絶え絶えになりながら、石畳の上を駆けているのだろう……?
夜の帳が降りた街角。月明かりに照らされて石畳の上に伸びる影が一つ。
複雑に入り組んだ迷路のような路地は、昼間であれば人通りが絶える事もないが、今はしんと静まり返った夜気に、彼の靴音だけがせわしなく反響している。 男はまだ弾数に余裕のある銃や大振の軍用ナイフ等を懐にしのばせながらも、その事をすっかり失念してしいるようで、ただ本能が命じるまま、必死に両足を動かしていた。
男がその身に帯びていたもの──いずれも強力な、人ならざる者を狩り出す為にしつらえた特殊な装備。 一つ一つが窮地において頼りになる物騒極まりない代物ばかりがそろっている──はずだった。
だが、どうだろう。『奴』にはどれもこれも、何一つまともに届きすらしない。 苛立ちが焦りに、そして焦りが恐怖へと変わるのに、それほど時間は必要としなかった。 そして静かな怒りを湛えて自分を見返す瞳の色が、金色へと変じるのを見て取った時、ようやく彼は気がついた。 自分がとんでもない化け物に対して、喧嘩を売りつけてしまった事に。
「ちくしょう……ちくしょう……っ」
いくら自分に悪態をついても、既に遅い。 今はただ、この場を抜け出す事だけを考えなければ。 相棒はもういない。 自分を救えるのは、自分だけだ。
破裂しそうに痛む肺に流れ込んでくるのは、潮気の混じった空気。 狩人──在野の退魔師である彼と相棒は、いつものように滞りなく獲物をしとめた後、この水の都・ベネチアで一時の休息を得るつもりだった。
そんなたまたま立ち寄った街で、たまたま耳にした情報。 この運河に抱かれた城砦都市に、吸血鬼が潜んでいるらしい、と。
吸血鬼は地属性の魔物である。故に、その魔力の源である大地とのやりとりを遮る流水の存在を苦手としている。 最初は何かの冗談かと思ったが…… 上手くいけば、直前の仕事など問題にならないほどの金額が懐に入ってくるかもしれない。 つい欲を出してしまったのが、全ての間違いだった。 気がつけば、罠に嵌めたつもりが罠にはめられ、狩る立場が狩られる側に逆転していた。
金色の瞳。 それは噂を確かに裏付ける吸血鬼が持つ特徴の一つ。 ──そう、奴等の中でも飛びぬけて上級の眷属にのみ発現するはずの。 千年以上吸血鬼共と戦い続けている教皇庁の記録にすら、滅多に登場する事は無い、伝説の中に隠れ住む夜魔の王達。 その途方も無い連中の内の誰かが、今、自分のすぐ背後を追ってきているのだ。
──走れ!走れ!走れ!とにかく走れ!
この後の角を右へ抜ければ、船が停めてある場所に出る。 そうすれば逃げ切れる──!
一瞬、脳裏を過ぎった安堵の予兆に、緊張の糸が切れたのか、足元がもつれた。 宙に投げ出される肢体。 それでもとっさに受身をとったのはさすがと言えたが、転がった石畳にはねた水飛沫と、それが着衣に染み込んでいく不快な感触に気がつくと、彼の思考は一瞬で凍りついた。
「これ以上、どこへ逃げようというのですか?狩人よ」
月輪を思わせる玲瓏とした声が、間近に聞こえた。
咄嗟に銃を構え、跳ね起きた男の視線の先に立っていたのは、およそ荒事専門の彼とは縁も所縁もなさそうに見える、場違いなほど整った容姿に瀟洒な衣装を纏った青年だった。 月明かりに柔らかな光を弾く金髪に、色素の薄いすべらかな頬──しかるべき場所に現れれば、誰もが視線をよせずにはいられないような、造物主に愛された美貌の持ち主は、人ならざる者の証である金色に光る瞳を男に向けて、静かに問うた。
「貴方方はいつでも神の代行者を気取り、我々を裁こうとしますが──今宵、この街の平和を乱した罪は、貴方方にこそある。 この街は私の城。城の内で眠る者を守るのは主が務め。 故に、私は貴方方の罪を問い、それに対する償いを求める」 「黙れ吸血鬼!神の教えに背き、土に帰る事も出来ない呪われた化け物め。貴様らに神を語られる覚えはない!」
男の構えた銃口が吼える。闇夜にマズルフラッシュが立て続けに閃く。大口径のそれが吐き出す弾は、一発で目の前の綺麗な顔を吹き飛ばせる程の凶悪な威力を誇っていたが、正面から放たれる鋼の牙を、青年は避けようともしなかった。 かと言って、その弾が彼を傷つける事も無い。そのことごとくが彼の血肉を抉る寸前で、失速し、力を失って石畳へと転がり落ちる。 課せられた役目を果たせず、ただ硝煙の匂いを道連れに骸となって散らばる弾丸には、白く霜が降りていた。
その事実に対して、別段男の中に失望はない。飛び道具が効かないのは端から分かっていた。残った弾を全て撃ち尽くすつもりで、狩人は青年の姿をした吸血鬼の動きを牽制すると、波止場に寄せてあった船に飛び乗ろうとし──
「──アプサラス──!」
夜気を切り裂き、放たれた青年の声を聞く。 運河にたゆたう昏い水面がざわめき、やおら力を帯びて立ち上がる。 主に応え、水が集う。力が集う。 船をとり囲むようにうねる水流が伸びていき、その一点が天高く飛沫を上げ、男の頭上で舞い踊った。 ──踊る水の影に、美しい女の影を見たのは気のせいだろうか。 狩人が突如見舞われた怪異な現象に目を奪われた一瞬に、凄まじい勢いで甲板に叩きつけられた水流が、大きく船を傾ける。
「なっ……」
バランスを崩した男の身体が、運河へと放り出される。 今度こそなすすべもなく、水中に沈んでいこうとする彼の身体を、無慈悲な水流が翻弄する。巻き込み、跳ね上げられ、やがて桟橋へ──この夜の街を統べる王の下へと差し出される。
「ぐふっ……は」 石畳につっぷした男の胸郭から搾り出された空気が、苦しげな音を交える。 対して、咳き込む狩人の姿を見据える青年は息を乱した様子も無い。 水流を従え、月の下、意思を持って煌く雫達に飾られたその存在感は、今や圧倒的だった。
「さて……貴方の無礼の数々は赦しがたく、これまで同胞に対して犯してきた罪を思えば、この場で命を奪ったとしても、過ぎる裁きと諌める者もいないでしょうが……」 「……っ」
吸血鬼と呼ばれた青年は、醜く表情を引きつらせている狩人を、まるで虫けらでも見るような、哀れみと侮蔑が入り混じった視線で見やった後、言葉を切り、
「……かと言って、簡単にこの手にかけるのも、貴方方と何も変わらない。 ですから、貴方には全てを忘れてもらう事にしましょう。 命の対価として、私は貴方の記憶を頂きます。 この街で起こった事も、何もかも忘れて──故郷へお帰りなさい」
冷徹に刑の執行を宣言した。
「あ……あ……い、いやだ……」 無駄だと分かっていながらも、じりじりと後ずさろうとする狩人へ、青年はどこまでも事務的な淡々とした口調で、その言葉を続ける。 「心配しなくても、貴方を眷属に加える事は絶対にありません。 血の継承は最善の注意を払って行わなければいけないという事は、嫌と言うほど思い知らされていますから」
──その時、青年の言葉尻に滲んだ憎悪の気配とその理由に、男が気がつくはずもなく。 怯え竦んだ身体に押し込められた精神は、ただ己の運命を憂うだけで精一杯だった。
実に典雅な所作で、青年が膝を折る。
狩人は自分の肩口に、ほっそりとしているが、異様な力強さを感じる指の存在を認めた。視線を反らそうとしても、彼の意思に反し、金色の光に魅入られた眼球は一向に動こうとしない。 こうなっては最早、彼は自らの完全な敗北を──狩人としての人生の終焉を受け入れるしかなかった。
◆◆◆
失血と催眠暗示によって茫然自失となった男を、適当な病院の近くへと転がしてきた後、青年は桟橋に戻り、そのままになっていた狩人のクルーザーに忍び込む。 外見には見合わない力であっさりと船倉をこじ開けると、積み上げられた積荷の間に、彼は見知った人影を見つけ出した。
「アンジェリカ」 耳朶に柔らかく響くその声に、心労から少しの間にすっかり消耗しきっていた少女の顔が、途端に明るく輝いた。
「……クリス様……!」 「怖い思いをさせたね。もう大丈夫だから」 「申し訳ありません。こんなご面倒をかけてしまって──」
弱々しい声で主に詫びる侍従の少女にかけられた縄を解きながら、青年──ベネチア伯、あるいはクリストファ=ナダスディ卿と呼ばれる夜魔の王は、心底申し訳なさそうに言った。
「いや、僕こそハンターの動きにはもっと注意しておくべきだった。 奴等が悪辣なのは充分分かっていたつもりだったけれど……まさか人間の君を人質にとって揺さぶりをかけてくるとはね。 これでは無頼漢と何も変わりはしないな。まったく酷い事をする」
一般に吸血鬼は流水が苦手だと伝えられている為、その噂と己の能力とを上手く利用する事で、穏やかな生活を守ってきたクリスだったが──あまり噂の上に胡坐をかいてもいられなくなってきたようだ。
知らず、険しい顔になる彼の顔を見て、少女はまた別の懸念を抱いたらしい。
「あの……お怪我は……お身体に大事はありませんか?」 監禁されていた自分よりも、まず第一に主人を労わるその愛らしい心遣いに、殊更優しく微笑みながら、クリスはその首を横に振った。
「多分今の君よりはずっと元気だよ。 さあ、もうすぐ夜が明ける。そうなると僕も少し辛くなるから、まずは屋敷へ戻ろう。話はそれからでも遅くはない」
──悩むのは自由だが、それは苦しい思いをしたばかりの少女の前でなくても出来ることだ。 クリスは思考の迷宮へ落ちかけていた己の意識を引き上げた。
「ジョシュア達も待っている。行こう」 「──はい」 まるで御伽噺の姫君のように抱き上げられて、思わず頬を赤く染めつつ、少女が小さく頷いた。
少女を抱えたまま、クリスは軽やかな跳躍であっさりと運河を飛び越えていく。 アドリア海に最初の光が差し込んだ時には、もう二人の姿は街のどこにもなかった。
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あとがき。 先日頂いた海老様のイラスト(こちら)があまりに予想外で素敵だったので、2009年10月現在、えらい場面で連載が止まっている元帥の話を差し置いて、うっかり書きたくなってしまった『ウルカヌスの柩』本編に登場するクリス君こと、クリストファ=ナダスディ卿の短編です。 もしかしたら続く……かもしれません。
基本的にうちの吸血鬼さん達は銃火器に代表される飛び道具を使う事を嫌いまして、人間に対して高い優越性を誇る己の肉体と身に着けた権能(=魔術)のみで戦います。これは上級になればなるほど顕著。 クリス君の場合は水属性の魔術に対して天才的な素養を持っていた為、現在は自分の能力と相性が良い土地であるイタリアのベニスに根城を構えて生活をしています。 キリスト教の総本山を隠れ蓑にしているルカさん程ではないにしろ、一般的には彼もかなりびっくり仰天な場所に生息している吸血鬼です。
ちなみにアプサラスというのは、インド神話における水属性の天女で、西洋で言うところのウンディーネにあたる意味合いで使用しております。ジオン脅威のメカニズムとはあまり関係ありません(笑)。
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