還り着く場所(18)
……一体あれからどれくらいの日数が経過したのか。
牢へと近づいてくる複数の気配に、つとジルは顔を上げた。
外界から隔離された地下牢に流れる時間感覚は非常に曖昧で、更に消耗しきった身体がそれに追い打ちをかけた。
──否、実際のところ身体は食を断っていた以前と比べれば、殆ど万全と言っても良い状態に回復しているはずだった。それが実感出来ないのは、回復と引き換えに失った精神の均衡のせいだ。
明かりすら贅沢に過ぎる牢獄では、姿見など望むべくもないが、他人の目に映る今の自分は、さぞや呆けた醜態を曝しているのだろう。
どんなに五体の感覚が蘇ろうとも、内に収まった心が萎えてしまっていては、最早、この身は死んだも同然だった。
精神の死、それは肉体の死よりも重い。
乱れていた胸元を軽く整えようとして、思わず自嘲の笑みが血の気の薄い美貌に浮かぶ。
身繕いしたところで、すぐに全てを暴かれる事になるというのに。
既に自分は貴族として──はもとより、人間としてすら扱われていないのだ。体裁を保つ事に何の意味があるというのか。
奴等から見れば、この身はただ自分達と同じ姿をしているというだけの『モノ』であって、都合がいい欲望の捌け口としか映らないのだろう。
石畳に反響する苦鳴も、意思の媒介物としては機能せず、ここではより彼らの酩酊を深くする媚薬へと変ぜられる。
これはきっと、〈彼女〉を守りきれなかった自分への罰。
だとしたら、未だ貴族としての矜持や誇りを固持しようとするのは、実に愚かしく滑稽な事だ。
「閣下。どうやら私は貴方を随分と過小評価していたようです。
貴方はこの腐りきった国の貴族に名を連ねているとは思えないほど、潔い魂をお持ちだ。それ故に、自分の痛みよりも、他人の痛みに敏感なお方と見えます。
ですから、私は貴方により相応しいおもてなしをする事に致しました。
なに、最初は苦しいかもしれませんが、じきに楽しんで頂けるようになるでしょう。
遠慮はいりませんよ。そもそも、貴方にその必要はありませんし、その権利もないのですからね」
そう言って、僧衣を纏った悪魔は新たな自分を使った遊び方を見出した。
彼の趣向が変わるまで行われた『もてなし』も十二分に自分を痛めつけたが、それでもまだ己が内に矜持を保っていられるだけましだった。今は扱いだけならば、はるかに丁重に──さながら淑女に対するかのように──される場合もある。しかし、その『行為』によって受ける屈辱は比較にならなかった。
よくもまぁ、これだけの『物好き』がいるものだ、と思わず笑いたくなるほど、昼夜を問わず薄暗い牢には、悪魔に囁かれ、ソドムの罪に取り付かれた者達が代わる代わる訪れた。あるいは目隠しをされたままどこへともなく連れ出され、渇望を湛えた視線の前へと放り出される。
いずれにしろ、ジルの身に降りかかる災厄は変わらない。牢番とそう変わらない粗野な兵士に嬲られる事もあれば、事が漏れれば家の名誉に関わりかねないような、騎士らしい若者の奔放さに驚かされ──そして時には、同時に複数の者から弄ばれる事もあった。
身体は回復しているのだから、いずれも本来であれば、遅れなどとるはずもない連中ばかりだった。
ただ、腕をほんの一振りすれば、皆、壁に打ち付けられて動かなくなるだろう。
だが、それは適わなかった。
「聡明な貴方ならお分かりになるはずでしょう?
貴方が今、牢に訪れる客人達にその牙をむいたらどうなるか……
まず、ブルターニュの領地におられるご家族を一人ずつ殺します。
それで足りなければ、領民を手にかけます。
あまりに目に余るようでしたら……貴方と『彼女』が苦労して即位させた、大切な国王陛下が崩御されてしまうかもしれませんね」
明日の天気でも問うような軽い口調で、悪魔は言い放った。
あの大聖堂に到るまで、どれほどの血が、命が失われたと思っているのか──そう吠え掛かるのが今や何の意味も持たない事を、ようやく自分は理解していた。
こいつは、外法によって生きる魔術師なのだ。人の世の機微など意に介す存在ではない。
魔術師を屈服させる方法はただ一つ、奴が持つ以上の奇跡を持って示すだけ。
そして、今の自分にはそれを成すだけの力はない──そうである以上、身を焦がすような羞恥と屈辱に、ただ、耐える他はなかった。
「……確かに、今の私には、彼らの相手を拒む理由も資格もなかろうな」
神父の言葉は、ある意味において真実だと思わざるを得ない。
行き着いたそんな皮肉な答えに、軽い溜息が吐いて出た。
自分はどうしようもなく無力だ。しかし『彼女』が世に齎した希望の光は、何としても守らなければ。
そうだ、たとえ死すら適わぬ自分の魂がこのまま魔術師に食いつぶされようとも、『彼女』の理想と『彼女』だけは──
「神よ……私が見失い、そして『彼女』が見出した偉大なる神よ。
まだ呪われたこの身に祈りが許されるのであれば、どうか、『彼女』だけは……貴方の乙女だけは、お救い下さい」
男の自分でさえ、これほど耐え難いのだ。女の身で受けた傷はどれだけのものだったろう。
聞けばあの後、ジャンヌもラ・イールもそう時間を置かずに囚われの身となったのだという。
全てはあの狡猾な魔術師の掌の中だったというわけだ。
自分達の作戦行動は結果として失敗と終わってしまったが、それでも残った他の誰かが──アランソンやデュノワ、リッシュモン、そして何よりシャルルさえ本気で動いてくれれば命だけは助かるかもしれない。
それが叶うのであれば。全ての責任を押し付けられてこの身が捨石にされようとも、いっこうに構わなかった。
しかし……ただでさえ、教会の教えの下、生まれながらに穢れた存在とされる女は、誰かの庇護がなけらば生き難いこの時代だ。
例え、死地から無事脱出出来たとしても、傷ついた心と身体を抱えて『彼女』は生きてゆけるだろうか……戦場では誰よりも勇敢な娘だったが……それでも『娘』なのだ。
「ジャンヌ……私はもう……貴方と添い遂げる事は……」
彼女が愛してくれた自分から、今の我が身はあまりにも変わり果ててしまった。
常々美しいと褒めてくれていた黒髪は心労によるものか、はたまた異能の使い過ぎによるものか、すっかり色が抜け落ち、生まれながらの白子のように一筋残らず白くなっていた。
そして散々冒し尽くされ嬲られ続け、今尚魔術師達の玩具として身体中を切り捌かれるうちに、体感にも狂いが生じたのだろう。
幾度もその狂気によって青年の身体を抉じ開けながら、「もう二度とまともに女は抱けないだろう」と魔術師は嗤っていた。
このまま生き恥を晒すよりはと、あれから何度命を絶とうと試みた事か。
しかし、何らかの一線を越えてしまったらしいこの身は、望まずとも完全な不死を再現するようになっていた。
以前のような中途半端な『不老長寿』や『回復』などではない。生物として出鱈目としか思えない理が、この世界の枠から外れた法に従って実行され、ジルの意志を現世と言う名の地獄に留め続ける。
どれだけの無体をされようと、血や精を注ぎ込まれればたちまち復元してしまう浅ましくもおぞましいこの身体。
いくら精神が拒否しようとも、自己保存の為に本能として身体が行為に対して勝手に応じてしまうのだ。どれだけ冷徹に務めようとも、むしろ積極的、と言えるほどに顕著な反応を示すしなやかな肢体に、群がる獣達は興奮し、我先にと己が命を吐き出した。
絶望のあまり最中に天へと死を乞うた数はもはや思い出せない。しかし舌を噛み切ろうが胸を突こうが、一瞬意識が跳ぶだけで、しばらくすると業火で焼かれるような熱と共に四肢の感覚が戻ってくる。
蔑まれ踏み躙られ、己自身の身体でさえ自分を裏切る──これを地獄と言わず何としよう。いっそ狂ってしまえたなら、どれだけ楽であったか。
しかし器がヒトの醜い欲望を糧にいかな変化を遂げても、皮肉な事にジルの精神は一片の澱みも受け付けることはなく──悪魔の甘言や肉の狂乱に惑わされることも崩れることもなく、その理知と良心を失う瞬間はなかった。
逆にこの悪性に満ちた世界で、己の身体に溺れる者達を俯瞰するように眺めている自分こそ、異常なのではないかと思うようになっていた。
ともあれ、今度こそ自分は真に人外の化物と成り果せたわけだ。
もとより、これほど遊び甲斐のある研究対象を手放す気は、教皇庁にも魔術師にも更々ないだろうが、神の気紛れで自由を得たところで、とても少女の伴侶として胸を張れる身でも立場でもなかった。
もはや常時魔力の解放に慣れきった身体では、抗いがたい衝動を聖性で宥められるはずもなく、相応の血と魂を求め続ける事になるだろう。
それでも、あの慈愛に満ちた少女であれば、己の全てを受け入れてくれたかもしれない。
だが、自分自身がそんな彼女の優しさに甘えるのを赦せそうになかった。
──願わくば、気の利く優しい若者か、世の無常を知る穏やかな年長者と幸せになってくれれば。それで私も報われる──
己が身が日の当たらない場所で末路を迎えようとしている事に後悔はなかった。
ただ、あの誰よりも輝いていた可憐な少女が、身持ちを崩して路地裏で野垂れ死ぬところなど見たくはなかった。
自分だったら、どんなに彼女が罪に穢れようと愛する事が出来るのに。
それが許されぬ願いだと分かっていても、想わずにはいられなかった。
そして今宵もまた、彼を贄とした地獄の宴が始まろうとしている──