牢へと近づいてくる複数の気配に、つとジルは顔を上げた。
──これはまた随分と早いお越しだ。
乱れていた胸元を軽く整えると、思わず自嘲の笑みが血の気の薄い美貌に浮かぶ。
身繕いしたところで、すぐに全てを暴かれる事になるというのに。既に自分は貴族として──はもとより、人間としてすら扱われていないのだ。体裁を保つ事に何の意味があるというのか。
奴等から見れば、この身はただ自分達と同じ姿をしているというだけの『モノ』であって、都合がいい欲望の捌け口としか映らないのだろう。石畳に反響する苦鳴も、意思の媒介物としては機能せず、ここではより彼らの酩酊を深くする媚薬へと変ぜられる。
これはきっと、〈彼女〉を守りきれなかった自分への罰。だとしたら、未だ貴族としての矜持や誇りを固持しようとするのは、実に愚かしく滑稽な事だ。
「……確かに、今の私には、彼らの相手を拒む理由も資格もなかろうな」
神父の言葉は、ある意味において真実だと思わざるを得ない。
行き着いたそんな皮肉な答えに、軽い溜息が吐いて出た。
──それにしても。
ここまで間をおかず、立て続けに『客人』が牢を訪れるのは、かなり珍しい事だった。
ジルへの負担はもとより考慮などされていなかったが、とりわけ変わった性癖を持っていたり、よってたかって嬲り者にされる場合はともかくとして。普通、特に高い身分を持つ者は、先に他の男の手がついた跡が残る者を、そう好き好んで抱いたりなどはしないものである。
故に、同じ日のうちに何回か『客人』を迎えなければならない際は、先刻の名残を消す為の時間を設けてから、次の相手が案内されてくるはずであった。
となると、これは堪え性のない変わり者の集団なのか、それとも……
ジルが言い知れぬ胸騒ぎに柳眉を顰め、思考をめぐらせている間にも、たゆみなく刻まれていた足音は、やがて虜囚の貴人を押し込めた鉄格子の前で止まる。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、お客様をお連れしましたよ。騎士殿」
松明の火が照らし出したのは、あの悪徳に塗れた神父と、旅装束に身を包んだ数名の男達だった。
徹底して人払いをするのは何時もの事であったが、牢番まで残らず下がらせたあたり、随分と慎重な印象を受ける。
その違和感の理由は、求めずともすぐに明らかにされた。
「どうしても貴方にお会いしたいという事で……わざわざこちらにお越し頂いたのですよ。
さあどうぞ。よくご覧下さい──」
声をかけられ、神父と共に扉を潜った人物が、おもむろにフードに手をかけ、素顔を晒す。
その行為は、期せずしてプレラーティとジル、最も対照的な二人の言葉を重ねさせた。
『──シャルル陛下』
何故?どうして?何の為に──
どこか麻痺しかけていた思考が、衝撃によって軋みを上げる。
闇の中、幻のように浮かぶ怜悧な顔立ちは、本来、いかように考えたとしても、人界の最果てに在るであろうこの牢に訪れる筈が無いはずの人物が持つものだった。
たった今、その名が口を吐いて出た後も、困惑と驚きを隠しきれずにいる虜囚の騎士を見返す来訪者──世俗にあってシャルル七世と呼ばれるはずの青年は、声をかけられたところで、相変わらず存在に現実感を伴わない彫像のような無表情のまま、一言、
「──乙女が死んだ」
ただ淡々と、済んだ事を報告するだけの声で彼に告げたのだった。
──乙女が。
すなわち、ジャンヌが──死んだ──
言葉は一瞬、ジルの中のあらゆる働きを静止させた。
「まったく……あのお前がこんな真似を仕出かすとはな。男爵よ。
何という様だ」
床に這いつくばったまま、呆然としているかつての英雄へ、露骨な嫌悪を滲ませる視線と言葉を送ってきたのは、シャルルを名乗る青年の脇から歩み出た痩せぎすの男。
──ドゥ・ラ・トレモイユ。
王の側にあって、国権を実質的に握る奸臣と、その名も高い侍従長にして叔父である人物の言葉は、その時のジルには全く届いていなかった。
「……………っ」
唇を動かそうとして失敗する。体がおこりに病んだようにかたかたと震えた。
言葉が。思いが。何も出てこない。出す事が出来ない。
プレラーティの魔手に落ちたと聞いた時とも比較にならない、とてつもなく大きな力に、自分を形作る全てが押し潰されてしまいそうだった。
ああ、やはり……そう、諦念からごく冷静に事態を俯瞰しようとする軍略家の自分と、馬鹿な、嘘だ……と天命にひたすら憤る男としての自分が、奥底でぶつかり合い、感情と思考の収拾がつかなくなっている。
わからない。全てがバラバラで。自分が嘆いているのか、どうかさえも。
そして、何故、今それをシャルルが伝えようとしているのかも。
「──十日前の事だ。司教の立会いの下、火刑が執行された」
続くシャルルの声は冷たくも温かくもなく、その事実に対して何の感慨も伺えない口調は、砂交じりの風のようだった。
それが余計に彼の存在を虚ろな影と感じさせた。
「最後まで主の名を唱えながら、天に召されたそうだ。
その潔い姿にイングランド兵すら涙を流したとか──」
そうだ。あの娘は何の罪も穢れも無い乙女だったのだ。
それがいかなる理由をもってここまで貶められ、辱められて殺されなければならないのか。
「──お前のせいだ」
答えは、思わぬ形で齎された。
「全てお前のせいだ。男爵。
この薄汚い、血に飢えた化物め──」
ここで初めて、シャルルの言葉に確かな感情の火が点された。
底知れない憎悪という、暗く冷たい、それでいて向けられる者の全てを焼き尽くさんとする炎のような、暴力的な感情が。
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