──今でも時々思ってしまう。
あの時、あの場所、あの光の中へ戻る事が出来たなら、と。
だが、無窮なる時の流れの中で、既に歴史と成った過去に、『もしも』という個人の希望的観測が入り込む余地など、決してない。
時間というものは本当に残酷で、かつてはあれほど鮮やかに思い描いていた夢も、大切に懐いていた温もりさえも、ことごとくこの手から奪い去っていってしまう。
ただ、この意識だけが、夜道の途中で独り、取り残されたまま。
痛みと後悔の記憶が覆される事は無い。
焼き付いた傷が癒される事も無い。
無欠なものなどない道程。
だが、それでも。
かつて分かち合った栄光と、支え合った願いは、過ちではなかったと、誇れるものであったと、胸を張ることが出来るから。
まだ自分は戦える。
進み続ける事が出来るのだ。
◆◆◆
1429年7月17日。
フランク王国初代王クローヴィスより千年、国王擁立の地としての格式を誇るランス大聖堂にて、王太子シャルルは、晴れてフランス国王・シャルル7世として即位した。
今やフランス軍の勢いは留まる事を知らず、要の地であるオルレアン開放に始まり、近隣のジャルジョー、マン、ボージャンシーと連戦連勝を重ね、パティでイングランド軍を圧倒する事に成功した。
しかしながら、未だ肝心のパリはイングランド側の手にあり、軍人のジルとしては、手放しに喜べる完勝とは言えなかったのだが、それでも式典に列席した貴族や騎士、民衆の熱狂は凄まじかった。
とはいえ、確かにアザンクールでの大敗から、ここ十年以上、フランスは長らく勝利の女神にそっぽを向かれたままだったのだから、彼らが歓喜し勝利に酔うのも無理は無い。
……正直、自分とて、オルレアンへ向けて兵を挙げた時には、これほど早くランスへ辿り着く事が出来るとは、夢にも思っていなかったのだから。
その奇跡とも言える凱旋を可能とした少女が、こちらに向ってどことなく頼りない足取りで傍らにやって来るのを認めると、ジルはふらついて倒れそうになった彼女の身体を、慣れた手つきで素早く抱き留めた。
「大丈夫ですか?ジャンヌ」
「……ええ。大丈夫です。あれほど立派な式典になるとは思っていなくて……ちょっとびっくりしてしまっただけです」
気遣いのこもった深い碧の瞳に、『オルレアンの聖女』こと、ジャンヌ=ダルクは照れたように微笑んだ。
しかし言葉とは裏腹に、その顔色はお世辞にも良いとは言い難いものだ。
いくら『聖女』、『救世主』と誉めそやされても、彼女は元々貴族でも騎士でもない、ただの村娘に過ぎない。自分のような人の皮を被った怪物とはわけが違う。
村娘にしては、そこいらの貴族の娘よりよほど度胸も気品も備わっていたが、ジルにとっては、初めて出会った時から、あくまでも彼女は庇護すべき対象であり──凍えて冷え切った心に甘やかな『幸福』とも言える感情を齎してくれる存在だった。
それを多くの人が『恋』と呼ぶものだと自覚したのは、どの戦いの時だったろう──?
「御身は既に貴女だけのものではないのです。
このところあまり体調が優れないご様子。
無理をなさいますな」
「ふふ、貴方の目は誤魔化せませんね。将軍。
……いいえ、もう元帥閣下でしたね。ごめんなさい」
オルレアン開放の功績により、名将アルテュール=リッシュモンが退いたままになっていたその地位へ、二五の誕生日を待たずして身を置く事になった戦友を、聖女は柔らかく目を細め、誇らしげな微笑みで祝う。
彼女の忠実なる騎士は小さく頭を振った。
「私がこのような身に余る栄光を得る事が出来たのも、全てはジャンヌ、貴女のおかげです。
貴女とて、それだけの労を称えられる資格はあるのですよ?
いくら貴女が平民の出身であろうと、陛下も軍功目覚しい臣下に対しては、相応の処遇をされるでしょう」
「でも、私は別にそのようなものが欲しくて参軍したわけではありませんし……」
この言葉に、ジルは彼にしては珍しく、おどけたように肩をすくめてみせた。
「それを言うなら、私とて別に元帥になりたくて戦っていたわけではありませんよ。今も『元帥』と呼ばれても自分の事だとはまるで思えませんしね。
どうせ貴女に呼んで頂けるなら、よほど名前で呼んで頂けた方が嬉しいです」
「え?」
「こんなところで恨み言も何ですが……お付のドーロンやアランソン公は名前で呼んで下さるのに、私だけは貴女に名前で呼んで頂いた事が一度もないのです」
本当によほど悔しかったのか、大真面目な顔で睨んでくる。なまじ整った容姿をしているだけに威圧感は並大抵のものではない。いつにない剣幕を見せる若い元帥に、ジャンヌは酷く慌てた様子で、
「そ、そうでしたか?……あ、貴方が兵を纏めて下さっていたのは事実でしたし、ご無礼がないようにと、思っての事だったのですが……えーと……」
頭一つ分よりも高い位置から見下ろしてくる彼に向って、心底申し訳なさそうな上目遣いで訴える。
「……すみませんでした、ジル」
ぽつりとこぼした後、彼女は自分の失言に気がつき、耳まで真っ赤になった。
「いやだわ私!
ごめんなさい!レイ男爵!けっして!けっしてそんなつもりでは……!」
必死に取り繕うとする少女の様子に、冷淡な態度を保っていたジルだったが、とうとう堪えきれずに吹き出した。
「……貴女でもそんなお顔をされる事はあるのですね」
笑い過ぎてこぼれ出した涙をぬぐいつつ、相手を安心させるように、くしゃりと色素の薄い髪を撫でてやる。
「貴女がそうお呼びになりたいのであれば、別に私はいっこうに構いませんよ? 私も貴女を『乙女』ではなく、こうしてジャンヌと呼ばせて頂いているのですからね。
それに実際、その方がより嬉しいですし」
「本当に……?」
「聖女に嘘はつけませんよ。
ただ、アランソン公達の目が気になるのであれば、その時は『レイ男爵』で結構ですので。
二人だけの時は、どうぞお気軽に呼び捨てて下さい」
「……お気軽になんて無理です。
……だって私……」
「いかがされましたか?」
何やらもごもごと口篭るジャンヌに、相変わらず遠慮なく整った顔を近づけてくる少年のような元帥。
「……なんでもありません!」
肩をいからせ、ぷいっと上気させた顔を背ける彼女を見て、そういった駆け引きの機微に疎いジルはわけが分からず、怪訝な顔をするしかなかった。
……それが傍から見てどんなに他愛の無い会話でも、あの頃は一つ一つの触れ合いがまるで宝石のようだった。
でも、勝利の声が早かったように、幸福の終局を告げる鐘もまた、響くのは早かったのだ。
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