その昔、この国には大勢の騎士がいて、その力と名誉とを争っていたそうだ。

中でも特に抜きん出た働きをした者の名と功績は、悠久なる時の流れの中においても風化する事無く、今も尚、伝説として人々の間に語り継がれている。

 

そして今、眼下に広がる夜景に目を細めている男もまた、伝説が語り継ぐ、生きて武功を重ね、死して尚畏怖される英雄の一人──少なくとも、自分のような夜に愛された一族にとっては、特別の意味を持つ名の持ち主だった。

しかし、その生涯が果たして幸せなものと言えたのか……凛々しくも繊細で端正な横顔から推し量るには、余りにも歴史に刻まれた男の末路は悲惨なものであり、同時に目の前の彼が纏う清冽な闘気は、多くの者が知る彼の姿との間に、奈何ともし難い食い違いを生じさせ、見る者を惑わせる。

 

だが、彼で間違いないのだ。

『あの方』がそう、見定めたのだから。

 

「……人の営みの移り変わりとは、かくも激しいものか」

 ふいに響いた涼やかな声によって、長い沈黙は破られた。

 

「そうですね。

 貴方が最後にこの地を訪れた時から、また何度か戦争もありましたし……人々の価値観を揺るがすような出来事には事欠きませんでしたからね。

 ですが……」

 

ごくさりげない挙措で、長身の横に並ぶ。

 

「それでも国は……彼女と貴方の愛する祖国は残った」

「………………」

「かつての貴方の戦いは、決して無駄ではなかったのですよ。閣下」

 

 長い──腰まで届く白髪が風に靡いた。

 怜悧な印象の美貌がこちらに初めて向けられる。口元には微苦笑。

「やめてくれ……爵位などとうに失った身だ。

 今となっては、城もなければ命すらない。ただの抜け殻に過ぎぬ」

「外の者がどう思っているかは知りませんが、私は貴方を英雄の名に相応しい傑物だと考えています。

 実際、こうしてお会いしてみて、その思いはより深くなりました。御身をこのまま、みすみす閣下の威光を理解しない者の手によって害されるのは忍び難い。

 貴方はその功績に相応しい褒章を受ける権利がある」

 

 どこか深い海を思わせる碧がかった青の双眸が、やや鋭さを増した気がした。

 笑みが消え、纏う闘気が俄かに不穏なものになる。

 

「それで……?」

「……如何でしょう。私と共に我が主の下へ参りませんか?

 我が主もまた、貴方の存在を高く評価しておられるのです。

 是非、貴方を血族に加えたい、と。

 今宵、私は主から預かりました言葉をお伝えする為、こうして馳せ参じました」

 

 かといって、こちらもおとなしく退くわけにはいかない。

 

「御自身の力のみで人の身を超え、夜に祝福された貴方なら、主の血を受ける事でより力を増し、その存在を堅固なものとする事が出来るでしょう。

 おそらく……私など足元にも及ばない、長に等しい富と栄光を約束されるはず」

 それは命を長らえ、権力に固執する真っ当な人間ならば、縋り付いてでも手にしたいもの……だが。

 

「そのようなもの。煩わしいが故に、自ら捨てたのだ」

 救国の英雄は鼻で笑って一蹴した。

 

「自慢するようで悪いがな……今の時代で私ごときがいくら気張ってみたところで、かつて手にしていた富や領土の半分も戻ってはこないだろうよ。

 それに元々財産管理は苦手でな。かような些事にあくせくする位なら、戦場を這いずり回って死んだ方が遥かにましだ。

 もっとも──」

 軽く溜息をついた後、自嘲気味に言う。

「それすら叶わぬのが、今の我が身なのだがな……

 神など信じた事はないが、因果というのは恐ろしいものだ。

 悪魔の存在だけは、不思議と信じたくなってくる」

「悪魔は神の被造物ですよ?」

「知らないな。教会が決めた教えなど興味ない」

「だったら何故、貴方はその教会に──教皇庁に仕えていたのです?」

 

 唐突にまた訪れる沈黙。

 

「貴方から地位も名誉も財産も──大切な女性すらも奪った、その敵こそが教皇庁のはず。

 彼らに憎んでも憎み切れない程の仕打ちを受けたのですよ、貴方は」

 だが、智勇兼備の将と謳われた騎士は、すぐに冷ややかに眇められた視線を投げかけながら、逆にこちらへ聞き返す。

「……だったら貴公達こそ随分と物好きではないか?

 今、目の前にいる男に、今まで何人の同族が斬られてきたと思っているのだ?」

「話題をすりかえないで頂けますか?」

「すりかえてなどいないさ。

 答えられないか?ならば私が代わりに答えてやろうか。

 それはただ、感情と利益を天秤にかけた時、利益の方が大きかったから。そうだろう?

 貴公達が欲しているのは、私の存在でもなければ、私の力でもない。

 本当に手に入れたいのは、自分達の与り知らぬところで、自分達と同じ力を持つに至った異端の徒の標本に過ぎぬ。違うか?」

 およそ遠慮や容赦というものが全く感じられない、端的な物言いだった。

「残念だが……自らが利用されると分かっていて、敵地に飛び込む程、無謀でもお人よしでもないのでね。

 貴公達とは轡を並べるつもりはない。私は私の好きなようにさせてもらう」

 

「成程。そうですか。

 我が主の深遠なるお考えを図る事は、私には出来ませんが……しかし私個人としては、真実、貴方と争うような事はしたくなかったのですよ。

 もっとも、これも信じては頂けないでしょうけれど……」

 

 半ば予想していた答えではあったが、落胆は隠せない。

 思わずぽつりと本音が漏れた。

 

「貴方はあの男によく似ている……」

 

「あの男?」

 踵を返し、去り行く背中が、何のことは無い呟きに立ち止まった。

 魅入られるような碧玉が肩越しに見つめてくる。

「今の教皇庁で最も優れた退魔士である男……

 世界中で同族を狩り出している……裏切り者ですよ。

 教皇庁は貴方の追跡に必ず彼を投入してくる。仮に命令がなくても、彼は志願するでしょう。

 彼ほど我々を憎悪し、それを力としている者はいない」

「……まさか……司祭どもはまた性懲りも無く【騎士】を仕立て上げたのか!?

 歴史の上でも名高い惨劇の光景を思い出したのか、彼の眦と声音が鋭くなる。

「いえ……彼は【騎士】ではなく【神父】です。

 教皇庁教理聖省管理下特権退魔士──通称〈神の御剣〉(スパーダ)

 その昔、異端審問局としてヨーロッパ中に悪名を轟かせた狂信者達の末裔です」

「ほう……あの異端審問局がどういう心境の変化で仇敵を迎え入れたのかは知らないが……それはまた随分と傑作な話だな。まったく長生きはするものだ」

 冗談めいた台詞を酷く冷めた口調で言ってくれる。

 言葉の端に含まれる威圧感はかなりのものだ。

「彼の目的とその正体を認知しているのは、支援者である一部の聖職者に過ぎません。

 故に、彼は貴方とは根本的に立場も名誉も違う。

 もしも貴方が彼を返り討ちにし、その正体が割れるような事があれば、彼とその仲間は御終いでしょうね。

 ……逆に貴方の評価は上がり、これをきっかけとして、教皇庁に復帰する事も出来るかもしれない」

「ふむ……何やら最初から貴公達に踊らされている気がしなくもないが……なかなか興味をそそられる話ではある。

 ──して、その神父、名は何と言う?」

「ルカシュ=ディフラ=バートリ──」

 促されるままに──同時に予定通りに──忌まわしいその名を口にする。

「またの名を〈ネーヴェル・ヴォルフ〉。

 教皇庁の【騎士】たる貴方が、唯一、討ち漏らした怨敵です」

 

 かくて今、賽は投げられた──