……一体あれからどれくらいの日数が経過したのか。
 
 外界から隔離された地下牢に流れる時間感覚は非常に曖昧で、更に消耗しきった身体がそれ に追い打ちをかけた。
 ──否、実際のところ身体は食を断っていた以前と比べれば、殆ど万全と言っても良い状態に回復しているはずだった。それが実感出来ないのは、回復と引き換えに失った精神の均衡のせいだ。
 明かりすら贅沢に過ぎる牢獄では、姿見など望むべくもないが、他人の目に映る今の自分は、さぞや呆けた醜態を曝しているのだろう。
 どんなに五体の感覚が蘇ろうとも、内に収まった心が萎えてしまっていては、最早、この身は死んだも同然だった。
 
 精神の死、それは肉体の死よりも重い。

「閣下。どうやら私は貴方を随分と過小評価していたようです。
 貴方はこの腐りきった国の貴族に名を連ねているとは思えないほど、潔い魂をお持ちだ。それ故に、自分の痛みよりも、他人の痛みに敏感なお方と見えます。
 ですから、私は貴方により相応しいおもてなしをする事に致しました。
 なに、最初は苦しいかもしれませんが、じきに楽しんで頂けるようになるでしょう。
 遠慮はいりませんよ。そもそも、貴方にその必要はありませんし、その権利もないのですからね」

 そう言って、僧衣を纏った悪魔は新たな自分を使った遊び方を見出した。彼の趣向が変わるまで行われた『もてなし』も十二分に自分を痛めつけたが、それでもまだ己が内に矜持を保っていられるだけましだった。今は扱いだけならば、はるかに丁重に──さながら淑女に対するかのように──される場合もある。しかし、その『行為』によって受ける屈辱は比較にならなかった。
 
 よくもまぁ、これだけの『物好き』がいるものだ、と思わず笑いたくなるほど、昼夜を問わず薄暗い牢には、悪魔に囁かれ、ソドムの罪に取り付かれた者達が代わる代わる訪れた。牢番とそう変わらない粗野な兵士に嬲られる事もあれば、事が漏れれば家の名誉に関わりかねないような、騎士らしい若者の奔放さに驚かされ──そして時には、同時に複数の者から弄ばれる事もあった。
 身体は回復しているのだから、いずれも本来であれば、遅れなどとるはずもない連中ばかりだった。ただ、腕をほんの一振りすれば、皆、壁に打ち付けられて動かなくなるだろう。だが、それは適わなかった。

「聡明な貴方ならお分かりになるはずでしょう?
 貴方が今、牢に訪れる客人達にその牙をむいたらどうなるか……
 まず、ブルターニュの領地におられるご家族を一人ずつ殺します。
 それで足りなければ、領民を手にかけます。
 あまりに目に余るようでしたら……貴方と『彼女』が苦労して即位させた、大切な国王陛下が崩御されてしまうかもしれませんね」

 明日の天気でも問うような軽い口調で、悪魔は言い放った。
 
 あの大聖堂に到るまで、どれほどの血が、命が失われたと思っているのか──そう吠え掛かるのが今や何の意味も持たない事を、ようやく自分は理解していた。

 こいつは、外法によって生きる魔術師なのだ。人の世の機微など意に介す存在ではない。
 魔術師を屈服させる方法はただ一つ、奴が持つ以上の奇跡を持って示すだけ。
 そして、今の自分にはそれを成すだけの力はない──そうである以上、身を焦がすような羞恥に、ただ、耐える他はなかった。
 
 『彼女』が世に齎した希望の光を、何としても守らなければ。
 
 そうだ、たとえ死すら適わぬ自分の魂がこのまま魔術師に食いつぶされようとも、『彼女』の理想と『彼女』だけは──

「神よ……私が見失い、そして『彼女』が見出した偉大なる神よ。
 まだ呪われたこの身に祈りが許されるのであれば、どうか、『彼女』だけは……貴方の乙女だけは、お救い下さい」

 男の自分でさえ、これほど耐え難いのだ。女の身で受けた傷はどれだけのものだったろう。


 ただでさえ、教会の教えの下、生まれながらに穢れた存在とされる女は、誰かの庇護がなけらば生き難いこの時代だ。例え、死地から無事脱出出来たとしても、傷ついた心と身体を抱えて『彼女』は生きてゆけるだろうか……戦場では誰よりも勇敢な娘だったが……それでも『娘』なのだ。

 自分だったら、どんなに彼女が罪に穢れようと愛する事が出来るのに。
 それが許されぬ願いだと分かっていても、想わずにはいられなかった。

 

◆◆◆

 

「この度はお忙しい中、遠路はるばるお越し頂き恐悦至極であります。
 むさ苦しい場所ですが、どうぞごゆるりとおくつろぎ下さい」
「……どう見てもくつろいだ気分になれそうな場所には思えぬのだがな、私には」


 言葉とは裏腹に、全く恐縮した様子のない男に対し、こちらもまたにべもなく切り捨てた当夜の客人は、深く被ったフードの下の端正な顔をしかめ、大仰に溜息をついた。
 そして、しかるべき後、鼻腔をつく臭気にますます眉間の皺を深くする。

 町外れの城塞の奥深くに設けられた地下牢の換気はお世辞にも良いとは言えず、ただそこにいるだけで、垂れ込める澱んだ空気に冒されそうな悪寒を異邦人に齎した。

「はは、それはごもっとも。
 本来であれば、貴方様のような貴人が足を踏み入れるような場所ではありませんからね。ここは」


 不機嫌な客人の様子を特に気にした様子も無く、この場の案内役を買って出た男──プレラーティと名乗った神父は、この場にはおよそ不釣合いな程明るい声で応じ、更に暗闇の奥へと歩みを促す。
 

それは別段一行の雰囲気を和ませようとか、そういった意図があってとった行動ではないのだろう。にこやかな表情の裏に、何やら得体の知れない影──この牢獄よりなお暗い闇の匂いを感じ取ったのか、こちらも身分を気取られ難い装束に身を包んだ客人の連れが、それとなくあってしまった視線を逸らし、身震いをした。


「それにしても……いくら宣誓を拒んだとは言え、これが所領を持つ貴族への扱いとは……」
 呟くと、さも恐ろしげに肩を竦め、低い天井を見上げる。

 実際、もっともな意見だった。この時代において、戦争とは一つの商業(あきない)である。傭兵や身分の低い騎士ならばいざ知らず、一角の領主が捕縛された場合、後の交渉時に身代金を期待する事が出来る為、大人しくさえしていれば、相応のもてなしを受ける事が出来るのが普通だった。
 ましてや、神父の話が事実であれば、今ここに囚われているのは、フランスでも屈指の大領主であり、その武功によって一国の元帥にまで上り詰めた英雄なのだ。当世の常識に当て嵌めれば、考えられない処遇であった。

 そう、常識で考えれば。
 しかしながら、彼らと共に牢獄を進む相手は、常識というものから最もかけ離れた存在だった。
 
「そうですね。確かに私が傭兵で、ここが普通の戦場でしたらそのようにしていたでしょう。
 しかしながら、〈閣下〉。私は教皇聖下から使命を帯びた神父であり、踏み入るのは異形が蠢く修羅場なのです」
 

あくまでも穏やかに──それでいて、抑えきれない熱のようなものを言葉尻に滲ませたまま、神父は言う。


「そこでは貴方方が言うところの常識は通用しません。

故に私の言葉に信じられない事も多いでしょう。
 ですが、ここでは私の方が常識なのです」
 きっぱりと言い切ってから、やや相手に譲歩するように付け加える。
「とは言え、〈貴方方の〉常識に照らし合わせても、彼は責められるに充分な罪を犯したのですよ。
 審問中の異端者の脱走に加担したばかりか、その場に居合わせた衛兵や聖職者十数名を殺害、と……まぁこれだけでも極刑ものでしょうけど、何より彼が罪深いのは──」

 振り返る神父の口元に今までとは違う種類の笑みが浮かぶ。嘲笑の一言で済ますには余りにも冷たく、狂気を孕んだ魔性の微笑──
 
「──もはや人間ではない、という彼の存在そのものなのですよ」 

 さあ、いよいよ本当の悲劇の幕が上がる。
 その予感が齎す抑えきれない興奮に、神父の唇が歪んだのを理解した者は──歴史の歯車が静かに狂い始めた事に気づいた者は、まだこの場にいなかった。