──残念ながら、ルーアンでの交戦からしばらくの間、件のジル=ド=レイと顔を会わせる機会には恵まれなかった。
神父としての素養に難があろうとも、彼──フランソワーズ=プレラーティが当代随一の魔術師であり悪魔祓い師である事に変わりはなく、用事であれば、主の代行者たる法王の御名の下、異形の戦場に馳せ参じなければならない。
結果、焦らされば焦らされるほど、内に秘めた思慕の情は膨れ上がり、苛立ちと共に彼の仕事をより大胆かつ残酷なものにした。
この時、狩り出された異端者達は真に不運だったとしか言いようがない。
それでも、その果てない欲望が行き着く先にいる哀れな若者よりは、まだ救いがあったとも考えられる。
さて──我が愛しの騎士殿は如何お過しでしょうか。
報告によると、捕らえられて以来、与えられる水や食事には一切手を付けず、ただされるがまま、甘んじて責め苦の限りに耐え続けているらしい。
当然、本来彼が力を奮うのに最も必要な血を補う事が出来なくなってからも随分久しくなる。糧を断ったまま、時に意識を失う程苛烈な拷問を受け続けているのであれば、いい加減、人としての体裁を保つのも難しくなってきている頃だろうに、その超人的な精神力でもって魔性の本能を抑えこみ、座して静かに瞑目する姿は、まるで死期を悟った聖者のようだとか。
おかげでここにきてお偉方の中には『彼が吸血鬼だというのは、何かの悪い冗談なのではないか』と言い出す者が出て来る始末だ。現場の人間としては、冗談で精鋭の退魔師を10名以上殺されてたまるかと言いたいところだが。
最もそういう潔いところこそが彼の一番好ましいところであるから、そう簡単に堕落してもらっては自分としても困る。
──それを成すべきは私の役目なのですから。
少しずつ、チェスの盤面を詰めていくように、じわりじわりと、抜かりなく責め立てて、あの端麗な顔が苦痛に歪み、透徹とした瞳が絶望で濁っていく様を心ゆくまで愉しむのだ。
そして、翼をもがれた鳥が、もはや飛翔する誇りすら忘れてしまった暁には、その救われない魂が腐り落ちて消え去るまで存分に飼い馴らしてやろう。
美しいもの、汚れのないものを蹂躙し、愛しいそれが苦しみの果て壊れゆく様を見つめる事に至上の喜びを感じる……プレラーティはそういう類の人間だった。
今まさに自分がこの希代の悲劇にさらなる彩りを添える様に想いを馳せつつ、陰気な地下牢への道行を、まるで夜半の繁華街へでも繰り出す若者のような軽い足取りで下りていく。
やがて口汚い罵りの言葉と、激しい打擲の音に混じって、くぐもった苦鳴の声が耳に入ってくるようになる。
果たして、長い石段の突き当たりに、目指すべき鳥籠はあった。
安価な獣脂の燃える臭いに混じって、慣れぬ者であれば足を踏み入れた瞬間、むせ返り、知らず顔をしかめたくなるような刺激が鼻をつく。
虜の身とは言え、およそ一国の要職にあった大貴族に施されるものではない劣悪な環境の下、理不尽なまでの暴力に曝されつつ、未だ憐れにも正気を保ったまま、誇り高き騎士はそこにいた。
こうして想人と再会果たすまでに要した時間は、自分の感覚だと随分長く感じたものだが、実際はせいぜい投獄から10日ばかりしか経っていないはずだった。
しかし今や騎士の姿は、かつてランスで対面した頃からは想像もつかない程変わり果てていた。
武装や貴族としての権威を象徴する装飾の類が全て取り上げられているのはもちろんの事、仕立ての良かった着衣は、牢内を引きずられ、壁に打ち付けられているうちに、擦り切れ破れ、処々に血痕を散らした凄惨な状態になっている。
何より騎士自身の様相が尋常ではなかった。闇の中にも浮かび上がるように白かった肌は垢じみて薄汚れ、かさついた唇の端は切れて血を滲ませている。
そして……最も彼を彼たらしめていたであろう、北フランスでは珍しい見事な青みを帯びた黒髪については、今や見る影もない。折檻に耐えるべく、丸められた背を伝い落ちる流れは、すっかり色素を失い、まるで老人のような混じり気のない白へと輝きを変じていた。
それでもなお、変わらないものもある。
例えば、それは武人としての強い矜持の下、情けは請うまいと引き結ばれた口許であったり、世界に自分が愛されてある事を信じて疑わないような揺るぎのない眼差しといったものであったが、それよりなにより、こうして窶れ果ててさえ、彼の類い稀な美しさは匂い立つようだった。
──そうだ。やはり貴方はそうでないと。
知らず、プレラーティの唇は喜悦の笑みに歪んだ。
「ごきげんよう騎士殿。それそろ口を割る気にはなってくれましたか?」
雇い主である神父が牢内に入ってくる気配を察して、ようやく牢番達の手が止まる。
襟首を掴まれ、無造作に訪問者の足元へ投げ出された青年は、か細い喘ぎを漏らし、石畳の上に突っ伏したまま動かなくなった。
「おやおや、あの勇ましさはどうしてしまわれたのです。貴方の憎いプレラーティがここにおりますよ?」
頭上から降りかけられたおよそ場にそぐわない甘やかな声に、青年の指先がわずかに震えるが、もはや込める力も尽き果てた腕は、上体を起こす事すら叶わず、その爪はただ虚しく石畳の上に溜まった埃を削るに留まる。
──否、指先に爪など一枚もない。
拷問に際して一枚、一枚剥ぎ取られていったそれは、未だ再生されずに、あるべき場所には赤黒く血がこびりついているだけだった。
「ああ、こんなに弱ってしまわれて……きちんとお食事を採られないからですよ」
言葉だけはあくまでも白々しいほど慇懃に、神父の姿を借りた悪魔は青年の前で膝を折ると、その輝きを失った髪に指を絡め、さながら慈母のごとく愛おしげにかき上げる。
待ち望んだこの瞬間に、しばしえもいわれぬ興奮からか、絡めた指先を振るわせたプレラーティであったが、
「……おい」
──それもつかの間。途端、端麗な顔をしかめ、傍らに控えていた牢番達に声を荒げていた。
「顔に傷がついているじゃないか」
申し訳程度の明かりが置かれているだけの牢内は昼なお暗く、足を踏み入れた時分には全く気がつかなかったが、長い髪に隠れていた青年の右目は無惨にも醜く潰されており、瞼の下に隠れた瞳は、完全に光を失っているようだった。
「ああ、ご指示の通り直接は殴っちゃいないんですが、よろけた時のあたりどころが悪かったんでしょうね──」
言葉は最後まで続かず、唐突に途切れた。
されるがままに髪を弄ばれていた青年が、片方しかない目で瞠目する。
悪びれなく答えた牢番に返ってきたのは、理解を示す頷きではなく、憤怒に任せた魔術の一撃だった。
認識を超えたあまりの事態に、周囲がただ立ち尽くす中、一瞬のうちに頭部の上半分を吹き飛ばされた兵士の身体は前のめりに倒れ込むと、あたりの床に脳漿と血液とを撒き散らす。
「……なんという事を」
しかし己が引き起こした酸鼻窮まる光景など全く目に入ってこないのか、恐るべき異端の神父の関心はあくまでも手にした玩具を傷つけられた事に始終していた。
「ふざけるなよこの屑共!あれほど!あれほど言い聞かせたはずだろ!
顔だけは!顔だけは決して傷つけるなと──
それを……『当たり所が悪かった』だぁ?とぼけるのも大概にしろよ無能が!
よろけてかすっただけでこんな傷になるか?ああ!?」
前線の傭兵もかくやという程に一変した口調の主は、言葉も無い牢番の一人に掴みかかると、細腕に似合わぬ怪力で、有無を言わさずその顔面を壁へと叩きつけた。
「ほら!こうして!こうして!
こうして何度も!痛めつけたんだろうがッ!
はっ!そんな言い訳なんざ!見え見えなんだよッ!」
湧き上がる激情に突き動かされるまま、許しを請う声が聞こえなくなり、やがて弛緩し切った身体の重みを腕に感じるまで、理不尽な暴行は続くかに見えた。
そして実際、プレラーティはそのつもりでいた。『彼』の声を聞くまでは。
「……やめろ」
か細いが、凛然とした否定の意思が込められた響きが、嗜虐の熱に犯された鼓膜に届く。
「無益な殺生はやめろ……プレラーティ……」
ただそれだけの事で、たちまち、憤怒に彩られていた美貌が、見る者を総毛立たせるような危うい笑みに包まれた。
「ああ……やっと名前を呼んで下さったのですね」
不気味なほど無邪気な喜びが滲んだ声を上げて、プレラーティは青年に振り返った。
「流石は聖女の騎士。痛めつけられた相手でも救いの手を差し伸べますか。いや、何とも慈悲深い。
良かったですねぇ……貴方のような屑でも、この騎士殿は人としての情けをかけて下さるそうですよ?」
プレラーティの問いかけに牢番は答えない。彼は神父に首筋を掴まれたまま、頭蓋に甚大な損傷を被った末、そのままこと切れていた。
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